第126話 市川橋から見えるバラック小屋

 綾はすっかり忘れていた。昭和30年ということを。京葉道路の供用開始は昭和35年。法律上の自動車専用道路では初の道路であるが、それでも昭和35年であって、それより5年も昔だった。


 「あーーー、しまったー。国道14号に出るしかないわね。。。」


 令和現在の京葉市川IC付近は今や外郭環状道路、外環のインターチェンジも兼ねており、非常に広大な土地がインターチェンジと化しているが、この時代は京葉道路の跡形もなく未舗装の道路を田畑と荒れ野原が広がっている場所だった。丁度、黄昏時になったのでちょっとだけ止まって周囲を改めて見回した。千葉方面は田畑と荒れ野原だが東京方面も田畑と荒れ野原だ。地平線を見渡すことができ、それは地方の平野で見るような景色。この時代には高層ビルは存在しないしビルも市街地の一部にあるだけ。あまりゆっくりできる時間ではないが、この景色はなんと美しいのだろう。と今では見ることが出来ない空が広く開放感のある景色だった。河川敷を走り出したが道がよくわからないのでそのまま河川敷の道路をとことこ走ることにしたが、気づいたら市川橋の方に出ていた。市川橋から東京方面の河川敷に無数の明かりがある。さすが昭和30年ともいうべきで地方から来た行き場のない人が河川敷にバラック小屋を建てて生活しているらしい。あとで調べたが電気も来ていないので自家発電で電気を供給しており、その後火災が起きて京成電鉄の枕木まで延焼してしまったため、立ち退きをして現在は小岩菖蒲園になっているらしい。川の近くは今もそういったあかりハウスがあるのは都心でも住宅街と離れているからやはり生活しやすいのだろう。


 市川橋まで来れば、あとは来た道を戻るだけなので安心感もひとしお。なにせ見渡す景色は知ってる場所なのに知らない場所にしか見えないし、道路も存在しない道路が多すぎてグーグルマップは全く役に立たないものになっていたからだ。ほどなく、帰宅した綾はスマホで撮っていた写真を眺めながら今回の旅に思いを馳せながらもまた昭和30年に行って千紗を迎えに行かなければならない。昭和37年と比べると劇的に道路事情が厳しいのでこの時代に箱根に行くとかはかなり困難なのじゃないかと思った。今は令和5年、高速道路網もほぼ確立され、そこそこ遠いところも高速道路でビューンと移動出来てしまう時代だが、この時代は生活圏自体がそもそも狭く、旅というものは日々の中には存在せず一部の人だけが出来る贅沢なのだろう。


 明日はバイク屋「ようこの」に行って、陽子さんに今日の報告をしなければならないな。と思いながらも、あまりの疲れに綾は風呂に入って横になっているうちに眠ってしまった。

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