獏バク図書館

三葉 空

第1部 

 桜の花びらを見た時、どんな感情を抱くだろうか。

 やはり多くの人々は新しい生活、新しい環境、新しい人達との出会いに心を弾ませ、華やいだ気分になるだろう。僕もそうだ。いや、そうだった。生来大人しく、物静かで、理知的な雰囲気を漂わせていた僕も、春となればそれなりにテンションが上がっていた。否が応にもそうなっていた。ふわふわと漂う春の陽気に普段は冷静沈着な僕の思考は掻き乱され、浮き足立ち、共に愛を語り合う恋人などという、僕にとっては空想上の存在が手に入るものだと思っていた。

 しかしそんな幸せな幻想は、現実という名の巨大なハンマーであっという間に崩れ去る。周りを見渡せばキャッキャウフフと湧き立つ男女達。一方、僕には恋人は愚か親しい友人も出来ず、気が付けば歩み始めていたぼっちロード。その長く険しい道を僕はこれまで幾度となく歩んで来た。

 基本人見知りではあったが、まだどうにかこうにか友達の輪に入れた小学時代。

 人付き合いが苦手という気質が浮き彫りになり、友と親しくなれなかった中学時代。

 高校デビューを目論むもあえなく挫折。結果として暗黒の時を過ごすはめになった高校時代。

 そして、リベンジを誓った大学デビュー。僕は前回の失敗を幾度となく自己分析し、研究に研究を重ねて、入念に準備をして臨んだ。その結果、前回以上に盛大な失敗をやらかしてしまった。その詳細については語るまい。お互いに得をしないだろう。ただ言えるのは、慣れないことはやるべきではない。痛い目を見る。痛い存在になってしまう。それだけのことだ。

 そんな訳で僕という人間は生来高潔な文化人気質であり、昨今の血気盛んな若人達のノリは水に合わない。いわゆる「リア充」という存在にはなれず、彼らとは真逆の、というか別世界へと戦略的撤退を余儀なくされたのである。戦略的撤退なのである。大事なことなので二回言わせてもらう。

 今僕の目の前には、一軒の二階建てアパートがある。ボロボロという訳ではないが、決して立派とは言えない、ごくごく平凡なアパート。それが僕の新しい住まいだった。この春、僕は以前暮らしていた大学にほど近いアパートからこのアパートに引っ越して来た。その主な理由は、夜な夜な響き渡る「リア充」共のバカ騒ぎを聞いていて非常に居たたまれない気持ちになったからである。高潔な僕がシャワーを浴びて寝巻に着替え、実家から仕入れた上質な日本酒を片手に読書をしていた際、天高く響いて来るのは「ギャハハ! マジウケルし!」という低俗極まりない「リア充」共の鳴き声。ご近所様の迷惑も考えずに自分勝手に気ままに振る舞う。何と知性が低い連中だろうか。動物、いや獣並である。そんな彼らはまさしく「リア獣」である。夜行性の獣を思わせるその活発ぶりに、信濃川のように雄大な心を持つ僕もさすがに堪忍袋の緒が切れて、二年間慣れ親しんだアパートから戦略的撤退する方針を固めたのだ。戦略的である。戦略的なのである。今度は三回言った。

 思えばよくあんなアパートに二年間も暮らしていたものである。そのアパートは家賃の値が張るものの、部屋自体はとてもきれいであり、何より大学から徒歩五分という素晴らしい立地条件であった。ただ、それらの美点を吹き飛ばしてしまうくらいの汚点があることを予見できなかった僕が悪い。いや、予見はしていた。そのアパート群には「リア充」なる生態系が形成されることは。当時の僕は華の大学デビューを目論んでいたため、あえて未知の領域に飛び込んだのである。それが運の尽きだった。無残にも大学デビューに失敗した僕にとってそこは魔境以外の何ものでもなかった。それでも二年間持ったのは、まあ有体に言えば意地というやつだろう。「リア充」ごとき野蛮な生物に、高等かつ高潔な僕の健やかな大学生活を脅かされるなんて気に食わない。そうやって意地を張り続けて、張り通して二年間、僕はようやく悟った。勝てない。どう足掻いたって勝てない。少なくても今の僕では勝てない。そのアパートから戦略的撤退をする前夜、相も変わらず僕の鼓膜を揺さぶる「リア充」共の鳴き声。そして、時折混ざる甘い声を聞きながら、僕は放心状態にあった。

