第4話 ずっと聞きたかった。椿さんは嫌じゃないの?

ピピピピ。ピピピピ。


 セットしたアラームが鳴り続ける朝。紅葉くれはは目を覚まして、ボーっと天井を眺めていた。

 まだしっかりしない意識の中で時計に手を伸ばし、アラームを切る。

 寝返りを打って反対側を向くと、隣に寝ていたはずの蓮太郎れんたろうの姿はもう既になかった。


 紅葉は目をこすりながらベッドから出ると、ウォークインクローゼットの扉を開ける。

 フィッティングルームの中にシワ一つないワイシャツと制服の上下がハンガーラックにかけられ、学校指定のネクタイと、シワ一つないハンカチが畳んでフィッティングルームに建て付けられた棚の上に置いてある。

 紅葉は制服に着替えて、ハンカチを制服のズボンのポケットに入れると、ドレッサーへと足を向ける。

 ほとんど寝ぐせのない髪をクシでかして整え、学校指定の靴を履くと、紅葉はウォークインクローゼットを後にした。


 直射日光が当たらない、朝でも少し薄暗い廊下を歩いて、下に行く階段にさしかかった時、紅葉は足を止めた。玄関からかえでと蓮太郎の声が聞こえてきたからだ。どうやら楓が出かけるところらしい。

