第73話 横川の峠の釜めし
長野の夜は各々楽しんで宿で合流して早めの就寝となった。ゲームセンターは深夜日を跨ぐような時間を過ぎて営業は風営法で出来ないので必然的にそんなに遅い時間にならないうちに帰るしかないのだ。これは今も変わっていない。
翌朝、素泊まりだったので二人は駅前でうどんを啜って、国道18号線でひたすら東京方面に向かうことになる。綾にとっては3日目のツーリングだ。結構疲れてはいるが後ろに裕子を乗せているのであまり気を抜いて走ることも高速道路で帰ることもできない。とはいっても昭和63年の時点だと長野駅は車で行くには相当遠い場所であって、仮に最寄りの高速道路のインターチェンジはどこかというと藤岡ICと群馬県も埼玉県寄りまで行かないと高速道路が無い。碓井越えを果たした佐久ICまでの延伸はなんと1993年のことである。
この日は幸いにも雲が多くて暑くなりそうにも無かった。天気がぐずついているとツーリングとして走っても気分爽快。という気分にはなれず、雲行きを気にしながらそそくさと帰るしかない。国道18号線はバイパスらしきものは碓氷峠バイパスしかなくそれまでは二車線の国道を延々ゆっくり走るしかない。途中信越本線と並行して走るときに特急あさまの489系が通過していた。信越本線は本線という名前だが、碓井越えをするために電車に電気機関車を連結して登らないとならない急勾配が存在していたので横川駅では連結作業で必ずそれなりの時間停車することになる特異な路線で、この連結で電気機関車との協調運転という機能が付いた電車は末尾に9の数字が付いているがもちろん非協調運転対応でも連結して碓氷峠を登っていた。
月曜日と言うこともあって、長野市街を抜けてしまえばあとは結構スムーズに進み碓氷峠を越えて横川には午前中に着いてしまった。
「峠の釜めしを食べよう!裕子さん!」
このルートで戻ってきた最大の楽しみが峠の釜めしである。横川で長く停車しているのでこの間に乗客に捌きまくれたので名物となった峠の釜めし。せっかくなので入場券を買って駅で食べた。令和の横川駅は終着駅となって駅舎は縮小ひっそりとした感じだが、その先に線路が伸びておりその先は交通公園となっているが、昭和の横川駅はEF63が次の電車を軽井沢に運ぶために待機しており、乗務員や駅員がわたわたしている駅だった。
「へー、あたしは鉄道は興味ないけどなんだか山の中なのに妙な活気があっていいねー。」
鉄道に興味がない裕子でも昭和時代の重要拠点の駅を見ると何か違いを感じて興味が出るものなのだなと、綾はちょっと嬉しそうに横川駅の話をし始めるのだったが裕子は特に聞いてるそぶりも無く、釜めしの中身をじっと見つめていた。
「どうして峠の釜めしはあんずがはいってるのかなぁ?」
横川の峠の釜めしは、うずらの卵、栗、ごぼう、杏子、椎茸、筍、鶏肉、グリーンピース、紅生姜、ごはんで構成されている。確かにあんずはかなり浮いた存在のような気はする。ネットで調べてみたら、「杏子はデザート的な意味合いと整腸作用にも良いと言われており、甘酸っぱい味は釜めしの味わいを盛り立てます。」
だそうだ。わかったようなわからないような。でもあんずが入ってると確かに峠の釜めし感が爆上がりである。
横川の昼休憩を終えて高崎を経て、国道17号線に入るとようやくバイパスが出てくる。高崎から深谷バイパスの途中までは供用されていたので、ここからは結構進むが深谷から先はバイパスは無い。東京に近づいても国道バイパスの非開通ぶりが北関東は多く、如何に長野県が遠かったのかがわかる。長野オリンピックによってものすごい恩恵を受けてるのを改めて感じる。ところで、長野オリンピックは西武グループ総帥である堤義明によって推進されていたが、西武鉄道も西武秩父駅までしか延伸していないが、バブルが弾けたのちの1998年なのでもしバブル絶頂が1998年でも続いていたなら軽井沢まで西武鉄道が延伸していたかもしれない。という妄想を描きながら走っていたら、裕子からインカムでそろそろ止まってほしい。と声が掛かった。
横川を13時に出て、そこから3時間走った結果あと少しで大宮というところまで来た。久しぶりにコンビニで休憩だ。関東の郊外まで来るとコンビニもだいぶ林立している。
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