せいなる帷に囚われて

その魔術書は、錬金術全盛の時代に、ある一人の学者の手によって記された。その学者は研究熱心であるとともに義理堅い性格で、恩人である幼馴染とその想い人との仲を成就させるため、外法に手を出した。その結果、閉じられた空間に奇妙なある性質を与えるという術を完成させたのだという…






徐々に蒸し暑さが増してきた、ある日の放課後。


私立羽目槍高等学校2年C組の担任を勤める教師の篠田葵は、かれこれ一週間登校せず、引きこもりになっている男子生徒・田沢文則の家に訪れていた。ごく普通の、二階建ての一軒家である。


「先生、わざわざお手を患わせてしまって、本当になんと申し上げればよいか…」


玄関先で、文則の母の洋子は申し訳なさそうに葵へ頭を下げる。


「田沢さん、頭をお上げください。今日は単純に、息子さんの様子が少しでも分かればいいなと思ったので。むしろ謝るのは、突然押しかけてしまった私の方ですから」


「いえいえ、そんな。うちは女手ひとつで、親戚付き合いもなくて、文則のことを気にかけてくださるのは本当に、先生くらいなんです。感謝してもしきれません」


「恐縮です。では早速ですが、息子さんにお会いしても?」


「もちろんです、ご案内します」


洋子に連れられ、階段を上がる葵。大学を出てすぐ教師になり、今年で6年目になるが、こうして不登校の生徒の自室まで訪れるというのは初めての経験だった。正直、恐怖がないわけではない。だが真摯に教育に取り組む以上、こうした問題から目を背けることはできない。


「この部屋です。文則、先生が来たわよ! 文則ー?」


返事はない。


「すいません、一週間前から口もきいてくれないんです。私には何の心当たりもなくて」


「田沢さん、一度息子さんと二人でお話をさせてもらえないでしょうか」


「は、はい…わかりました。文則、先生に失礼のないようにね! じゃあ、よろしくお願いします」


葵がうなずくと、洋子は不安そうな面持ちのまま階段を降りていった。


「田沢くん? 担任の篠田です。少しでいいのでお話をしませんか?」


だが、やはり返事はなかった。


「田沢くん、声を出すのが辛いかな。じゃあ、私が話しかけるから、よかったら答えを紙に書いてドアの下から出してくれないかな。できそう?」


するとややあって、篠田の提案通りに紙が出された。レポート用紙を切り取ったと思われるその紙には、鉛筆でマルが書かれていた。


「ありがとう。じゃあ先生、田沢くんに質問するね。学校に来るのは辛い?」


また紙が出てきた。


『出たくても出れない』


「そうか、辛いんだね。理由はどうしてかな? 勉強についていけない? 友達とうまくいかない? …もしかして、いじめられてる?」


今度は反応がない。やはり答えづらいのだろうか。


「すぐには言えないよね。でもね、先生は何があっても田沢くんの気持ちをないがしろにしたりしないよ。勉強が難しかったら、いくらでも協力するよ。クラスメイトと会うのが辛かったら、みんなと時間をずらして、別の教室で過ごすこともできるよ。校長先生にも相談してあるから。いじめがあったとしたら、私たちの学校では絶対に握り潰したりしない。嫌なニュースを見て、学校が信頼できなくなってるとしたら、心配しなくて大丈夫だよ」


葵はできるだけ文則に寄り添って答えたつもりだった。だが反応はない。葵は、なにか傷つけるようなことを言ってしまったのだろうかと、自分の発言を思い直した。彼女は学生時代に、これといって辛い思いをした経験がない。そのため、悩む生徒の気持ちを理解してあげられないのではと危惧していた。だが、教師としてできる限りのことは真っ直ぐにやるつもりだった。


「田沢くん、ごめんね。先生、何か嫌なこと言っちゃったかな。もしよかったら、…ん?」


紙が出てきた。何やら長文である。葵はくまなく読み取ろうと目をこらす。


『古本屋でたまたま黒魔術の本を見つけて買った そこに書いてあった絶対に解けない結界の儀式を冗談半分でやってみたら成功してしまい、部屋に結界ががっちり張られて出られなくなった マジですぐにでも出たい 泣きたい 助けて』