 紅葉は楓と顔を合わせたくなくて、階段の上で息をひそめていた。



 楓が内履きからハイヒールへと履き替えている。

 ハイヒールを履き終えると、楓は使っていた靴べらを蓮太郎に渡す。

 靴べらを渡した後、ジッと楓が上目遣いで蓮太郎を見つめてくる。楓にいつもの笑顔を向ける蓮太郎。

 れたように楓が蓮太郎の胸元に指と視線をわせる。


「昨日は来てくれなかったわね」

「ええ、紅葉様が心配でしたので」


 楓が上目遣いの熱い視線を蓮太郎に向ける。


「ねぇ、蓮太郎。今夜はわたくしと一緒に過ごしてくださる?」


 蓮太郎はいつものように笑顔で答える。


「はい」


 楓は、蓮太郎に熱い視線を送ったまま、蓮太郎の首に腕を絡めるとなまめかしい声で朝の儀式を強請ねだる。


「蓮太郎、行ってらっしゃいのキスをして」


 蓮太郎は楓の前髪を優しく撫で上げると、楓の額に唇を落とす。

 楓は不満気な視線を蓮太郎に送る。


「蓮太郎、意地悪しないで。ちゃんと唇にして」


 楓は目を閉じて、蓮太郎に顔を近づけてキスをせがむ。

 蓮太郎は楓の唇に軽い口づけをする。


「こんなんじゃ出かけられないわ」


 楓は物足りないと言った顔で、蓮太郎の首に絡めた腕に力を込める。


「まったく、仕方ないですね」


 蓮太郎は楓の腰を左手で引き寄せ、右手で頭を固定すると、楓の唇を自分の唇で優しく包み込む。

 楓は蓮太郎の舌に自分の舌を絡めてくる。

 蓮太郎も躊躇ちゅうちょすることなく楓の舌に自分の舌を絡める。


「は…ぁ、ん…む…」


 ピチャピチャと唾液が混ざり合う音と、みだらな吐息とあえぎが朝の玄関ホールに響く。


 夢中で蓮太郎に自分の舌を絡めながら、楓の手は蓮太郎の下半身へと伸びる。

 楓の手が蓮太郎の下半身に触れた瞬間、蓮太郎は楓の手から逃れるようにキスを止めて、楓を自分の体から引き離した。


「楓様。そろそろ出発しないと遅刻してしまいますよ」


 楓は物欲しそうな潤んだ瞳を蓮太郎に向ける。


「続きは今夜」


 蓮太郎が笑顔で告げる。


「約束よ」


 楓が夢うつつで蓮太郎を見つめる。


「はい」


 蓮太郎が変わらぬ笑顔でうなずく。

 楓は後ろ髪を引かれる想いで、ドアレバーに手をかけ、扉を開くと、外に出て蓮太郎を振り返った。


「それじゃ、行ってくるわ」


 蓮太郎は右手を胸に当て、腰を45度に腰を折る。


「行ってらっしゃいませ」


 楓が扉を閉めずにしばらく蓮太郎に熱い視線を送っていると、蓮太郎が上体を起こして自分の唇を指差して笑顔で告げる。


「お車の中で、口紅、直した方がいいですよ」


 楓が赤面し、慌てて唇を隠す。


「あら、ホント?教えてくれてありがとう。それじゃ、行ってくるわね」


 化粧崩れを指摘された楓は、バツが悪い思いで扉を閉じた。

 少しして、外から車のエンジン音が聞こえてくる。

 車のドアの開閉音が聞こえて、楓を乗せた車が出発したのを確認すると、蓮太郎は笑顔を解いて、疲労交じりの長い溜息を吐き出した。


 蓮太郎は玄関のドアに視線を向けたまま、空に向けて言葉を投げる。


「助けてくれても良かったんですよ?」


 階段を下りられずにいた紅葉が、ビクッと1度身体を震わせると、さも今階段まで歩いてきたかのように姿を現す。

 階段を下りてくる紅葉へと視線を送り、蓮太郎が問う。


「おはようございます、紅葉様。どこからご覧になってたんです?」


 紅葉が蓮太郎と視線を合わせずに答える。


「僕何も見てないよ」

「わたくしが気づいていなかったとでも?」


 紅葉は浅い息を吐くと、観念して答える。


「ホントに見てないよ。おばあさまが靴を履き替えてたから、見つかりたくなくて、ずっと階段を下りずに息を潜めてたんだ。……声は聞こえちゃったけど」


 蓮太郎は頭の中で記憶を辿り、額に手を当てて溜息を吐く。


「最初からですか」


 紅葉が下を向いたままこぶしをギュッと握りしめる。


「ごめん、椿さん…」


 蓮太郎が呼吸を整えて、階段を下り終えた紅葉の隣に立ち、紅葉の左肩を右手でポンと軽く叩く。


「大丈夫ですよ。さ、早くダイニングに行きましょう。今日は彼女と学校に行きたいのでしょう?早く食べてお出かけになられないと。すれ違いになっては大変です」


 蓮太郎に促されるままに、紅葉はダイニングに向かう。




 庭園から聞こえる小鳥のさえずりと、靴音以外は聞こえない沈黙が満ちたダイニングルームへと続く長い廊下を、蓮太郎と紅葉はひたすらに歩いていく。


 ダイニングルームの前に着き、蓮太郎が2回扉をノックすると、内側から若いシェフが扉を開けてくれた。


「おはよう。朝早くからお疲れさま。いつもありがとう」


 紅葉は笑顔で、扉を開けてくれたシェフに朝の挨拶と感謝の言葉を述べると、ダイニングテーブルに向かい、蓮太郎がひいてくれていた椅子に座る。タイミングを合わせたかのように、キッチンからコック帽をかぶったシェフが朝食を乗せたワゴンを押して、キッチンからダイニングへと姿を現した。


 シェフは紅葉の座る席の側にワゴンを止めて、乗せてきた料理を次々にテーブルの上にセットしていく。

 クロワッサンとロールパンが2つずつ乗せられた皿。

 ブルーベリージャム、ストロベリージャム、ママレード、バターがそれぞれオシャレに盛り付けられたココット。

 グリーンサラダが添えられたオムレツプレート。

 コンソメスープが入ったカップ。

 最後に取り皿を2つ。


 ワゴンに乗せてきたすべての物をテーブルに乗せ終えると、蓮太郎に何事かを告げてシェフは空になったワゴンを押して、キッチンへと戻っていった。


 紅葉はナプキンを膝にかけて、手を合わせて呟いた。


「いただきます」


 紅葉はテーブルにセットされていたフォークとナイフを手にとると、グリーンサラダをフォークとナイフできれいに折りたたんで一口食べる。

 フォークとナイフをプレートの上に置き、スープスプーンをとると、カップの中のコンソメスープをスプーンですくい、口の中に入れる。

 紅葉はスプーンをカップの右縁にかけて、クロワッサンへと手を伸ばす。蓮太郎がサッとオムレツプレートの左側に一枚皿を用意する。紅葉は一口分クロワッサンをちぎると、残りは蓮太郎が用意してくれた皿の上に残りのパンを置く。

