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世界は複合色である。喜びに満ちた黄色、怒りに燃える赤色、悲しみに満ちた青色……酸いも甘いも混在する、複合色の世界なのだ。
しかし、今の僕は単一色の世界を漂っている。その世界は桃色、ただ一色で構成されている。非常に華やかで、それでいて可憐な、桜が舞い続ける世界。その中心にいるのは、麗しの黒髪の乙女。その名前は桜さん。彼女を中心にこの世界は、僕の世界は回り続けている。それはロマンティックなメリーゴーランド。この幸福な世界で、永遠に回り続けていたい。
そして叶うことなら、彼女とめくるめくラブロマンスを――
◇
背中にしたたかな痛みが走り、僕の意識は乱暴に覚醒させられた。おもむろに視線を巡らせると、ほの暗い天井に向かって右手を伸ばしている。これは何かを求める強い欲求の表れだろうか。とにもかくにも、背中が痛い。
「……あたた」
寝ぼけてベッドから転げ落ちてしまうなんて、大学入学当初以来だ。あの頃は不慣れな環境に様々なプレッシャーを感じ、ベッドの上でうなされていた。そのせいで落下してしまうこともままあったのだが、時が経つにつれてそれもすぐに解消された。しかし今の僕は、またぞろあのウブな入学当初のように、情けなくもベッドから転げ落ちてしまった。
ただ違うのは、今回は重苦しいプレッシャーによるものではなく、羽のように軽やかなハピネスによるものであった。そう僕はボケている。色ボケているのである。
冷たい床から身を起こし、洗面所へと向かう。先日コンビニで購入した男性用洗顔フォームをにゅるっと手の平に出すと、それを水で泡立て、丹念に顔を洗う。その後、冷たい水で洗い流し、鏡に映る自分の顔を見た。
そこに映ったのは、昨今のイケメン俳優に勝るとも劣らない、美青年の顔であった。理知的であり、それでいて温和な雰囲気も漂わせている。こんな美青年に声をかけられたら、女性はころりと落ちてしまうこと間違いなしである。
だがしかし、紳士たる僕は見境なしに女性に声をかけるなんて軽薄ナンパ野郎まがいのことはしない。僕のように純情な男はこれと決めた愛する女性、ただ一人に粛々とその情熱を捧げる覚悟が据わっているのだ。
ちなみに現在の時刻は午前十一時半。我が枕木大学においてはちょうど二コマ目の授業が佳境に入っており、目前に迫った昼休みに思いを馳せる学生達で溢れ返っているだろう。しかし、今の僕には関係のないことだ。恋の超特急エクスプレスに颯爽と乗り込んだ僕には、まるで関係のないことである。下らない禿げ教授の講義など問答無用でサボって見せよう。単位など知ったことではない。
身支度を整えると、アパートを出て近くのコンビニに向かう。そこで「春の特製弁当」という、特製の割には平凡なラインナップの弁当を買い、軽やかなステップで住宅街を駆けて行く。すれ違う奥様方に「こんにちは」と爽やかなあいさつと笑みを振りまきつつ、目指すは地元民に愛される枕木公園。相も変わらず広い敷地内には美しい桜の木が咲き乱れている。いや、乱れているなんて失礼な言い方だ。咲き誇っている、整然と咲き誇っている。その桜の木々を見ていると、僕の胸の内に桃色成分が充填され、恋の超特急エクスプレスはさらに加速する。僕はコンビニの袋片手に、公園内をうきうきスキップで進んで行く。
ふと視界に、一人の乙女を捉えた。公園の一角にあるベンチに佇み、舞い散る桜に彩られている可憐な乙女がそこにいた。
それまでうきうきステップを踏んでいた僕は途端にぴたりと足を止め、英国紳士にも劣らない優雅な歩調で乙女に近付いて行った。すると、こちらの気配に気が付いた乙女が、ふっとその可憐な顔を上げた。
「こんにちは」
その鈴を転がしたような声は僕の鼓膜を穏やかに揺さぶり、そのまま心の中へゆっくりと溶けて行く。僕はその余韻をいつまでも楽しんでいたかったが、メガネのブリッジをくいと押し上げ、とびきり爽やかに微笑んだ。
「こんにちは、桜さん」
以前は手痛く噛んでしまった彼女の名前をしっかりと呼び、「お隣、よろしいですか」と物腰穏やかに尋ねる。
「ええ、もちろんです」
桜さんはにこやかに微笑んだ。彼女が脇に避けるまでもなく、既に僕が座る分のスペースはあった。つまり彼女は最初から僕が来ることを待ち望んでいたと、そういうことで間違いないだろうか。いかん、紳士たるこの僕の口元がだらしなくにやけてしまいそうになる。男性は女性の前でその荒々しい欲望を決して剥き出しにしてはいけない。それが意中の女性ならば尚更である。自らの内に潜む欲望と言う名の猛獣を飼い慣らせない未熟者は、すべからく嫌われてしまうのである。
「では、失礼します」
