第123話 数寄屋橋と築地市場
まだ日が落ちるまでは時間はあり、帰宅までの距離は大凡25kmほどなので、東京の東側で何か見てみたいものを探してみた綾。足立区のほうにお化け煙突なるものがあることを知ったので、気になったがこのルートだと帰るのがとても大変そうになるので千紗を迎えに行く時に見ることにして、そうなると南側に何かないかと調べると築地市場のあたりが気になる。この通りは昭和63年に行った時に通った晴海通りへの道だ。このルートなら湾岸は通れないにしても千葉に至るには比較的帰りやすいルートである。コーヒーを飲み終わった綾は最後の一走りということで気を引き締めてからエンジンを掛ける。2ストローク特有の軽いエグゾーストノートと白煙を眺めながらあと少し頑張れ。という気持ちが湧いていることに気づく綾。ちょっとだけだろうけど愛着も湧いてきたようだ。
代官町を出発して内堀通りを走り、祝田橋の交差点を左折する。この辺りは令和の今と本当に変わらない景色で、道路も広く車通りも多い。東京の街で最も変わらない景色はおそらくこの内堀通りであろう。太平洋戦争が終わった時に玉音放送を聞く国民の映像のあのシーンと今もさほど変わらない。左折して晴海通りに出ると、その変わらない景色から一気に変わる景色になる。有楽町に入ると、現在の有楽町マリオンには日劇が建っている。数寄屋橋でちょっとだけ止まってあたりを見回し写真を撮ってみた。その上に最近廃止が決定した東京高速、いわゆるKK線が走ってその下にテナントが入ってる令和だが、昭和30年だと跡形もなく外堀川といういわゆる皇居の外堀が通っていた。数寄屋橋交差点の数寄屋橋とはこの外堀川に架かる橋の名称で令和となってはどこにも川が無いのに橋?という感じだが、昭和33年に埋め立てられてしまった。今そこには悠々と堀の水がたたえられ、都電が橋を渡り、走り去っていった。日没まではまだだが、日が傾いてきて大分暑さというものも感じなくなっていた。令和ならきっとこの時間も猛暑にやられてしまうが、昭和30年の晩夏は日没も近づけばだいぶ涼しいものである。闊歩している人々を見るとエネルギッシュな感じを肌身で感じる。戦後10年からの復興で未来への希望に満ちあふれているようにも見えた。
築地に至るまで3つの橋を越えるがいずれも堀が通っており、東京は水の都であったことが改めてわかる。晴海通りと築地通りが交差する築地交差点を右に曲がると築地市場だが、関東大震災の前は日本橋が魚河岸であり水運が無いと日本橋で市場は開けないのだからさもありなんと言え、モータリゼーション化とともに水運から陸運になり首都高が代わりを果たすというのもすべてが消し去られた街ではない。という有休の時間を感じてしまう。日本橋再生計画などが現在動いているが、これが整備されれば今度は逆にこの堀の上を首都高が信じられないカーブの連続で架かっていてそこを結構な速度の車が走っていたとか言ったら信じてもらえない日もいつか来ることだろう。
話を戻して築地市場、ここにも都電が入り込んでいる。綾も知らなかったが都電は築地市場の中まで入り込んでいたのだ。市場貨物専用線で旅客用路線ではないらしいが。このあたりは線形は全て昔を踏襲してて、先ほどまで堀は全て首都高速ないし東京高速に置き換わっただけであとはさほど変わらない。時間も夕方なので市場もすっかり人がいないのでちょっとだけ築地市場を走ってみた。今はすっかり更地になってしまって久しいが、市場には都電以外にも貨物線が場内に入り込んでここまで荷物を運んだり、送ったりしており、今よりも遥かにサステナビリティがあるのでは?と綾は思ってしまった。この貨物線は汐留の操車場を経由して東海道本線と繋がっている。今でもその貨物線跡が道路として活用されているので地図で探してみると面白いと思う。勝鬨(かちどき)橋を渡ると月島に入るがここで都電は右に曲がり、晴海町に入るとすっかり何もない埋め立て地同然となっていた。
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