2
僕は彼女を知らない。
プールサイドに腰をかけて、つま先でパチャパチャとする無邪気な姿。
怒ったかと思えば、すぐに笑って。
コロコロと表情が変わって、忙しい。
元来、女性は男性よりも感受性が豊かゆえに、表情も変わりやすいのかもしれない。
ただ、淑女たるもの、時には自分の感情をグッと押し殺して、無表情を貫く。
あるいは、そっと微笑む。
そうなって、ようやく一人前の女性……何て言う考えは、きっと古いだろうな。
やはり、僕が求める理想の黒髪の乙女は、もういない。
そもそも、この女は、髪色こそ黒色だけど、いささか髪が短い。
ショートヘア、悪くないが……あと、肌色は小麦色だ。
人それぞれの魅力があるのは重々承知。
しかし、生粋の日本男児の僕は、やはり生粋の黒髪の乙女を求めてやまない。
黒髪は流れるように長く、肌はそれと対照的な純白。
旧時代の人間だと、どうぞ罵ってくれ。
とりあえず、いま僕の目の前にいるこの女は、まるで僕のタイプではない。
「何だと、このケータロめ!」
◇
跳ね起きた、深夜に。
「ハァ、ハァ……何だ、あいつは?」
元より、繊細で高貴な紳士たる僕は、微々たることで夜な夜な、目覚めてしまう。
その際には、愛しの読書をして、また眠りこける。
だが、今はそんな当たり前のルーチンを失念するほどには、動揺していた。
どうも、様子がおかしい。
例の、詐欺まがいのメールが届いてから。
獏女にはしつこく詰問されるし。
夜な夜な、うなされて。
全く、踏んだり蹴ったりだ。
いっそのこと、その元凶たるケータイを踏み壊してやろうか。
そうすれば、僕は解放される。
ついでに、獏女の『おやすみなさい、敬太郎さん♡』という、毎晩のように送られてくるストーキングメールからも解放される。
ただ、僕からの反応が無くなると、直に会った時が怖いな。
あいつ、うっかり僕の骨をへし折るくらいの膂力、余裕で持ち合わせているからな。
人を割りばしのように……いや、もうやめておこう、頭が痛くなって来た。
いっそ、酒でも飲もうか?
しかし、この時間に酒を飲んだとあれば、明日の……いや、もう日付をまたいでいるから、今日か。
1コマの講義に間に合わなくなってしまう。
春先、僕の人生における最大の汚点を踏んでしまったゆえに、単位がもうギリギリなのだ。
いま自分は3年生、冬には就職活動もスタートするとか何とか。
とにかく、公立だけれども、年間の学費はバカにならないから。
留年する余裕などないのだ。
したら、親に滅される。
いや、それは冗談だけど。
ただ、僕のセンチメンタルハートが終わる、それだけのことだ。
などと、くだらぬ思考を回している内に、コクリ、コクリと眠気がやって来る。
普段なら、これしめたものと、この身を委ねるのだけど。
またぞろ、あの名前も顔も知らぬ女が夢に現れると思うと、怖かった。
だって、僕は彼女を知らないのに、彼女は僕を知った風に言う。
僕は友達がいない。
それは現在に至る過去も同様。
当然ながら、女性遍歴はゼロ。
彼女なんていたことがない。
だから、クズ男よろしく、ワンナイトしたような女、覚えてないぜ、なんていう誠にうらやま……けしからん所業など致していない。
この身は生まれた時かずっと、潔白なのだ。
そう、潔白、潔白、潔白。
だから、あんな女、知らない。
競泳水着が似合うような、ちょっと可愛らしい、ショートヘアの健康的な小麦肌の女なんて、僕は知らない。
知らないったら、知らないんだ!
真夜中、僕は慟哭(どうこく)を上げたかった。
しかし、それでは『リア充』いや、『リア獣』と同類同列になってしまう。
それだけは、僕の紳士たるプライドにかけて、許されざること。
だから、必死に歯を食いしばって、耐える一夜を過ごした。
おかげで、日が昇る頃、僕は奥歯がとても痛くなっていた。
けれども、奥歯の将来的な寿命と引き換えに、我が紳士たるプライドを守ったとあれば、それはプラマイゼロ。
いや、プラマイプラと言っても過言ではない。
とにかく、僕は勝ったのだ、弱い己に。
弱い犬ほど、よく吠えると言うじゃないか。
ワッハッハッハッハッハッハッハッハッハ!
「ワッハッハッハッハッハッハッハッハッハ!」
直後、
「……えっ、朝から、こわっ……てか、キモ」
と、恐らくはアパートの隣人からのボソッとしたクレームが入り、僕は意気消沈した。
どうやら、僕はリア充ではなく、キモ充らしい。
誰でも良いから、僕を殺してくれ!
