第2部 青春の帰還
1
少し遅れた初夏の新緑を見た頃合いから、今年も夏はあっという間に到来するのだと予感していた。
夏と言えば、海、スイカ、花火、などなど……楽しいことを思い浮かべるのは、幸せな凡人たちであろう。
しかし、僕はまず、熱気に誘われて活発になる、虫たちの姿が浮かぶ。
幸い、O型ではないから、そこまで蚊に食われることはないけど。
あいつら、まるでドリンクバーみたいに、人の血をちゅーちゅーと吸ってくれるからな。
蚊取り線香は臭いがきついから、お手軽なスプレーをアパートの一室にしておく。
それでも、気休めにしかならず、夜中にプーンと香ばしくもない不愉快な音がした時、気だるさと同時に怒りが湧く。
まあ、僕は常に冷静沈着なる高潔な紳士だから、そんな風に感情に振り回されることはないけど。
せいぜい、「テメッ、このやろッ!」と昭和のガンコ親父風にきかんぼな蚊ちゃんに折檻を食らわせる程度。
それはさておき、夏に活発になる存在は、もう1つある。
これはもはや、虫よりも厄介。虫は無視できても、そいつらは無視できない。
虫は所詮、人間さまには及ばない。
しかし、奴らは同じ人間……いや、同じ人間ながら、ありえないほどの膂力、暴力を振るって来る。
その名を『リア充』と言う。
これまでの僕の人生において、幾度となく現れ、惑わし、妨害して来た。
誠に鬼畜な連中だ。
人が読書にふけっているそばで『いちゃいちゃ、ちゅっちゅっ♡』とするその無粋さ、阿呆さにはほとほと呆れる。
勘違いしないで欲しいが、決して羨ましいなどとは思わない。
『リア充は死ね、爆発しろ!』などと、低俗はやっかみも言わない。
ただ、こいつらは心底、気持ち悪く、おぞましく、礼儀知らずな連中だと罵ってきた。
性欲は人の三大欲求の1つ。
決して、欠かすことは出来ず、無視することは出来ない。
だから、男女でちゅっちゅすること自体は、否定しない。
ただ、時と場所を選べと言う。
とりあえず、学校で、授業中に、イチャつくな。
もちろん、常識ある教師なら、ちゃんと注意をしてくれる。
だが、時々いる、『俺は生徒からの信頼が厚いんだぜマン』な教員は、むしろその状況をいじって、場を盛り上げる。
そのせいで、授業中もずっとザワついて、ロクに集中できやしない。
僕は授業中、静かに、読書がしたかったのに。
数学なんて訳わからんから、活字の海におぼれたかったのに。
そんな僕の崇高な現実逃避を邪魔するだなんて、全くもってひどい連中である。
現実は辛い。本当に辛い。
そんな僕に許された楽園(ユートピア)は、空想、妄想の世界だけ。
空想はまだカッコイイ響きだけど、妄想なんてそれこそ気持ち悪いと思ったそこの君。
決して、間違いではない。
確かに、妄想は気持ち悪い。
けれども、そこに愛しさを見出してはくれないだろうか?
確かに、気持ち悪いけれども。
そもそも、周りに迷惑をかけていない。
バカな『リア充』は周りにも影響を及ぼす。
それは迷惑だ。勝手に自分たちの色に、いやノリに染めないで欲しい。
こちらは、こちらの人生を歩んでいる。
お前らほど、誇らしく、輝かしくないかもしれないけど。
それでも、何よりも愛しい日々を過ごしている。
そんな僕の崇高な歩みを汚さないで欲しい。
その点、妄想はあくまでも自己世界で完結しているから。
他人を巻き込むことはしない。
これが、紳士の流儀だ。
分かるか、リア充?
「はむっ……う~ん、おいしい♪」
孤高の紳士たる僕が崇高たる思考をしている最中、無粋な声が聞こえる。
その声を発した者は、見た目に関しては、決してブスではない。
時代が進み、欧米に浸食される昨今。
すっかり忘れ、失われたと思っている感性。
しかし、幾数千年、数万年の時が流れようとも、人のDNAというのは根本的には変わらない。
我々、日本男児は、黒髪の乙女に弱い。
以上である。
「敬太郎(けいたろう)さんもいかがですか?」
いま僕のとなりに、黒髪の乙女がいる。
ただ、決して勘違いしないで欲しい。
僕と彼女は、決して『いちゃいちゃ、ちゅっちゅ♡』するような仲ではない。
おえっ、想像しただけで、吐き気を催して来た。
こんな時ばかりは、この類まれなる想像力の弊害を感じる。
「いらん、結構だ」
僕は本に目を落としながら言う。
「もう、またそんなツレないこと言って。いちご大福、美味しいですよ?」
「このクソ暑い中、大福などいらん。暑苦しい」
「むっ、それはどういった了見、いえ、偏見ですか?」
見た目だけは一丁前に麗しい黒髪の乙女。
本来なら、そんな人が少女のように口をとがらせたら、そのギャップも相まって、僕は天にも昇るような興奮を得られるだろう。
しかし、この女はあくまでも、見ためだけ。
中身はドロドロしている、腹黒である。
そんな毒々しい自分を中和するために、甘党を気取っているのだ。
まったく、最悪の女である。
「あら、桜(さくら)ちゃん。今日も彼氏さんとデート?」
通りすがりに言うのは、初老のおばさん。
図書館の常連だから、一応は顔なじみだ。
図書館のあるこの公園内を散歩することが日課らしい。
実に健康的で結構なことだ。
「はい、そうなんですぅ~」
このブリッコめが、イラつく。
「すみません、何度も言っていますが、僕はこの女と恋仲にありません」
「もう、敬太郎さんってば。照れ屋さんなんだから~」
この文明世界において、暴力など原始的行為、大いなる退化の象徴。
しかし、僕の繊細でピアニストもかくやな指先がギュッと握り締められ、拳を形づくっているのはなぜだろうか?
