僕は彼女を知らない。

 プールサイドに腰をかけて、つま先でパチャパチャとする無邪気な姿。

 怒ったかと思えば、すぐに笑って。

 コロコロと表情が変わって、忙しい。

 元来、女性は男性よりも感受性が豊かゆえに、表情も変わりやすいのかもしれない。

 ただ、淑女たるもの、時には自分の感情をグッと押し殺して、無表情を貫く。

 あるいは、そっと微笑む。

 そうなって、ようやく一人前の女性……何て言う考えは、きっと古いだろうな。

 やはり、僕が求める理想の黒髪の乙女は、もういない。

 そもそも、この女は、髪色こそ黒色だけど、いささか髪が短い。

 ショートヘア、悪くないが……あと、肌色は小麦色だ。

 人それぞれの魅力があるのは重々承知。

 しかし、生粋の日本男児の僕は、やはり生粋の黒髪の乙女を求めてやまない。

 黒髪は流れるように長く、肌はそれと対照的な純白。

 旧時代の人間だと、どうぞ罵ってくれ。

 とりあえず、いま僕の目の前にいるこの女は、まるで僕のタイプではない。

「何だと、このケータロめ!」




      ◇




 跳ね起きた、深夜に。

「ハァ、ハァ……何だ、あいつは?」

 元より、繊細で高貴な紳士たる僕は、微々たることで夜な夜な、目覚めてしまう。

 その際には、愛しの読書をして、また眠りこける。

 だが、今はそんな当たり前のルーチンを失念するほどには、動揺していた。

 どうも、様子がおかしい。

 例の、詐欺まがいのメールが届いてから。

 獏女にはしつこく詰問されるし。

 夜な夜な、うなされて。

 全く、踏んだり蹴ったりだ。

 いっそのこと、その元凶たるケータイを踏み壊してやろうか。

 そうすれば、僕は解放される。

 ついでに、獏女の『おやすみなさい、敬太郎さん♡』という、毎晩のように送られてくるストーキングメールからも解放される。

 ただ、僕からの反応が無くなると、直に会った時が怖いな。

 あいつ、うっかり僕の骨をへし折るくらいの膂力、余裕で持ち合わせているからな。

 人を割りばしのように……いや、もうやめておこう、頭が痛くなって来た。

 いっそ、酒でも飲もうか?

 しかし、この時間に酒を飲んだとあれば、明日の……いや、もう日付をまたいでいるから、今日か。

 1コマの講義に間に合わなくなってしまう。

 春先、僕の人生における最大の汚点を踏んでしまったゆえに、単位がもうギリギリなのだ。

 いま自分は3年生、冬には就職活動もスタートするとか何とか。

 とにかく、公立だけれども、年間の学費はバカにならないから。

 留年する余裕などないのだ。

 したら、親に滅される。

 いや、それは冗談だけど。

 ただ、僕のセンチメンタルハートが終わる、それだけのことだ。

 などと、くだらぬ思考を回している内に、コクリ、コクリと眠気がやって来る。

 普段なら、これしめたものと、この身を委ねるのだけど。

 またぞろ、あの名前も顔も知らぬ女が夢に現れると思うと、怖かった。

 だって、僕は彼女を知らないのに、彼女は僕を知った風に言う。

 僕は友達がいない。

 それは現在に至る過去も同様。

 当然ながら、女性遍歴はゼロ。

 彼女なんていたことがない。

 だから、クズ男よろしく、ワンナイトしたような女、覚えてないぜ、なんていう誠にうらやま……けしからん所業など致していない。

 この身は生まれた時かずっと、潔白なのだ。

 そう、潔白、潔白、潔白。

 だから、あんな女、知らない。

 競泳水着が似合うような、ちょっと可愛らしい、ショートヘアの健康的な小麦肌の女なんて、僕は知らない。

 知らないったら、知らないんだ!

 真夜中、僕は慟哭(どうこく)を上げたかった。

 しかし、それでは『リア充』いや、『リア獣』と同類同列になってしまう。

 それだけは、僕の紳士たるプライドにかけて、許されざること。

 だから、必死に歯を食いしばって、耐える一夜を過ごした。

 おかげで、日が昇る頃、僕は奥歯がとても痛くなっていた。

 けれども、奥歯の将来的な寿命と引き換えに、我が紳士たるプライドを守ったとあれば、それはプラマイゼロ。

 いや、プラマイプラと言っても過言ではない。

 とにかく、僕は勝ったのだ、弱い己に。

 弱い犬ほど、よく吠えると言うじゃないか。

 ワッハッハッハッハッハッハッハッハッハ!

「ワッハッハッハッハッハッハッハッハッハ!」

 直後、

「……えっ、朝から、こわっ……てか、キモ」

 と、恐らくはアパートの隣人からのボソッとしたクレームが入り、僕は意気消沈した。

 どうやら、僕はリア充ではなく、キモ充らしい。

 誰でも良いから、僕を殺してくれ!