僕は爽やかな微笑みを浮かべたまま、桜さんの隣に腰を下ろした。がさり、とビニール袋から弁当を取り出し、膝の上に置いた。それと同時に、彼女もまた弁当の包みを解く。
「いただきます」
「いただきます」
礼儀正しい紳士と淑女である僕らはきちんとそう言って、箸を手に取った。
「美味しそうなお弁当ですね」
桜さんが僕の弁当を見てそう言った。これを言ったのが他の女性、例えば「リア充」の女であれば、遠回しに「その弁当くれ!」と言っているように聞こえて非常に不愉快な気分になってしまう。しかし、彼女の場合は逆に気を遣って話しかけてくれたのだろう。素敵過ぎる。
「いえ、毎回こんなみすぼらしいコンビニ弁当でお恥ずかしい限りです。そういう桜さんこそ、毎回素敵な手作り弁当で。それはご自分で作っていらっしゃるのですか?」
「いえ、母に作ってもらっているんです。良い年をしてお恥ずかしい話ですが」
「そんなことないですよ。ちなみに桜さんはおいくつなんですか? ……っと、すみません、女性に年齢を聞くなんて僕も失礼な奴だな」
「そんな構いませんよ。今は二十歳です。今年で二十一歳になります」
「本当ですか? 僕もです。ちなみに、今は大学の三年生です」
「まあ、同じ年だなんて。何だか嬉しくなっちゃいますね」
その一言に、僕もとても嬉しくなっちゃいます。っと、いかん。また僕のピュアリズムに基づく口元の緩みが発生してしまう。落ち着くんだ。
「お酒は飲まれるんですか?」桜さんが尋ねる。
「ええ、まあ。嗜む程度にですけど。地元の日本酒を飲みつつ、読書するのが好きですね」
僕が言うと、桜さんは微笑んだ。
「地元はどちらなんですか?」
「新潟です」
「まあ、新潟。お酒もそうですけど、お米が有名ですよね?」
「そうですね。けど僕は食が細いので、米はあまり食べなかったですね。ほら、おかげでこんなガリガリで情けない話です」
僕は自分のやせ細った体を強調するように背伸びをして見せた。
「そんなことありませんよ。私はどちらかと言えばがっしりとした方よりも、ほっそりした方の方が好きです」
言い終えた所で、桜さんはハッとしたように口を手で覆った。頬をその名の通り桜色に染めて、恥ずかしそうに俯いた。
桃色成分、大量投下、恋の超特急エクスプレス、猛烈加速!
いやいや、そんなアホな思考を回している場合ではない。僕はにわかに暴れ出した内なる猛獣をたしなめるため、目の前の陳腐な「春の特製弁当」を掻き込んだ。一方、桜さんは未だに頬を薄桃色に染めたまま箸を置いた。僕は残り少なくなった弁当を一気に掻き込むと、呼吸を整えて口を開く。
「どうしましたか?」
「いえ、何だか食欲が無くなってしまって……」
「え、大丈夫ですか? どこか具合でも?」
「何でもありません。大丈夫ですよ」
淡く微笑む桜さんを見て、僕は彼女が病にかかっているのではないかと思った。そう、僕に対する恋の病に。うむ、我ながら痛すぎる思考なので、その早計な結論は棄却することにした。
「あの、敬太郎さん」
か細い声で、桜さんが呼んだ。
「はい、何でしょうか?」
「もしよろしければ、私のお弁当食べますか?」
「えっ?」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。
「ごめんなさい、やっぱり嫌ですよね。それに敬太郎さんは食が細いとおっしゃっていましたし……」
「確かに平素の僕は小食ですが、今は美しい桜の木に囲まれることによって食欲がみなぎっております。ですから、ぜひともそのお弁当をいただきたいです」
「本当ですか? 実は私も小食で、いつもお弁当を食べ切るのに苦労していたんです。助かります」
桜さんはにこりと微笑んだ。可憐過ぎる。僕は口元がニヤケそうになるが、努めて紳士的な表情を崩さない。
「では恐れながら、その卵焼きをいただいてもよろしいでしょうか?」
「もちろんです」
「では、失礼して……」
僕は自らの箸でその卵焼きを取ろうとした。しかし、それよりも一瞬早く、別の箸が卵焼きをすくい取った。そのまま、僕の目の前に差し出される。
「はい、どうぞ」
明るい微笑みを浮かべて、桜さんは言った。
瞬間、僕のハイスペックな思考は緊急停止した。今の状況を整理すると、桜さんが自分の箸で卵焼きを僕の目の前に差し出している。これはいわゆる「はい、あーん」という、イチャイチャバカップルの代名詞とも言える行為ではないだろうか。清廉高潔な僕は、例え意中の女性と結ばれたとしても、そのように低俗な行為には走らないと心に決めていた。本来食事とは己の箸で取るものである。それを何が悲しくて他人の箸で他人から食べさせられなければならんのだ。ある種の屈辱を覚えるげに恐ろしき行いである。