こうして、僕の清々しい朝は、崩壊する。
◇
体と同じで心も回復が遅い僕は、何とか1コマ目の講義に参加したものの、ずっと上の空で。
2コマ目を終えて昼休みを迎えても、ずっとボケッとしていた。
それから、3コマ目、4コマ目、とあっという間に無為な時が過ぎて。
気付けば、夕方になっていた。
本当に、ダメ人間だと思う。
ただ、このダメ人間モードにも、メリットはある。
現在は、うだるように暑い、夏。
けど、虚無になっていた僕は、あまり暑さを感じることなく。
この、夕涼みの時間を迎えることが出来た。
夕涼みとは言っても、普通に暑いけど。
ジワリ、ジワリ、と僕の数少ないライフゲージを奪おうとして来る。
まるで、まるで、あの獏女のように。
「こんばんは」
「ひゃんッ!?」
僕の崇高たる自問自答に無粋な横やりを入れるやつは、果たして誰か?
もう、その声が耳朶(じだ)に触れた瞬間から、分かっている。
いや、分かりたくもないのだけど。
「……お前」
「えっ、どうして睨むんですか? ただ、あいさつをしただけなのに」
「お前の存在自体が、僕にとって有害だからだ」
「……美味しそうな指先、食べちゃいたい」
「…………」
かようなバケモノに好かれてしまったこと、我が人生、最大の不運なり。
というよりも、我が人生そのものが、業そのものである。
「なーんて、冗談ですよ。敬太郎さんのおゆびさん、もいで天ぷらにしたら美味しそうだなんて、思っていないですよ?」
日を追うごとにエキセントリックさが増すこのバカ女、いや獏女を何とかして欲しい。
ただのキチガイである。
いくら人間ではないとはいえ、ずっと人間として暮らしているのだから、ちゃんと人としての分別をわきまえて欲しい。
と、コンコンと説教してやりたいが、生憎、僕の唇は震えて上手く動かない状態だ。
決して、怯えている訳ではない。
僕はこんな悪女に屈しない。
そう、これは武者震いなのだ。
ガクガク、ブルブル。
「もう、時間も時間ですし、今から大人のデートしますか?」
「誰と誰が?」
「私と敬太郎さんが、です」
「断る」
「はい?」
「だから、断る」
「天ぷら」
「ひッ」
この女は本当に性悪である。
クソ、こんな時のために、甘いスイーツを用意しておくんだった。
それがあれば、このバカ女の口にぶちこんで、少しは大人しくなるだろうに。
「実はいま、ダイエット中で、甘いモノを控えているんです、うふふ。敬太郎さんも、最近は私に甘い恋愛小説のイメージ、食べさせてくれませんし」
ああ、そうだ。
「よし、ならば、今すぐに僕のイメージを食え、恋愛小説の」
「あら、敬太郎さん。もしかして、いま恋愛小説をお持ちなのですか?」
「いや、生憎、そんなモノは僕の趣味ではないから持ち合わせていない。ただ、お前がせびるせいで、自然と読む習慣が身に付いてしまったんだ」
「むふふ、敬太郎さんを、私ごのみに調教してしまったのですね」
「下品な言い方をするな、アバズレが」
「天ぷら」
「ひッ……じゃなくて、今すぐイメージするから、食えッ」
「はーい♡」
嬉々とするこのバカ女に屈するのは誠に不愉快ではあるが、致し方ない。
この指を失えば、僕の健やかな読書生活に支障をきたす。
時には面子よりも実利を取る、これぞ出来る紳士の行いだ。
「敬太郎さん、早く、早くぅ」
全く、気持ち悪い女だ。
これで僕このみの黒髪の乙女の見た目をしているのだから、尚のこと。
さて、仕方がない。この性悪の腹黒、毒々しさを中和するために、こいつ好みの甘々な恋愛小説のイメージを浮かべてやろう。
数日前、うんうんと唸り、6時間ほどかけて読み終わった。
途中、何度もトイレにこもった。
それくらい、苦行だった。
本を愛する僕だけど、弱点はある。
しかも、あの女に脅迫されて、無理やりとなると、余計に読書が進まなかった。
特に、男女の交わりのシーンが4ページにも渡った時、3度ほど吐いた。
とにかく、そんな苦労をしてまで、読んだ甲斐があった。
何せ、僕のこの指を守ることが出来るのだから。
さあ、浮かべ、そして、食せ、獏女よ!
『ケータロの、バーカ!』
瞬間、僕の崇高なる頭脳に浮かんだのは、苦悶しながら読み終えたゲロ甘な恋愛小説のイメージではない。
数日前から、僕を苦しめてやまない、詐欺メールの女……なのか?
