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昨晩は酒を一滴も飲んでいないというのに、今朝はひどい頭痛に悩まされた。
「……うぅ」
頭の芯を締め付けられるような気分だ。最悪である。一体僕が何をしたって言うんだ。まあしかし、その原因は分かっている。睡眠とは人にとって必要不可欠な生理的行為。マズローの五大欲求階層において、最も基本的なものとされている。その大事な行為を現実逃避なんかに利用したからこのように天罰が下り、結果としてひどい頭痛に悩まされているのだろう。まあそもそも、毛布も何も使わずに床で寝転がったのが最大の原因な気がするが。
僕は軋む身体を起こし、洗面台へと向かう。冷たい水で顔を洗えば、少しは気分も晴れるだろう。そう思ったが、顔を洗い終えた所でタオルが無いことに気が付き、仕方なく日の当たる窓辺で自然乾燥させることにした。とても惨めな気分である。
そのまま窓から差し込む穏やかな春の日差しを浴びていると、インターホンが鳴った。立ち上がって室内にあるその画面を見ると、爽やかなスマイルを浮かべる男性達がずらりと揃っていた。
「こんちは! 枕木引っ越しセンターでーす!」
この春にふさわしい爽やかな笑顔、そして爽やかに伸びて行く声。それはとても感心なことであるが、今そんな大きい声出されたら頭に響くから勘弁してくれ。僕は内心でぶつくさと文句を呟きつつ引っ越し業者を迎え入れた。直に接するとその爽やかさ加減と声の大きさに増々苦しめられたが、僕は大人しく彼らを受け入れ、部屋に荷物を搬入してもらう。爽やかな男達は手際よく荷物を運び、三十分もかからない内に作業を終えた。まあ彼らの手際も見事であるが、僕の荷物がそもそも少ないのだ。精々本がたくさんあってその運搬に多少苦労したくらいであろう。
「それじゃ、失礼しまーす!」
最後まで爽やかスマイルと伸びやかボイスを残し、引っ越し業者は去って行った。僕はその余韻にぐわんぐわんと酔いを感じつつ、室内へと戻った。まだ段ボール箱がいくつか置かれている。その中身はほとんどが本だ。これからその本達を並べればこの殺風景な部屋も少しは華やかになるだろうか。いや、ならないな。
段ボールの封を解き、本を手に取る。先ほどの引っ越し業者のようなテキパキとした動きは到底できないが、その分一冊一冊丁寧に本棚へと収めて行く。時折、懐かしい本を見つけて読み耽ったりしながら、ゆっくりと着実に本棚へと収めて行く。作業が終わったのは昼過ぎ頃だった。
その頃になると頭痛は収まっており、また適度に身体を動かしたことで腹が減っていた。
「コンビニ行くか」
立ち上がった僕は、財布を片手にアパートを出た。
コンビニで弁当を買った後、僕はその足でアパートに戻ろうと思った。だが、春の穏やかな日差しを浴びていると、このままアパートに戻ってひっそりとご飯を食べるのは何だかもったいないと思ってしまう。せっかくだし、たまには外で食べようか。以前住んでいた騒がしいアパートの周辺では絶対にそのような考えには至らなかったが、この閑静な街にいると不思議とそんな気分にさせられてしまう。あとはどこで食べるかだが。腕を組んでしばし悩んだ末、僕はあの図書館がある公園の情景を思い浮かべた。そうだ、あそこで食べよう。桜の花を見ながらベンチに座ってのんびりとランチをいただく。僕は大して食欲のある人間ではないが、その光景を思い浮かべただけで心が弾み、自然と腹も鳴ってしまう。うむ、僕もまだ若い。それなりに健康体ということか。安心した。
