第115話 東急の二子橋併用軌道

  多摩川スピードウェイを後にした綾。多摩川リバーサイドロードを走っていると多少の高台にあるので左を見ると昭和30年という時代はほぼ戦後なんだとわかる。主要道を外れると車通りはすっかり減る。この時代はまだモータリゼーションからは程遠い時代なのでオートバイに乗っている=裕福な家庭にいるということを現わしている。特にYA-1など250ccくらいのサイズになればサラリーマンの給料の10か月分くらいはザラの価格なので今に置き換えると200万円くらいの価値となる。と考えると今も近いところに向かっているのかもしれない。令和のスーパースポーツバイクは300万円くらいなので、昭和63年、あの頃が貨幣価値と販売価格の比較をすると最も手に入れやすい時代だったというのもよくわかる。令和では中古市場で下手したら300万円もするNSRが新車で60万円で買える時代だったし、今60万円で買えるオートバイを考えると、スポーツバイクというオートバイは買えない。


 茶色い屋根と畑を眺めながら走っていると、二子橋の神奈川県側の袂に出た。東急大井町線の併用軌道が走る二子橋だ。信号を待っていると、東急の3両編成の電車が二子橋を車の間を抜けるように渡ってきた。正確には単線の併用軌道で左右に車道があるといった感じだが、センターリザベーション方式ではなく、完全な併用軌道なので、通常規格電車の後ろに車が付いてくるといった異様な光景だ。京急の八ツ山橋を過ぎたあたりの併用軌道と同じだ。どちらもモータリゼーションの波というか交通事情から廃止されてしまった経緯があるが、京急はほんのちょっと東にずらして専用軌道化して同時に急カーブの線形も若干改善したという程度だが、東急の併用軌道廃止は玉電(東急多摩川線)の廃止も伴って、大きく路線状況を変えることになった。元々は東京オリンピックに間に合わせるために進めていたが、廃止後の代替路線が難航して結局はオリンピックには間に合わなかった経緯があるので玉電の廃止年は昭和44年のことでオリンピック開催から5年も経過したあとだ。さらに驚くべきは代替路線が無いままの廃止で、これは首都高速建設に伴う廃止であったので、代替路線の新玉川線が営業開始するのは昭和52年のことなので、令和の今でいう田園都市線のルートが完成したのは廃止から8年もあとの話で、それまでは大井町線から東横線で渋谷に向かうしかないというトンデモなルート変更を余儀なくされる期間が8年も続いたわけである。


 「やっと!東急の併用軌道が見られたわー。それにしても予想以上にやばい感じね。」


 併用軌道の大井町線は神奈川県側は溝ノ口までで終わっており、二子玉川園で玉電との接続は出来るが、駅は若干離れてるし、国道246号線として主要道の上を併用軌道で走っているので国道246号線自体はほぼ使い物にならない道路だった。現在の国道246とは全くかけ離れた存在だったのはこの神奈川側の二子橋の袂で別れる国道を見れば一目瞭然だった。東京側から走ると直線を駆け抜けるのは東急大井町線で橋の袂から専用軌道に戻るが、国道はというと、そこからちょっとだけ右に曲がる狭小な道路がそれであった。昭和40年に一般国道246号線になるころには国道1号線の渋滞緩和ルートとして開発されていくが、この時代はまさにこの周辺は東京に近い限りなく田舎だった。


 信号が青になって、綾は二子玉川園方向へ二子橋を渡る。令和なら二子玉川はちょっとしたオハイソな街というイメージだが、この時代はビルなんか禄に建っておらず、橋を渡ってる間は左に小さいビルとその先は森と遊園地のようなものが見えるだけだった。

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