黒髪の女性は清楚で可憐。そんな方程式はすでに形骸化していることを、賢しい僕はよく理解している。むしろ黒髪の女性は強かであり、どこまでも計算高く、男を利用してやろうと頭を巡らせている。そういうものなのだ。だから、僕は黒髪の美人が目の前に現れても色めき立ったりしない。あくまでも冷静な心持ちで冷静に対処するつもりだ。賢く高潔な僕であれば、それは難なく実行できると思っていた。

「こんにちは」

 図書館の入り口付近にあるカウンターに佇むのは、紛れもない黒髪の美人、いや乙女。その汚れなき黒髪のロングヘアーを見つめていると、つい陶酔したような気分になってしまう。だが、僕は寸での所で堪えた。危ない危ない。頭では理解していても、心が反応してしまう。やはり日本男児たるもの、女性の美しい黒髪に反応するようなDNAが刷り込まれているのだろうか。げに恐ろしき、黒髪ロングヘアーの乙女。

「あの……」

 再び声がして視線を向けると、黒髪の乙女は少し戸惑う様な目をしていた。その目もまた澄んでいて美しい。いや、今はそんな煩悩を抱いている場合ではない。彼女は先ほど僕に「こんにちは」とあいさつをしてくれた。それならば僕もまた「こんにちは」とあいさつを返すべきだ。僕は一度、ごくりと喉を鳴らす。

「……こ、こん……ゲホッ、ゴホッ!」

 盛大にむせてしまった。これは何たる失態。あろうことかこんなにも美しい黒髪の乙女の目の前で言葉途中にむせてしまうなんて。我が人生ワースト3に入るくらいの汚点ではないだろうか。とにかくもの凄く恥ずかしい。

「大丈夫ですか?」

 黒髪の乙女は目を丸くして声をかけてきた。

「だ、大丈夫です……どうもお見苦しい所をお見せしました」

 情けなくも僕は、顔面を真っ赤にしてそそくさとその場から去ることしかできなかった。

 カウンターから遠く離れた席に腰を下ろすと、僕はテーブルに突っ伏した。

 死にたい。こんなにも死にたいと思ったのは、大学入学時の新入生歓迎コンパで盛大にやらかしてしまった時以来だ。その時の羞恥心もまたどっとぶり返し、僕は気恥ずかしさのビックウェーブに飲み込まれてしまう。

 その後、波打ち際に上がったクジラのごとく、僕は意気消沈としていた。しかし、いつまでもそうしていては埒が明かないと強引に気持ちを切り替え、席から立ち上がった。近くにあった本棚からファンタジーの小説を手に取り再び席に戻ると、僕は必死にその文章を貪った。そうやって必死に辛い現実から逃避を試みているのだ。そう現実が辛いからこそ映画やマンガ、小説などの虚構の世界が映えるのだ。現実は辛くてナンボ。そう思わなくちゃやっていられない、こんちくしょう。胸の内で雄々しく負け犬の遠吠えを上げながら、僕はひたすらに活字の海へと溺れて行った。




 窓から淡く夕日が差し込む頃、僕はパリパリに乾いていた眼をこすり背伸びをした。

そのファンタジー小説はとても分厚かったが、栄誉ある現実からの逃亡者となった僕の必死の読み込みによって、問題なく読破することができた。これが年がら年中現実世界を謳歌している「リア充」共であれば、四分の一も読み終わらなかったであろう。そう考えると、何だか無性にため息が漏れてしまう。

 おもむろに席から立ち上がると読み終わった本を棚へと返し、出入口へと歩みを進める。さて、今日の夕飯はどうしようか。コンビニで弁当を買い、まだテーブルも届いていないので床に置いて一人むしゃむしゃと頬張ってやろうか。

「……あの」

 ふいに、か細い声に呼ばれた。振り向くと、黒髪の乙女がカウンターの席から僕を上目遣いで見つめていた。不覚にもどきりと胸が高鳴ってしまう。

「は、はい。何でしょうか?」

 僕は声が上ずってしまわぬように、精一杯平静を装って聞き返す。

「突然すみません。その、今までお見かけしたことのない方でしたので……」

「え? ああ、僕は枕木大学に通う学生です」

「まあ、そうなんですね。本を読むのはお好きですか?」

「そうですね、好きです」

「本当ですか?」

 黒髪の乙女は上品に微笑んだ。彼女の周りに舞い散る桜の花びらがあったら、さぞかし絵になるのだろう。これだけ美しいと、物語の中から抜け出して来たのではないかと思ってしまう。とにもかくにも、これ以上この黒髪の乙女と対面していることは僕の精神に多大なるプレッシャーを与え続けてしまうので、軽く会釈をしてその場を後にしようとする。

「また来てくださいね」

 ぴたり、と足を止めた。振り向いた先にいる黒髪の乙女は、相変わらず上品に微笑んでいた。

「……あ、はい。また来ます」

 再度会釈をして、背中を丸めながら図書館を出た。眩い夕日が僕を出迎えてくれる。その光を呆然と浴びていた僕は、おもむろに顔を上げた。

「……コンビニ行こ」




 今日の夕飯はジューシーなハンバーグ弁当である。アパートに電子レンジはないため購入したコンビニで温めてもらい、帰宅する頃にはほど良く冷めてしまったそれを床に座って頬張った。不味いとは思わなかった。その代わり美味いとも思わない。確かにその名の通りジューシーな肉厚は感じることができるものの、肝心の味は伝わって来ない。だが、それはこのコンビニ弁当が悪い訳ではない。それを受ける器であることの僕が悪いのである。

 今の僕は抜け殻に近い状態だった。そう言うと、ひどく悲しいことがあったと思われてしまうかもしれない。しかし、今の僕は悲しみなど感じていない。むしろ、どこかふわふわとした気持ちだった。こんな気持ちになるのは随分と久しぶりな感じがする。

 ――また来てくださいね。

 脳内に浮かぶ、あの上品で柔らかな微笑み。その度に、僕の心臓はひどく落ち着きなく暴れ出す。自分の体の一部分だと言うのに制御できないことがもどかしい。まさか、僕はあの黒髪の乙女に恋をしてしまったとでも言うのだろうか。だとしたら、甚だ情けない話である。黒髪の乙女なんてものは虚構の世界にしか存在せず、現実の黒髪の女はみな計算高く強かなのである。清楚で可憐だなんてもってのほかである。不意打ちだったとはいえ僕の汚れなき心に侵入を許してしまうなんて。今日図書館で読んだ本の内容が頭に残っていないのも、そのせいだろう。情けない。いつもなら読んだ本の内容はしっかりと覚えており、何度も反芻してその世界観を楽しむと言うのに。何だかやるせない。こんな時はよく冷えた日本酒をおちょこでくいと飲みたい気分だが、今この部屋にはない。それは明日に冷蔵庫が届いてから買うことにしている。そうなると僕の心の拠り所は本しかないのだが、この部屋にはまだ本がない。図書館で何か借りてくれば良かった。そんなことも失念してしまうなんて、それもこれも全部あの黒髪の乙女……いや、黒髪女のせいである。認めよう、その外見は映画や小説に登場する黒髪の乙女にも匹敵すると。ただし、所詮は現実の女。その中身はドロドロとしているに違いない。賢く人生を悟っている僕は分かっている。

「……寝よう」

 行きついた結論は非常に安易なものだった。人は眠る。とりあえず手詰まりになったら眠る。それは我々人類に刷り込まれた伝統的慣習なのだろうか。情けないことこの上ないが、何の武器も持たぬ今の僕にはそれが精一杯の現実逃避だった。



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