 紅葉は一口にちぎったクロワッサンに、バターナイフでブルーベリージャムを塗ると、口の中に入れる。

 口の中のパンを飲み込んだ後、紅葉は再度オムレツプレートの上のフォークとナイフを手に取り、オムレツを一口分切って口の中に運ぶ。


 紅葉がプレートの上の料理を完食する頃、蓮太郎がキッチンに向かい、ダイニングとキッチンの間に設けられたカウンターの上に置いてある呼び鈴を鳴らした。すぐに中から食事を運んできてくれたシェフが現れ、蓮太郎が何事かを告げる。

 蓮太郎とシェフは最後にお辞儀をし合って、シェフはキッチンに蓮太郎は紅葉の元にそれぞれ戻っていく。


 紅葉が残り一口分のロールパンにバター塗って、口に入れて味わっていると、キッチンから再びシェフがワゴンを押して現れた。

 ワゴンの上には1/4にカットされ、皮と果肉との間に切り込みが入ったメロンとティーセットが置かれている。

 シェフはメロンを乗せた皿をダイニングテーブルに置くと、空になったプレートとカップを手に持ち、ワゴンを置いたままキッチンへと戻っていった。


 紅葉はテーブルの上のデザートナイフとデザートフォークを手に取ると、慣れた手つきでメロンを食べ始める。蓮太郎はメロンを食べている紅葉の隣で、食後のティータイムの準備を始めた。

 蓮太郎はミルクピッチャーとシュガーポットをダイニングテーブルに下ろすと、ソーサーに乗ったティーカップの中にティーポットの中身を注ぐ。ティーカップからフワリと紅茶のいい香りが漂ってくる。


 紅葉がメロンの最後の一切れを口に入れたタイミングで、蓮太郎がティーカップの乗ったソーサーを紅葉の前に静かに置く。紅葉は蓮太郎が差し出したティーカップに手を伸ばす。ストレートで紅茶を一口飲んで、紅葉は深い息を吐いた。

 紅葉はシュガーポットの中から角砂糖を一粒とミルクポットの中身を適宜注ぐと、ティースプーンでよくかき混ぜて、甘いミルクティーを一気に飲み干した。


 紅葉はナプキンで口元を拭いて、テーブルの上に無造作に置くと、席を立った。


「そろそろ行くよ」


 紅葉の言葉を合図に、蓮太郎がダイニングの扉に向かって歩き出す。

 蓮太郎がダイニングの扉を開けると、紅葉が廊下へと先に出た。蓮太郎が後に続いてダイニングを後にする。






 紅葉がレストルームで身支度を整えて玄関に向かうと、蓮太郎が紅葉の学校のショルダーバッグを持って待っていた。

 蓮太郎が紅葉にショルダーバッグを差し出す。

 紅葉は蓮太郎からショルダーバッグを受け取る。


 ずっと長い間抱えていたモヤモヤ。あえて言葉にしなくてもわかっていたつもりで聞きもしなかったことを、今日紅葉は初めて口にした。


「ねぇ、椿さん」

「はい」


 蓮太郎が笑顔で応える。


「あの…椿さんは嫌じゃないの?おばあさまのお願いでも、あんなこと…」


 言い淀みながらも、紅葉は思いきって尋ねた。

 蓮太郎は今さら飛んでくるはずがないと思っていた紅葉の問いに面食らった。

 しばしの沈黙の後、蓮太郎は過去の自分を思い返すように、少し憂いを帯びた表情で語り出した。


「…嫌でしたよ、最初の頃はとても。でも、今は朝の儀式として諦めています。断ったとして後でどんなことになるかも知ってますしね。それを考えたらキスくらいなんてことないですよ…」

「おばあさまの名前『さん』付けで呼んでたけど」


 紅葉が視線だけ蓮太郎に向けて、呟くように問う。

 蓮太郎は苦笑交じりに応える。


「それは就業した時からですよ。二人きりの時は敬称を付けないで読んで欲しいと。でも、呼び捨てはどうしても抵抗があって、『さん』付けで呼んでみたところ、渋々ながら受け入れてもらえて、今でもそれが定着してるんです」