相手はバカで腹黒で性悪とはいえ、仮にも女。
清らかな紳士たる僕が、そんな暴力などという愚かな行為を振りかざす訳などない。
静まれ、僕の右手よ……
ピロン♪
そんな僕の願いが通じたのか、タイミングよく(?)、ポッケの携帯が鳴った。
普段なら、崇高な読書の最中、こんな俗物に手を伸ばすことはしない。
しかし、今はこのバカ女のせいでリズムを狂わされている。
だから、気持ちを切り替える意味でも、仕方なく確認する。
どうやら、メールが届いたようだ。
一体、誰だろう?
親以外で、僕にメールをくれる人など……いや、別に寂しくなどない。
僕は孤独を愛する紳士。
むしろ、その静寂が心地いい。
だから、今ちょっと息が『はふっ、はふっ』となっているも、気のせいだ。
僕はポチッとボタンを押す。
『ケータロ、久しぶり。蒼井 渚(あおい なぎさ)です。元気にしている? もうすぐ、夏休みだよね。久しぶりに、会えないかな?』
……聞いたことがある、迷惑メールというやつを。
そうだ、これは詐欺まがいのメール。
ふう、危ない、危ない。
危うく、引っかかるところ……ではなく。
これは、通報案件かな?
「敬太郎さん、タイホです」
となりのバカが言う。
「えっ?」
「よくも彼女の前で堂々と、浮気メールしてくれましたね?」
笑顔のまま、けどその表情に確かな陰を落として、バカ女は言う。
「私、言いましたよね? 浮気したら、骨折りますよって」
「…………」
この女は黒髪の乙女 (見た目だけ)らしく、腕も白く細い。
けど、僕は知っている。
この女が人間ではないことを。
だから、本来の膂力を発揮されたら、僕は全身を真っ二つにへし折られるだろう。
「で、誰ですか? この蒼井渚さんって人は?」
「いや、知らないんだけど……これ、詐欺メールか?」
「詐欺られたのは私です、結婚詐欺です、敬太郎さん、万死に値します」
「誰がお前のようなバカ女と結婚すると言った!」
「お前? バカ女? あれあれ~? 契約はどこに行きましたかね~?」
「えっ?」
「骨折り」
「……桜……さん」
「もう、呼び捨てで良いって言ったじゃないですか~」
うざい……この女は、心底うざい。
常に孤高で上品な僕でいたいのに。
こいつといると、ついつい口調が雑で荒くなってしまう。
うざい、なんて下品な言葉、僕は使いたくないのに。
「あらま、修羅場みたいね、あたしゃ退散するよ」
と、初老の彼女は去って行く。
まあ、賢明な判断だろう。
はぁ、どうして僕は、渦中にいるのだろう。
いつも、蚊帳の外なのに。
研究室の飲み会とか……あぁ、思い出したくもない。
せっかく、文学部に入って同志に会えると思ったのに。
あいつら、そろいもそろって、文学女子との出会い厨ばかりで。
その文学女子だって、みんな髪を染めている。
まあ、大学に入ったら、だいたいの女子は髪を染める。
だからこそ、黒髪の乙女は希少価値が高く、美しい。
けれども、いま僕の目の前にいる、黒髪の乙女は……
「じゃあ、とりあえず、名前を呼び捨てにしてくれたら、許します」
「……くら」
「くら? ああ、私の魅力に、クラッと来ました?」
「いや、イラッと」
「えっ?」
「あっ」
「指先とつま先、どっちからが良いです?」
「折るな、折るな、僕の骨を折るな!」
「ふふ、大丈夫ですよ。とりあえず、小指はいりませんよね?」
「お前、ふざけるな、桜!」
「はい、いただきました~」
ご満悦なこのバカ女に対して、僕は憤慨している。
「ほらほら、そんな怒った顔しないでください。甘いもの食べれば、いつもニッコニコですよ?」
「だから、いらん」
「で、敬太郎さん。その蒼井渚さんって、誰ですか?」
「だから、知らん」
「そうですか……じゃあ、あとでたっぷりじんも……あっ、質問しますね」
「…………」
ああ、神よ。
僕は、リア充みたいに現実の恋人がいなくても。
妄想世界で、理想の黒髪の乙女とたわむれるだけで幸せだったのに。
どうして、こんな仕打ちを……
「……とりあえず、まずは敬太郎さんの好きなお酒で酔わせて……あとは、あばら骨あたりを攻めれば……ククク」
このゾクゾクは、決して興奮している訳ではない。
マジの恐怖だよ。
僕はマゾではない。
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