コンビニ弁当が入ったビニール袋を小さく振り子させながら、僕は今朝の頭痛が嘘のように軽やかなステップで公園へと歩みを進める。
うららかな午後の公園は安らぎの空気に包まれていた。僕は適当なベンチに腰を下ろし、ほっと一息吐く。ビニール袋から弁当を取り出し、膝の上に置いた。
「いただきます」
育ちの良い僕は礼儀正しくそう言って、弁当のご飯を頬張る。美しい桜の木を見ながらのんびりと食べていると、たかだかコンビニの弁当も上等なレストランの料理に見えてしまうのだから不思議である。まあ、それも想像力が人一倍逞しい僕だからこそ成せる技であろう。非常にリーズナブルに高級な満足感を味わえる、何とも優れた男だと自負してしまう。まあ、これで隣に美しい女性がいてくれれば文句無しなのだが、それこそ僕の逞しい想像力で何とでもできる。さて、昼下がりにコンビニ弁当に舌鼓を打つ僕の隣に寄り添う美女は誰にしようか。最近読んだ小説、映画、あるいはマンガの中でめぼしいヒロインはいただろうか。ぼんやりと宙を見つめ、桃色の思考へと転換して行く。
「あら」
桃色の大海原へと出航しようとしていた時、とても耳触りの良い声が聞こえた。
「昨日、いらした方ですよね?」
おもむろに振り向いた僕の目に飛び込んで来たのは、舞い散る桜の花びらに彩られた、美しい黒髪の乙女だった。桜の花びらと黒髪の乙女、これほどまでに相性が良く、また互いの魅力を引き立て合う存在だったとは。僕の予想を軽く超えていた。
そのあまりにも優美な様に僕はしばし呆然と見惚れていた。口を半開きにして、非常に滑稽な姿を晒していた。
「あの……」
黒髪の乙女が困惑した声を発すると、呆けていた僕はようやく意識を取り戻す。
「あ、いえ、その……どうも」
僕は口ごもりながら、会釈をした。それが精一杯の対応であった。
「こんにちは。ごめんなさい、お食事中に声をかけてしまって」
「いえ、お気になさらず。あの、どうしてこちらに?」
「お昼休みをいただいたので、公園のベンチで昼食を取ろうと思っていたんです。そうしたら偶然、あなたの姿を見つけて。つい声をかけてしまいました。ご迷惑でしたか?」
「そんな滅相もございません。むしろ、光栄の至りでございます」
「うふ、何でそんなにかしこまっていらっしゃるのですか?」
口元に手を添えて、黒髪の乙女は上品に笑う。その手の甲の白さに驚いた。
「いや、はは……」
「あの、お隣よろしいですか?」
瞬間、僕はまたしても呆けた顔で固まってしまう。いつもめくるめく妄想によって色彩豊かな僕の思考回路が、真っ白になってしまう。
「ごめんなさい、いきなりこんなことを言ってしまって……やはりお嫌でしたか?」
はっと視線を向ければ、黒髪の乙女は悲しげに瞳を揺らしていた。僕は紳士であると常日頃から自負している。そんな僕がこんなにも可憐な乙女を悲しませてしまうなんて、許されるはずがない。
「いえ、そんなことはございません。僕のように矮小な人間の隣でよろしければ、いくらでも座って下さい。何なら、僕の膝の上に座って下さい!」
暴走した思考回路によって、とんでもないことを口走ってしまう。もし僕が女性でいきなりそんなことを言われたら確実に引いてしまうだろう。やっちまった、ウルトラミス!