ショートヘアで、小麦肌で、競泳水着の……僕の好みとは正反対だけど、世間一般的にはまあ、美少女と呼ばれてもおかしくない、そんな女。
「……ぺっ」
目の前で、獏女が吐き捨てる所作を見せた。
「ちょっとかじってみましたけど……何ですか、コレ?」
「あ、いや、あれ、おかしいな……」
「浮気ですか? もう例の、詐欺メールの女と会ったんですか? 結局、騙されたんですか? 敬太郎さん、あなたはバカなんですか?」
「なっ、この僕がバカだと? お前にだけは言われたくないぞ、バカ女!」
「天ぷら」
「ひッ……や、やれるものなら、やってみろ!」
「言いましたね? では、指でもがれるのと、歯で食いちぎられるの、どちらがお好みですか?」
究極の2択、いや、地獄の2択を迫られる。
「お、お前にやられるくらいなら、自分でやる」
「まっ、敬太郎さん。何だかんだ、男の人ですね。自ら、ケジメをつけるだなんて」
「怖いこと言うな、バカ。僕はそんな世界に足を踏み入れたくない! 黒髪の乙女と、ひたすらに『きゃっきゃ、うふふ』と戯れる、そんな世界にいたいんだ!」
「ここにいるじゃありませんか、その黒髪の乙女が」
「黙れ、偽物が」
「じゃあ、こっちの指はもいで、こっちは食いちぎって……」
「助けてええええええええええぇ!」
紳士たるもの、いつだって清廉高潔、冷静沈着でなければならない。
そう心得ている僕をもってしても、この異常な女を前に、奇声を上げられずにはいられないかった。
「――あれ、ケータロ?」
なぜだか、聞き覚えのある声がした。
ハッとして振り向くと、なぜだか見覚えのある女がそこにいた。
ショートヘアで、小麦肌で……
「……あれ、競泳水着ではないな」
「ハァ~? あんた、この……ムッツリスケベ!」
それは否定しないが……いや、そうじゃなくて。
「君は……誰だ?」
「あんた、そういう……まあ、あたしも悪かったけど……あんただって、ひどかったんだからね」
見知らないはずの女は、キッと僕を睨んで言う。
「いや、だから本当に、君は……」
「あらあら、どうも、詐欺まがいのストーカーさん」
と、間に割って入ったのは、バカ女。
「あなた、蒼井渚さん……ですよね?」
「えっ、そうですけど……ていうか、あなたは誰?」
「私、木野宮桜と申します。こちら、諸井敬太郎さんの、恋人です」
「……そうなの?」
ショートヘアが似合う彼女は、わずかに瞳を歪めて言う。
「いや、違う、断固として」
「天ぷら」
「ひゃわああああああああああぁ!」
ジュージューと揚げられる自分の指を想像して、ゾッとした。
「えっ、なにこの感じ……もしかして、あなたこそ、ケータロのストーカー?」
「はぁ? ぶちころしますよ、浮気女さん?」
「誰が、あたしは、ケータロの……」
と言いかけて、ショートヘアの彼女は、揺れる瞳で僕を見た。
「敬太郎さんの、何ですか?」
「……あんたには教えない」
「ほぅ~? 強情なお嬢さんですね~? 食べてしましましょうか?」
「おい、バカ女、その辺にしておけ」
僕が思わずショートヘアの彼女をかばうように立ちはだかると、
「ちょっと、敬太郎さん? その浮気女ともども、ぶちころしますよ?」
「とりあえず、落ち着け。彼女は……」
僕は背後の、戸惑ったような、怯えたような、そんな彼女のことを見て、何だか胸の奥底が締め付けられるような気がした。
「……ちっ、分かりましたよ」
腹黒女も、一応は分別があるらしい。
「じゃあ、これから敬太郎さんのアパートに行って、たっぷりこってり、搾りつくしてあげますからね~?」
こいつなら、マジでやりかねない。
「おい、君。この女、本当にヤバい奴だから。今の内に逃げておくのが、正解だぞ?」
と、僕はショートヘアの彼女に助言する。
しかし、彼女は首を横に振った。
「ううん、あたし、逃げないよ」
姿勢を正して、獏女を見据えていた。
「あらあら、面白いお嬢さんですね。これはもう、ぶちころしがいがありますよ」
「なあ、頼むから、僕のアパートを殺人現場にしないでくれ」
「安心してください、敬太郎さん。証拠隠滅は、お任せを」
「何を安心しろって言うんだ」
このバカ女の額をひっぱたいてやりたい。
まあ、そんなことしたら、倍々カウンターを食らうから、しないけど。
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