第110話 川を越えるのが大変

 寄り道はここまでにして、来た道を綾は戻る。YA-1は乗ってみると確かに悪くはない感じだが、2ストロークのエンジン音と排気は4ストロークばかり乗ってきた綾にとってはなかなか慣れない音だった。加速すると白い煙がたなびくのが気になってしょうがないが、この時代はそんなことで文句を言う輩はほぼいない。今度は左手に東京湾の海を見ながらの快走。船橋まで来ると道路と街の感覚はなんとなくつかめる程度には今の面影が残ってるようだ。が、京葉道路が無かった。京葉道路は日本初の自動車専用道路として指定された第一号であるが、昭和35年のことであるので、当然無い。


 「わかってはいるけど、京葉道路が無いとかなりの迂回になるのよね。さて、どうやって横浜まで行こうか。」


 前回の昭和37年の時は自家用車観光元年とも言える時代で高速道路や有料道路が出来始めていた年だったが、昭和30年ともなるとほぼ戦後直後と大差がない状況。仕方が無いので国道14号線を走る。線形こそ国道14号線だが、船橋の街中を抜けるともう見たことも無いくらい田畑が広がってきた。丁度西船橋駅北口に当たる場所に葛飾小学校とグラウンドがあった。今でこそ西船橋駅はJR総武線・武蔵野線・東京メトロ、東葉高速と各駅停車しか止まらないのに12番線まである謎の駅でちょっとしたターミナルになっているが、この頃は跡形もなく小学校のグラウンドが広がっている。西船橋を過ぎるとまた住宅街を走る国道14号に戻っていた。この頃の住居はまだ戦前の建物がほとんどで灰色や茶色の建物がほとんどだ。昭和37年と比べても明らかに戦前の色を残している。朝早いのもあるが車通りもほとんどなく、昭和30年後半と比べると道路事情は悪くても交通戦争に至る時代にはまだ到達していないようで、むしろ快適かもしれないがこの後はあっという間に交通戦争と呼ばれる時代に突入するのだが。ちなみになぜ交通戦争と呼ばれたかというと、交通事故死者数の水準が、日清戦争での日本の戦死者(2年間で1万7,282人)を上回る勢いで増加したことから、この状況は一種の「戦争状態」であるとして、「交通戦争」と呼ばれるようになった。らしい。


 市川まで来ると道路も広くなった場所もあり、東京が近くなったと感じる。市川橋を越えると、千葉街道すなわち国道14号線への左折か、蔵前橋通りに向かうかどちらかを迫られるのだが、つい広いほうの蔵前橋通りを直進してしまった。まだ建設間もない感じで今の道路規格に近く整備されている。これがそのまま続くもの。と思ったら、小岩のあたりでY字路になり途切れてしまった。昭和30年の地図を入手するのは昭和37年よりも遥かに難しく、東京だから行き当たりばったりでもどこか知ってる場所に着くだろう。という考えが甘いことを思い知った。結局、立石のほうまで北上してしまって、よくわからないまま四ツ木橋と言っても、現在の四ツ木橋ではなく木根川橋のやや北側に四ツ木橋があった。その橋を越えて今の明治通りを抜けてようやく国道14号線に合流できた。国道14号線は今どきの高規格道路がこの時代でももう出来上がっていたことを考えると京葉道路が日本初の自動車専用道路として目を付けられていたのが分かるし、川を越えようにも幹線道路からダイレクト川向うに行ける道路は結構わずかで、そうなるのはもう5年以上後になる。

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