「ふふ、それは遠慮しておきます」
「で、ですよね」
「だって、あなたの膝の上には美味しそうなお弁当が乗っていらっしゃるから」
「あっ……」
「ハンバーグ弁当ですか?」
黒髪の乙女は小首を傾げて尋ねる。
「そ、そうです。ちなみに昨晩もハンバーグ弁当だったのですが、今回はさらにチーズをプラスした『チーズハンバーグ弁当』です。いやはや、香ばしいチーズの香りがたまりませんな」
言い終えた所で、僕はどっと羞恥心に襲われる。僕が食しているのは所詮ただのコンビニ弁当。僕の中ではその豊かな想像力によって高級レストランの料理に勝るとも劣らない領域にまで達しているが、彼女にとってはチープなそれにしか見えないであろう。それを得意げに語る僕の間抜けさ滑稽さと来たら、さしもの黒髪の乙女もその優美な仮面をバリリと剥ぎ取り、「マジで意味不明なんですけど」と『リア充』の冷酷女子ばりに痛烈な一言を放つだろうか。僕は戦々恐々とした。
「ふふ、素敵ですね」
しかし、黒髪の乙女は相変わらず優美な微笑みを湛えたまま、そのように優しい一言をかけてくれた。僕は先ほどとは違う意味で頬が熱くなるのを感じた。
「では、失礼します」
そう言って、黒髪の乙女はベンチの腰を下ろす。その所作は非常に美しいものだった。ロングスカートを穿いた膝の上に、花柄模様に包まれた四角い箱を置く。その包みを解いてふたをあけると、色とりどりのおかずが敷き詰められていた。
「いただきます」
黒髪の乙女は箸を手に取り、ほうれん草のおひたしを口に運んだ。白く細い顎で、ゆっくりと咀嚼する。
「……うん、美味しい。やはり外で食べると、より一層美味しく感じますね」
その柔らかな微笑みを向けられて、僕はどぎまぎしてしまう。
「そ、そうですね」
またしてもぎこちなく返事をしてしまう。いかん、あまり口ごもってばかりいるとダサイ男の烙印を押されてしまう。僕は紳士、できる紳士なのだ。こんなにも素敵な黒髪の乙女に嫌われてたまるか。
「あの、つかぬことをお伺いしますが」
「は、はい!」
決意したのっけから上ずった声を発してしまう。何やってんだ、僕。
「あなたのお名前は?」
「え?」
「よろしければ、教えていただけますか?」
にこりと微笑んで、黒髪の乙女は言う。
「あ、はい。僕は諸井敬太郎(もろい けいたろう)と申します。公立枕木大学に通っております」
「諸井……敬太郎さん」
黒髪の乙女はその可憐な唇で、僕の名前を噛み締める様に言う。
「申し遅れました。私は木野宮桜(きのみや さくら)と申します」
「木野宮……桜さん」
僕もまた、彼女の名前を噛み締めるように繰り返す。
「素敵なお名前ですね……」
言った直後、僕はハッとして口を押える。
「あ、いえその……先ほどいらっしゃった時、あなたと桜の花びらがとても似合うと思っていたので。そんなあなたの名前が桜だなんて、もう素敵だなぁって思ってしまったんです」
僕は必死に早口でまくしたてた。すると、黒髪の乙女はくすりと笑みをこぼす。
「ありがとうございます。そんな風に男性に褒めていただいたのは初めてなので、とても嬉しいです」
「そ、そうなんですか? 全く、あなたの周りの男は一体何を見ているんだか。あっはっは!」
照れくささを誤魔化すように、僕は大声を上げて笑った。黒髪の乙女もまた、上品に笑ってくれた。
「うふふ、面白い方ですね。あの……」
「はい?」
「その……今度から、敬太郎さんとお呼びしても良いでしょうか?」
彼女の上目遣いな視線が僕の純情ハートを真っ直ぐに射抜いた。何と奥ゆかしく可憐な物言いだろうか。彼女の爪の垢を煎じて「リア充」の女共にも飲ませてやりたい。そうすれば、彼女の魅力の三割程度は発揮できるだろう。つまり何が言いたいのかと言うと、死ぬほど可愛い。それだけである。
「ごめんなさい、やはり嫌でしたか?」
「いやではありません! むしろよろしくお願いしたい所存であります!」
興奮のあまりまたしても僕の日本語が崩壊してしまう。しかし、黒髪の乙女は優しく微笑んでくれた。
「嬉しいです。では、私のこともどうか名前で桜と呼んで下さい」
「わ、分かりました……さ、桜しゃん」
思い切り噛んでしまった。しかし、彼女はそんな僕の失態を咎めることをせず、むしろ柔らかな笑みを浮かべてくれた。
「はい。これからよろしくお願いします、敬太郎さん」
黒髪の 乙女微笑む 骨抜かれ by 諸井 敬太郎。
「あの、敬太郎さん……?」
「はっ、すみません。あやうく無限の妄想の世界へ永久トリップしてしまう所でした」
「何ですか、それ。おかしい」
口元に手を添えて、上品に微笑むその美しさたるや。
誰だ、黒髪の女性が計算高く強かであると言った奴は。まあ僕であるが。しかし、今僕はその理論を全面的に撤回することをここに宣言する。
黒髪の女性、いや乙女はどこまでも純情可憐であり、汚れなき存在であると。僕は確信した。そして、革命が起きた、僕の中で。
この日を境に、僕の日常は黒髪の乙女――桜さんを中心に回ることになった。
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