 こうして、僕の清々しい朝は、崩壊する。




      ◇




 体と同じで心も回復が遅い僕は、何とか1コマ目の講義に参加したものの、ずっと上の空で。

 2コマ目を終えて昼休みを迎えても、ずっとボケッとしていた。

 それから、3コマ目、4コマ目、とあっという間に無為な時が過ぎて。

 気付けば、夕方になっていた。

 本当に、ダメ人間だと思う。

 ただ、このダメ人間モードにも、メリットはある。

 現在は、うだるように暑い、夏。

 けど、虚無になっていた僕は、あまり暑さを感じることなく。

 この、夕涼みの時間を迎えることが出来た。

 夕涼みとは言っても、普通に暑いけど。

 ジワリ、ジワリ、と僕の数少ないライフゲージを奪おうとして来る。

 まるで、まるで、あの獏女のように。

「こんばんは」

「ひゃんッ!?」

 僕の崇高たる自問自答に無粋な横やりを入れるやつは、果たして誰か?

 もう、その声が耳朶(じだ)に触れた瞬間から、分かっている。

 いや、分かりたくもないのだけど。

「……お前」

「えっ、どうして睨むんですか? ただ、あいさつをしただけなのに」

「お前の存在自体が、僕にとって有害だからだ」

「……美味しそうな指先、食べちゃいたい」

「…………」

 かようなバケモノに好かれてしまったこと、我が人生、最大の不運なり。

 というよりも、我が人生そのものが、業そのものである。

「なーんて、冗談ですよ。敬太郎さんのおゆびさん、もいで天ぷらにしたら美味しそうだなんて、思っていないですよ?」

 日を追うごとにエキセントリックさが増すこのバカ女、いや獏女を何とかして欲しい。

 ただのキチガイである。

 いくら人間ではないとはいえ、ずっと人間として暮らしているのだから、ちゃんと人としての分別をわきまえて欲しい。

 と、コンコンと説教してやりたいが、生憎、僕の唇は震えて上手く動かない状態だ。

 決して、怯えている訳ではない。

 僕はこんな悪女に屈しない。

 そう、これは武者震いなのだ。

 ガクガク、ブルブル。

「もう、時間も時間ですし、今から大人のデートしますか?」

「誰と誰が?」

「私と敬太郎さんが、です」

「断る」

「はい?」

「だから、断る」

「天ぷら」

「ひッ」

 この女は本当に性悪である。

 クソ、こんな時のために、甘いスイーツを用意しておくんだった。

 それがあれば、このバカ女の口にぶちこんで、少しは大人しくなるだろうに。

「実はいま、ダイエット中で、甘いモノを控えているんです、うふふ。敬太郎さんも、最近は私に甘い恋愛小説のイメージ、食べさせてくれませんし」

 ああ、そうだ。

「よし、ならば、今すぐに僕のイメージを食え、恋愛小説の」

「あら、敬太郎さん。もしかして、いま恋愛小説をお持ちなのですか?」

「いや、生憎、そんなモノは僕の趣味ではないから持ち合わせていない。ただ、お前がせびるせいで、自然と読む習慣が身に付いてしまったんだ」

「むふふ、敬太郎さんを、私ごのみに調教してしまったのですね」

「下品な言い方をするな、アバズレが」

「天ぷら」

「ひッ……じゃなくて、今すぐイメージするから、食えッ」

「はーい♡」

 嬉々とするこのバカ女に屈するのは誠に不愉快ではあるが、致し方ない。

 この指を失えば、僕の健やかな読書生活に支障をきたす。

 時には面子よりも実利を取る、これぞ出来る紳士の行いだ。

「敬太郎さん、早く、早くぅ」

 全く、気持ち悪い女だ。

 これで僕このみの黒髪の乙女の見た目をしているのだから、尚のこと。

 さて、仕方がない。この性悪の腹黒、毒々しさを中和するために、こいつ好みの甘々な恋愛小説のイメージを浮かべてやろう。

 数日前、うんうんと唸り、6時間ほどかけて読み終わった。

 途中、何度もトイレにこもった。

 それくらい、苦行だった。

 本を愛する僕だけど、弱点はある。

 しかも、あの女に脅迫されて、無理やりとなると、余計に読書が進まなかった。

 特に、男女の交わりのシーンが4ページにも渡った時、3度ほど吐いた。

 とにかく、そんな苦労をしてまで、読んだ甲斐があった。

 何せ、僕のこの指を守ることが出来るのだから。

 さあ、浮かべ、そして、食せ、獏女よ!