「え、田沢くん?」


葵は一発で状況を理解できなかった。


「結界ってなに田沢くん え? ちょっと待ってじゃあ別に、不登校というか、学校に不満があって引きこもってるわけじゃないってこと?」


紙が出てくる。


『早くみんなに会いたい』


「田沢くん!!! そんな災難があったなんて! 先生考えもしなかった、ごめんね! すぐ出してあげるからね!」


とはいえ何の手立ても思い浮かばない。何かヒントを見つけたい葵。


「そういえばさ、結界にも隙間はあるの? ドアの下からはどうやって紙を出してるのかな?」


しばらくしてまた紙が出てきた。


『端っこのほうは鋭いもので引っ掻ければちょっとだけ持ち上がる 今はバタフライナイフで毎回隙間あけて渡してる』


「…なんか思ったより、質感が既製品っぽいんだ…ていうか、え、バタフライナイフって違法じゃなかった? 持ってて大丈夫なやつそれ?」


すぐに紙が出てきた。焦っているのか、今までより文字が雑だった。


『ネットで買ったニセモノで刃物じゃない 本物みたいに振って出し入れができるだけのやつ』


「ああなんだ、そっか…。ちなみに…だけどさ、何でそれ買ったの? 実用性なさそうじゃない…? というかさっきの、魔法の本? もだけどさ、ちょっと変わったもの買ってるけど、もしかして別のことで悩んでたりす…あっ紙」


『触れるな!!!』


「えっ嘘 地雷!? 先生相談のるよ!?」


『相談とかじゃないマジでそこ突っ込まないで』


「そそっそうなの? ならそうするけど…」


ドア越しにも分かるほどの殺気を感じた葵は、要求通りこの件は深追いしないことにした。


「ていうか、お母さんに相談したりしないのかな…できない事情があるのかな ちなみに、どうして声を出せないの? 普通の会話は難しいの?」


その質問は想定済みであったのか、すぐに紙が出された。


『この結界は防音が異様にしっかりしている 何があっても中からプライバシーを漏らすまいという強い意志を感じる』


「そうなんだ。何でだろうね」


葵は試しに、ドアを攻撃してみることにした。


「ちょっとごめんね う゛んっっ」


ドアに体当たりをかます。


「ちょっとドアが硬すぎて…動かざること山のごとしなんだけど どうなってるのこれ? 先生どうしたらいいの?」


するとまた紙である。


『多分物理攻撃は効かない 五万人のトロルが一斉に殴ってきてもびくともしないって書いてあった』


「そんなさあ…そんなバカみたいな表現 気持ち悪いよトロルだけで東京ドーム埋まるくらいいるの なんでそんな儀式しちゃったの田沢くん?」


『母さんが何回言ってもノックしないで部屋入ってきて この前一人でしてるの見られて 怒って衝動的にやっちゃった』


葵は肩を落とした。


「それでお母さんと話すのが恥ずかしいのか… あの…なんていうかさ…まあ先生、女だからそれがどれくらい恥ずかしいのかは量りかねるけどもさ…儀式ってそんな衝動だけで駆け抜けられるものなの? 途中で我に返ったりしなかった? よくわかんないけど、なんか捧げ物したり、呪文となえたりさ、そういう段階を全部ブチぎれながら完遂したってことだよね すごいね、普通そんなに怒りって持続しないよ よっぽど嫌だったんだ」


紙が出てくる。心なしか、出てくる時に少し震えているように見えた。


『逆の立場で考えてみたら?』


「あ…ごめん、そうだね。誰だって嫌だよね。先生ももし他人にそんなところ見られたって思ったら、恥ずかしくて…あれっ」


『ごちそうさま』


「田沢くん? 何してるの? 田沢くん!?」


『ちょっと今から取り込むんで対応できません』


「田沢ーーー!! 卑怯もの!!! すぐ開けなさい! 開かないのかこれ、ずるいって! 脱出できない状況を楽しまないでよ! 閉じ込められて鬱憤たまってるのか知らないけどめっちゃ気分悪いよ!!」