 忘れよう、先日までの悪夢のような日々は。大学からは遠くなってしまったが、僕はこの新居で清く正しく美しく過ごすことにしよう。ここなら、今まで以上に好きな読書にも没頭できるだろう。夜な夜な騒ぐ「リア充」共の鳴き声から逃れるために、僕は読書に没頭した。その結果として視力が低下してしまい、メガネをかけた。まあ、高潔な文化人である僕にとってメガネは必須アイテムだ。むしろ視力が落ちたことに感謝をしよう。つまり、その遠因となった「リア充」共にも感謝をせねばならない。一瞬思いかけた所で、いや、やっぱりそれはないなと自らをたしなめる。

 改めて大家さんにあいさつを済ませてから僕は階段を上がり、二階にある自分の部屋に入った。その内装は以前のアパートに比べれば小奇麗さに欠けるが、しかし広さは同等である。その上家賃も安いのだから文句の付けようはない。僕は早くもこの新居に親しみを持ち始めていた。初対面の人間は苦手だが、初対面のアパートは平気なのである。まあ、そんなに威張ることでもないが。

 部屋の中はまだがらんとしている。本来ならば新しいアパートの入居日に合わせて家具や家電などが届くはずであったが、繁忙期ということもあり、荷物が届くのは明日になるそうだ。しかし、僕はそんなことで怒りを覚えない。食事などは少し離れたコンビニまで足を運んで調達すれば良いだろう。浴室でシャワーも浴びることができる。強いて言えば愛読書たちがこの場にないことが不満であるが。あと冷えた日本酒も。

 だが、僕は逆に好機だと思っていた。このアパートに引っ越して来たら、行ってみたい場所があったのである。




 閑静な住宅街を歩いていると心が和む。この辺りには学生が住むようなアパートはほとんどない。だから、夜な夜な騒ぎ出す「リア充」もいないだろう。すれ違うのは慎ましやかな主婦や年配の方がほとんどである。たまに元気いっぱいにアスファルトを駆け回る子供に出くわすが、その声は一切僕の心を乱さない。むしろ微笑ましいと思い見守ってしまう。僕は早くもこのアパートの周辺事情にも好印象を抱き始めていた。自然と足取りが軽くなる。

 アパートを出て十分ほど歩いた時、前方に緑豊かな草地と華やかな桜の木が見えてきた。その近くには看板が立っており、「枕木公園」と書かれている。僕はそのまま歩みを進め、門を通って敷地内に足を踏み入れた。その広い公園内には様々な施設が点在している。美術館や屋内プール、テニスコートまである。それらもまた魅力的な場所であるが、僕の目当ては違う。

 桜の木に彩られた道をしばらく進んで行くと、目の前にとある施設が現れた。その看板には「枕木中央図書館」と書かれている。そう図書館である。本を読むことが好きな僕にとって、これほど素晴らしい場所はないだろう。ちなみに僕が通う「公立枕木大学」にも付属図書館がある。しかし、そこは最早図書館の体を成していない。憎き「リア充」共の巣窟となり、おちおち読書にも没頭できない。だから僕は市内でも有数のこの図書館を訪れるべく、現在のアパートに引っ越して来たと言っても過言ではない。以前の住まいからは遠いが、これからは毎日のようにここに通うことができるのだ。そう思うと心が弾み、浮足立ってしまいそうになる。

おっと、いかんいかん。これから僕は神聖な図書館に入るのだ。気を静め、清廉な気持ちで行かなければ失礼だ。まあそこまで肩肘張る必要は無いだろうが、つまり今の僕はそれなりに興奮状態にあるのだ。一度深呼吸をし、気持ちを落ち着ける。意を決してその扉を開いた。

 入館した直後、僕を包み込んだのは芳醇な紙の匂いだった。この図書館独特の匂い、正直に言ってたまらない。これからこの空間で好きなだけ読書ができると思うと、幸せ過ぎて死にそうになってしまう。これ以上の幸福はありえないだろう。さて、まずはどんな本を読むか。記念すべき一冊目の本だから、それなりに吟味して決めなければならない。僕は意気揚々と本棚に向けて歩みを進めた。

「こんにちは」

 澄んだ声に呼び止められた。そのあまりの清らかさによって、本に集中していた僕はハッと振り向く。

 そこには乙女がいた。いや、乙女なんて表現は多少時代がかっており、有体に言えば古めかしい言い回しかもしれない。しかし、そう呼ぶにふさわしい存在がいる。僕の目の前には、美しい黒髪の乙女がいたのだ。



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