「椿さんはおばあさまから名前で呼ばれるの嫌じゃない?」


 蓮太郎が浅く息を吐いて、穏やかな顔で答える。


「嫌ではないですよ。楓様はわたくしの主君ですから。主君が従者を呼び捨てというのは当然のことでしょう?だから、嫌ではありません。でも、」


 蓮太郎が紅葉に温かい笑顔を向けて伝える。


「紅葉様にファーストネームを呼んでいただくのはすごく嬉しいです。主従関係ではなく、ホントの友だちになれたような、そんな感じがするから」


 今日、紅葉が初めて蓮太郎に視線を送る。蓮太郎のいつもの優しい笑顔。紅葉も笑顔で蓮太郎に告げる。


「僕は椿さんのこと、友だちだと思ってるよ」


 今日初めて視線を合わせた二人は、穏やかに笑い合う。

 和やかな雰囲気の中、ふと頭をよぎった考えを紅葉が自然と口にする。


「桑谷さんもファーストネームで呼んだら喜んでくれるかな?」


 蓮太郎が少し考えてから、答えを返す。


「その『桑谷さん』が嫌がらないのであれば名前で呼び合うのはありだと思いますよ。あと、ニックネームで呼ぶのも特別感があっていいんじゃないですかね」

「ニックネームか…」


 紅葉は頭の中でニックネームを考えながら難しい顔をしている。ふと紅葉が口を開く。


「桑ちゃん…桑ちゃん、桑ちゃん!」


 紅葉はキラキラした瞳を蓮太郎に向ける。


「桑ちゃんって可愛くない?」


 蓮太郎が嬉しそうな笑顔を浮かべる。


「いいんじゃないでしょうか。『桑ちゃん』って可愛いですし、ファミリーネームから付けたニックネームですから、受け入れられやすいと思います。早速使ってみてもいいと思いますよ」

「うん。会ったら『桑ちゃん』って呼んでいいか聞いてみる。ダメだって言われたらやめる。僕彼女が嫌がることは絶対にしたくないから」


 紅葉の笑顔が一瞬曇る。蓮太郎が紅葉をギュッと抱き締める。


「焦らないで、ゆっくりと紅葉様らしく接していけば大丈夫ですよ」


 紅葉が蓮太郎の背中に腕を回す。


「僕、自分自身の弱さも余裕のなさもカッコ悪さも、ちゃんと見せた上で好きになってもらいたいって思ってる。椿さんがそうしてくれたように。だから、今日も椿さんを助けられなかった僕がとても悔しくて…ホントにごめんなさい」


 蓮太郎が紅葉を抱いていた腕を緩めると、そっと紅葉の体を自分から放す。蓮太郎が優しい笑顔で紅葉に告げる。


「紅葉様、そろそろ出発しませんと。レディーを待たせてはいけません」


 紅葉が寂しそうに呟く。


「…約束はしてないんだ。そもそも無理言って付き合ってもらってるようなもんだし…」


「紅葉様…」


 紅葉はショルダーバッグをギュッと握りしめて、蓮太郎に笑顔を向ける。


「でも、桑谷さんに早く会いたいから、そろそろ行くね」


 蓮太郎はしばらく心配そうに紅葉を見ていたが、やがていつもの笑顔で告げる。


「はい、行ってらっしゃい、紅葉様」

「行ってきます、椿さん」


 紅葉は蓮太郎に挨拶をして、ドアレバーを押して扉を開けた。


「紅葉様」


 蓮太郎が引き止めると、外に一歩出て扉を閉めようとしていた紅葉が、蓮太郎を見上げる。


「自信を持ってくださいね」


 蓮太郎が告げると、紅葉は自分の体から余計な力が抜けていくのを感じた。紅葉は今日一番の自然な笑顔を蓮太郎に向けて元気に言った。


「ありがとう、椿さん。行ってきます」


 蓮太郎に見送られて、玄関の扉を閉めた紅葉は、晴れて陽光が射し込む門扉までの一本道へと一歩を踏み出した。

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