『ケータロの、バーカ!』

 瞬間、僕の崇高なる頭脳に浮かんだのは、苦悶しながら読み終えたゲロ甘な恋愛小説のイメージではない。

 数日前から、僕を苦しめてやまない、詐欺メールの女……なのか?

 ショートヘアで、小麦肌で、競泳水着の……僕の好みとは正反対だけど、世間一般的にはまあ、美少女と呼ばれてもおかしくない、そんな女。

「……ぺっ」

 目の前で、獏女が吐き捨てる所作を見せた。

「ちょっとかじってみましたけど……何ですか、コレ?」

「あ、いや、あれ、おかしいな……」

「浮気ですか? もう例の、詐欺メールの女と会ったんですか? 結局、騙されたんですか? 敬太郎さん、あなたはバカなんですか?」

「なっ、この僕がバカだと? お前にだけは言われたくないぞ、バカ女!」

「天ぷら」

「ひッ……や、やれるものなら、やってみろ!」

「言いましたね? では、指でもがれるのと、歯で食いちぎられるの、どちらがお好みですか?」

 究極の2択、いや、地獄の2択を迫られる。

「お、お前にやられるくらいなら、自分でやる」

「まっ、敬太郎さん。何だかんだ、男の人ですね。自ら、ケジメをつけるだなんて」

「怖いこと言うな、バカ。僕はそんな世界に足を踏み入れたくない! 黒髪の乙女と、ひたすらに『きゃっきゃ、うふふ』と戯れる、そんな世界にいたいんだ!」

「ここにいるじゃありませんか、その黒髪の乙女が」

「黙れ、偽物が」

「じゃあ、こっちの指はもいで、こっちは食いちぎって……」

「助けてええええええええええぇ!」

 紳士たるもの、いつだって清廉高潔、冷静沈着でなければならない。

 そう心得ている僕をもってしても、この異常な女を前に、奇声を上げられずにはいられないかった。

「――あれ、ケータロ?」

 なぜだか、聞き覚えのある声がした。

 ハッとして振り向くと、なぜだか見覚えのある女がそこにいた。

 ショートヘアで、小麦肌で……

「……あれ、競泳水着ではないな」

「ハァ~? あんた、この……ムッツリスケベ!」

 それは否定しないが……いや、そうじゃなくて。

「君は……誰だ?」

「あんた、そういう……まあ、あたしも悪かったけど……あんただって、ひどかったんだからね」

 見知らないはずの女は、キッと僕を睨んで言う。

「いや、だから本当に、君は……」

「あらあら、どうも、詐欺まがいのストーカーさん」

 と、間に割って入ったのは、バカ女。

「あなた、蒼井渚さん……ですよね?」

「えっ、そうですけど……ていうか、あなたは誰?」

「私、木野宮桜と申します。こちら、諸井敬太郎さんの、恋人です」

「……そうなの?」

 ショートヘアが似合う彼女は、わずかに瞳を歪めて言う。

「いや、違う、断固として」

「天ぷら」

「ひゃわああああああああああぁ!」

 ジュージューと揚げられる自分の指を想像して、ゾッとした。

「えっ、なにこの感じ……もしかして、あなたこそ、ケータロのストーカー?」

「はぁ? ぶちころしますよ、浮気女さん?」

「誰が、あたしは、ケータロの……」

 と言いかけて、ショートヘアの彼女は、揺れる瞳で僕を見た。

「敬太郎さんの、何ですか?」

「……あんたには教えない」

「ほぅ~? 強情なお嬢さんですね~? 食べてしましましょうか?」

「おい、バカ女、その辺にしておけ」

 僕が思わずショートヘアの彼女をかばうように立ちはだかると、

「ちょっと、敬太郎さん? その浮気女ともども、ぶちころしますよ?」

「とりあえず、落ち着け。彼女は……」

 僕は背後の、戸惑ったような、怯えたような、そんな彼女のことを見て、何だか胸の奥底が締め付けられるような気がした。

「……ちっ、分かりましたよ」

 腹黒女も、一応は分別があるらしい。

「じゃあ、これから敬太郎さんのアパートに行って、たっぷりこってり、搾りつくしてあげますからね~?」

 こいつなら、マジでやりかねない。

「おい、君。この女、本当にヤバい奴だから。今の内に逃げておくのが、正解だぞ?」

 と、僕はショートヘアの彼女に助言する。

 しかし、彼女は首を横に振った。

「ううん、あたし、逃げないよ」

 姿勢を正して、獏女を見据えていた。

「あらあら、面白いお嬢さんですね。これはもう、ぶちころしがいがありますよ」

「なあ、頼むから、僕のアパートを殺人現場にしないでくれ」

「安心してください、敬太郎さん。証拠隠滅は、お任せを」

「何を安心しろって言うんだ」

 このバカ女の額をひっぱたいてやりたい。

 まあ、そんなことしたら、倍々カウンターを食らうから、しないけど。







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