第38話 箱根交通戦争とモータリゼーション化

 国道1号に出た。小田原市内線が走っていたのはほんの6年前なので供用軌道を見たかったなぁと綾は思いながら箱根湯本方面に進む。


 箱根と言えば今でも一大観光地であるが、今でも十分有名であるが温泉地として江戸時代から栄えていたが、観光地化が始まったのは大正時代のことでこのころ第一次交通戦争という自動車観光事業が激化し、箱根登山鉄道は国府津から強羅までを一気に結ぶ路線だったそうだ。このころに西武グループが箱根に進出したり観光地として脚光を浴び始めた黎明期。その後、第二次交通戦争と呼ばれるのが戦後直後のことで、戦前は自家用車で観光というステージにはなく、また有料道路もなかったが、戦後に入っていよいよ近代から現代に入り、前述した西武グループ(駿豆鉄道、のちの伊豆箱根鉄道)が自動車専用道路、早雲山線を開始、小涌谷-小田原間を箱根登山鉄道(小田急グループ)が持っているバス路線との運輸協定を結んで両社ともにバスを走らせることが叶ったが、芦ノ湖の遊覧船の就航競争が激化したのが原因でのちに駿豆鉄道が所有している早雲山線に遮断機を作って箱根登山鉄道のバスの通行を実力阻止という、今でいうと西武vs小田急という構図での対立が深まった時代のことを指すのだが、今綾が走ってるこの時代は第二次交通戦争が事実上収束し、今の観光地の交通基盤がほぼ完成する頃である。ちなみに交通戦争の結末は駿豆鉄道が所有する早雲山線及び湖畔線という道路を神奈川県が買収することで収束した。


 箱根湯本の手前で国道1号線からいよいよ箱根新道に入る。まだ出来てほんのちょっとなのできれいな有料道路だ。今も言われているが箱根はそこら中有料道路であるがその基盤となるのがこの年だったのである。箱根新道、芦ノ湖スカイライン、伊豆スカイライン(熱海峠~亀石ICあたりまで)はこの年に完成して、箱根ターンパイクは1965年に完成している。ちなみに湯河原パークウェイ(湯河原から湯河原峠)が1964年供用開始、富士見パークウェイ(韮山町から伊豆スカイライン韮山IC間)が1966年供用開始、2003年無料開放、箱根スカイラインが1972年供用開始、熱函道路が1973年供用開始、1997年無料開放といったように有料道路はこの時代から一気に増え、うなぎ屋の松琴楼の店員が発した言葉の通り、まさに自家用車での観光時代の突入元年だったという事だろう。ちなみに椿ラインだけは国道1号線と同様に昔からある道路だ。(1920年供用開始)


 相変わらずの要らない歴史蘊蓄はさておき、綾のCB72は箱根新道の七曲りに差し掛かったがものともせず登る。一気に標高を上げるこの箱根峠は走るたびに空気が冷たくなっていくのを実感できる道路で、麓の箱根町山崎ではややじっとり暑さを感じていたのに七曲りを登りきるころには爽やかな高原の空気に入れ替わっていた。オートバイの良さとはこういった高度を肌身で感じることも出来るのが楽しみの一つでもあるし苦しみの一つでもある。



一昔前は(1951年にホンダ社内テスト走行でホンダドリームE型でノンストップ登頂した)未舗装の国道1号線を箱根峠までオートバイで登りきること自体がエポックメイキングだった時代からあっという間にモータリゼーション化してしまったといえよう。

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