紙が飛び出てきた。心なしか投げやりさを感じる動きである。それには走り書きで、


『うっぷん以外にもイロイロたまってるんだ』


葵はそれを破り捨ててドアを蹴った。


「バカにすんのも大概にしろお!! こっちが何もできないって分かってて! 男なら正々堂々かかってこいよぉ!」


「先生大丈夫ですか!?」


洋子が慌てた様子で駆けつけてきた。


「大丈夫です田沢さん これは私と息子さんの問題なのですっこんでてくださいっ!!」


「そうですか…わかりました でも文則、先生とはきちんとやりとりをするんですね…私とは何の意志疎通もしてくれないのに、一体何が原因なのかしら」


「考えてみてください! 多分すぐ分かりますから!!」 


洋子を押し戻した葵は、ドアにめいっぱい顔を近づけて凄む。


「田沢くん? 先生正直怒ってるけど、君に出てきてほしいのは本当だからさ…だからさ! できるだけ協力してくれないかな? 別の事シてないで! ねっ!」


それに対して出てきたのは、何故か先ほどまでとは違うグシャグシャのレシートの裏紙だった。


『今終わりました』


「え、早くない?」


するとその言葉を受け、すぐに別の紙が。


『早くないです いえ早いかもですがこんなもんじゃないです 自分のは持続力がすさまじいため、すぐに再びフルパワーの状態へと移行できます お見せしましょう』


「お見せしましょうじゃないよバカ! やめなさい今すぐに! うわ~見えないけど同じことやってんのわかるなぁ! 屈辱すぎる…今日彼氏と付き合って2年目の記念日で…! 会う予定だったのに無理やりずらしてこっち来たのにさ…! あっ、今度は何?」


『会ってナニするつもりだったんですか?』


「うわ余計なこと言っちゃった! こんの野郎どこまでも人をこけにして! 絶対ゆるさないぞ絶対引きずり出してぶちのめしてやるからな! 覚悟しろこのガキ! この辱しめは何倍にもして返してやるからな! おぼえてろくそったれええええ!!!!」




五時間後



「先生、これはどういう事ですか!?」


自宅の前から何やら大きな破壊音がすることに気付き、外へ出てきた洋子は、目の前の光景に驚愕していた。


「お疲れ様です田沢さん。これはですねえバケットホイールエクスカベーターといって、海外で大規模な採掘作業に使われている重機なんですよお」


全長200メートル以上はあろうかというその巨大な機械は、周辺の住宅を踏み潰し、田沢家の前の通りに強引に侵入してきていた。


「そ、それで一体なにを掘り出すというんですか!?」


「それはねぇ田沢さん、あなたのご子息に無惨にも騙し取られた私の純潔ですぅ こうでもしないと取り返せませんからあ」


「文則があなたに何をしたっていうんですか!」


「ドア越しに私を慰みものにしたんですよ! 言わせないでくださいこんなこと! あなたもヤツとグルなんですか!?」


「それって裁判で解決するわけにはいきませんか!?」


「書面でやろうと暴力でやろうと同じことなので! それなら私はより後腐れのない暴力を選びまーす!」


「きゃーー!! たすけて文則ーー!!!」


機械が轟音を上げ、先端のホイールが土埃を上げて回り始める。


「待っててね田沢くん! 今出してあげるからねえ!!」


そしてーーー






「現場レポーターの花本です。ここでは3日前、目を疑う前代未聞の現象が起きました。こちらは現場付近のアパートにお住まいの、当時の目撃者の方です。お話を伺いたいと思います」


「いやー、あれは本当に、今でも現実だったとは思えない光景ですね…」


「具体的に、何が起こったのでしょうか?」


「ホイールが田沢さんの家の二階に触れたとたん、重機そのものが空高く吹き飛んだんです。まるで見えない何かに投げ出されたように…。そのまま機体が落ちてくるかと思いきや、空中で霧のように散ってなくなってしまいました…何が起きているのかまるで分かりませんでした。そして、恐らく操縦者であろう女性が落ちてきたんですが、これまた不思議なことに、重力の方向をまったく無視して田沢さんの家の窓へと吸い込まれていったんです」


「お聞きのように、にわかには信じがたい出来事ですが、同様の証言が近隣住民の多くから報告されているとのことです。その後、女性と田沢さん宅はどうなったのでしょうか?」


「その後ですか? その後はちょっと分からないですね。とにかく、今はこのあたり全体に異変が起きて…一度立ち入ると、外に出られなくなってしまっているんです」


「異変…? え、出られないんですか? ひょっとして私もですか!?」


「多分そうですね…でも、出られた人もいるんですよ」


「そ、それはどういうことなのでしょうか!?」


「さっきの女性と田沢さんちの息子さんは普通に出てきましたし…あとはご夫婦や、カップルの方々は難なく出入りしているようですね。子供だとか、我々のような独身はどうしても出られないんですが、何の違いなのか…脱出できる条件があるんだと思います。何かしないと出られない部屋、という感じですかね」


「…えー、このように、現場には混乱が広がっている模様です また情報が入り次第、お伝えいたします」




「はいオッケーでーす 休憩入りまーす」


「花本さん大丈夫? なんか緊張してる?」


「大丈夫です、プロデューサー…あの、ちょっとこっち来てくれませんか? あそこの物陰の方まで」


「え、何で? 何かあった?」


「いえ、すぐに出たいので、早く済ませましょう」










  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る