しかし、しかしである。今僕に対してその「はい、あーん」をしているのは、純情可憐な黒髪乙女であることの桜さんである。そんな彼女がはしたない真似をするはずがない。つまり、「はい、あーん」は決して低俗ではしたない行為ではないという方程式がここに成立する。そうなれば清廉高潔である僕も、その行為に走るのはやぶさかではない。
改めて桜さんを見つめると、にこやかな笑みを浮かべている。頬が熱くなるのを感じたが、心を落ち着けて研ぎ澄まし、その卵焼きを頬張った。
口に含んだ瞬間、得も言われぬ甘い味わいが爆発的に広がった。それはこの卵焼きがあまりにも砂糖の量が多くて甘ったるいという意味ではない。その卵焼き自体はごく普通の、ありふれた味付けである。
ただ、それがとても甘く感じる。心の中で甘いと感じる。心が甘いと叫びたがっているんだ。
恐ろしい。やはり、この「はい、あーん」という行為はげに恐ろしい。例えば激辛カレーだったとしても愛しの乙女に「はい、あーん」をしてもらえば、激甘カレーへと変貌を遂げるだろう。予想していなかった「はい、あーん」の衝撃に、僕は戦々恐々としてしまう。
「お味はいかがですか?」
「あ、はい。とても美味しゅうございます」
「うふ、それは良かったです」
桜さんはにこりと微笑んで言う。
「よろしければ、もう一つどうぞ」
「あ……では、いただきます」
頷いた僕の目の前に、再び「はい、あーん」によって差し出される卵焼き。
それを頬張った僕の全身は、甘い感覚に支配され、溺れて行った。
アパートの部屋に戻った直後、僕はふらふらと覚束ない足取りでベッドへと歩み寄り、そのまま仰向けに寝転がった。
あれから桜さんと昼食を取った後、僕は図書館で読書に耽っていた。しかし、全く集中することができなかった。いつもならスルスルと頭に入って来る活字が全然入って来ない。昼食を終えた後もズルズルと「はい、あーん」の余韻を引きずっていたからだ。桜さんの箸で、桜さんの卵焼きを食べた。食べさせてもらった。その時の光景を思い返す度に、血気盛んな内なる猛獣はのたうち暴れ回る。全く、騒々しいことこの上ない。
「はい、あーん」の威力は僕が想像していた以上だった。しかし、次からは大丈夫だ。一度経験してしまえば僕の順応力の高さによって体内に抗体が形成され、「はい、あーん」の甘ったるい成分に浸食されることを防いでくれるだろう。そうだ、そもそもたかだか他人の箸で物を食べさせてもらう。それだけのことだ。いや、まあ桜さんの箸はたかだかなんて存在ではないが。
そこまで思考を回した所で、僕の脳裏にふっと浮かぶ考え。僕はあの時、桜さんの箸で食べさせてもらった。その箸は、当然のことながら桜さんも自らの口に食事を運ぶために使った。つまり桜さんの口の中に入る。その過程で、桜さんのあの可憐な桜色の唇にも触れている。唇に触れている。そして、その箸が僕の唇にも触れた。それはつまり、間接的に唇が触れ合った。俗に言う間接キスが成立したということになる。
瞬間、何とか大人しくなりかけていた僕の内なる猛獣が再び勢い良く暴れ出した。いやいや、待て待て、そもそも間接キスなんてそんなに大げさなことだろうか。甘酸っぱい青春物語においては非常にビッグイベントとして描かれているが、たかだか同じ物体の同じ箇所に唇を押し付け合った。それだけのことである。直接触れ合った訳ではない。あくまでも間接なのである。その程度のことで騒ぎ立てるなんて、「リア充」共も少しばかり可愛らしいところがある。全く、この僕には到底理解が及ばない。
しかし、なぜ僕の心臓はこんなにも荒れ狂い、跳ね上がっているのだろうか。胸の内の猛獣は尚も猛り狂っている。もうここまで来たら、「ファンキー」とでも名付けてやろう。そのファンキーは暴れ回り、恋の超特急エクスプレスは猪突猛進、空の彼方まで突き進んで行く。にわかにカオス状態となった僕の心中に、何より僕自身が一番驚いている。
分かった、ここまで来たら認めよう。この冷静沈着たる大人の男である僕も、ほんのわずかばかり動揺していると認めてやろう。
つまり、「はい、あーん」には二重の罠が張り巡らされている。意中の女性から食べさせてもらうことによる幸福感。そして、その上間接キスまで成立してしまうというお得感。何だこれ、「はい、あーん」すげえな、おい。っと、いけない。わずかばかり動揺してしまったため、つい口調が乱れてしまった。僕は紳士である。その狡猾なる「はい、あーん」にも決して心乱さず粛々とその善意のみを受け取る、高潔な紳士なのである。
ただ一つだけ言えることがある。今夜の僕はきっと眠れないだろう。そして、明日の講義もきっと放り投げてしまうだろう。確定事項である。
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