第3話 孤独な心。僕にはささやかな夢すら叶えられないの…?
すっかり夜を迎えた頃、紅葉は両脇に庭園をたたえた
一本道をしばらく歩いた先に現れたのは、童話にでも出てきそうなメルヘンチックな邸宅。紅葉は邸宅の扉のドアハンドルを引くと邸宅の中に入っていく。
紅葉が邸宅に入ると、奥からパタパタと足音をさせて、タキシードを着た30代前後の男性が姿を現した。
彼は
「おかえりなさい、紅葉様」
蓮太郎が少し息を切らしながら紅葉を出迎える。
「椿さん、ただいま」
紅葉は学校指定の学生かばんを蓮太郎に渡しながら挨拶を返す。
蓮太郎は紅葉から受け取ったカバンを持って、玄関を入ってすぐ目の前にある幅の広い赤い
階段を上りながら蓮太郎が紅葉に話しかける。
「紅葉様、今日も
紅葉が苦笑いして返す。
「椿さん、もう高校生なんだから、お迎えは入らないよ。それに、彼女とも一緒に帰りたいしね」
階段を上り終えたところで、蓮太郎が足を止めて紅葉の方を振り返ると、声を潜めて尋ねた。
「紅葉様、もしかして例の女性と…?」
紅葉は少し照れたように目を伏せると、蓮太郎の耳元で囁《ささや》いた。
「…今日、告白して、付き合うことになったんだ」
蓮太郎が嬉しそうに笑顔で言う。
「誠でございますか!ようございましたね、紅葉様」
紅葉が満開のはにかみ笑顔を見せる。
「うん、ありがとう、椿さん」
蓮太郎が、ほの明るい電灯が付いた廊下を先導して歩く。ふと後ろを歩いていた紅葉の足音が止まった。
蓮太郎が足を止めて紅葉の方を振り返る。紅葉の表情はどこか陰っているように見える。
紅葉がそっと口を開いた。
「椿さん、彼女ができたことおばあさまには…」
不安そうに言う紅葉に、蓮太郎は優しい笑顔で言った。
「言いませんよ。楓様には決して…!」
紅葉はまだ不安そうな顔に笑みを浮かべた。
「ありがとう、椿さん」
蓮太郎は楓の木彫りが
蓮太郎が壁のスイッチを入れると、部屋の中が明るく照らされる。
天蓋付きのベッドに、大きな書斎机、壁を取り囲むように並ぶ本棚、中央には三人は座れるであろうアンティーク調のオシャレなソファーが、アンティークの幅広のコーヒーテーブルを囲むように『コ』の字で置かれている。それだけの家具が置かれていながらもスペースはまだ十分に残っている。
この一人でいるには寂しすぎる広い空間が紅葉の部屋だ。
蓮太郎は更に部屋の奥まで行くと、突き当りにある扉のノブを回して開けた。
蓮太郎は突き当りの部屋の電灯のスイッチを入れる。
電気に照らし出されたのは、もはやどこかの店であるかのようなウォークインクローゼット。
入ってすぐ左側にシューズクローゼット、その奥には、通路を挟んで左側にジャケット、右側にズボンがシワ一つついていない状態でハンガーラックにかけられてズラリと並んでいる。ところどころに設置されたラウンドハンガーラックには、窮屈にならない程度にシャツがかけられ、壁に建てつけられた棚には帽子やバックなどの装飾品がセンス良く置かれ、店のディスプレイのようだ。クローゼットの一番奥には
蓮太郎が所定の場所に学生かばんを置く。
後からクローゼットに入ってきた紅葉は、扉を入ってすぐ右側にあるフィッテングルームに目を向ける。フィッテングルームの右側に設置されたハンガーラックと棚に正装と小物が用意されている。
紅葉は表情を曇らせて
「今日って…」
蓮太郎が紅葉の元まで歩いてくると、紅葉の両肩に、ポンと両手を置く。
「そうでございます…お召し物は用意しておきましたので、早くお着替えになってください。楓様が、ダイニングでお待ちです…」
紅葉は小さく呟きながら、フィッテングルームに入っていく。
「おばあさまと食事か…」
祖母の楓と自宅で食事をする時には正装をしなければならない。
これは楓が勝手に作った決まり事だ。
学校指定の制服を脱ぎ、蓮太郎が用意してくれたという洋服を手に取ろうと顔を上げると、ふと、目の前の姿見に写る自分が目に入った。
貧弱な体の上に乗った、顔色の悪い童顔。
背丈もなくて、まるで小学生だ。
紅葉は溜息を吐いて、蓮太郎が用意しておいてくれた正装に手を伸ばす。
白いYシャツ、黒いスラックス、黒とグレイのストライプ柄のジャケット。黙々と用意されたものを身に着けていく。
最後に蝶ネクタイを着けようと姿見に全身を写す。
鏡の中には無理して大人の真似事をしようとしている子供の姿があった。
あまりの
紅葉は首元に蝶ネクタイを着けると、フィッティングルームのカーテンを開ける。
「お待たせ、椿さん」
蓮太郎が笑顔で
「それではまいりましょうか」
二人は無言でダイニングに向かう。
階段の踊り場の壁に掛けられている楓の肖像画。二人で話しながら歩いてる時は気にならなかったのに、無言で歩いているとやけに気になる。無駄に目力の強い楓の似顔絵にジッと見張られてる気分だ。
階段を下りて、いい匂いが漂ってくるほの明るい廊下を蓮太郎の後に続いて歩いていく紅葉。その心は歩を進めるたびに乱れていく。紅葉は心を平静に保とうとダイニングに着くまでの間、深呼吸を繰り返した。
ふと、前を歩いていた蓮太郎の足が止まる。
蓮太郎が振り向かずに囁いた。
「大丈夫ですか?落ち着いたら、開けます」
紅葉は立ち止まり、胸に手を当てて、目を閉じると、ゆっくりと深呼吸をする。
ゆっくり息を吐き出すと、紅葉は目を開く。
その目はしっかりと前を見据えている。
「大丈夫、行こう」
蓮太郎がダイニングの扉を二回ノックし、扉を開ける。
扉を開けた先には、豪奢な装飾が施された十人は容易に座れるくらい大きなダイニングテーブルと、目を閉じた状態で上座の椅子に浅く腰かけた楓の姿がある。
蓮太郎はダイニングに足を踏み入れると、45度に腰を折り口を開く。
「失礼いたします。紅葉様をお連れ致しました」
続いて紅葉がダイニングに足を踏み入れ、蓮太郎に
「遅くなって申し訳ありません、おばあさま」
楓が目を開けて紅葉と蓮太郎を見据えると、紅葉に向けて一言命じる。
「早く座りなさい」
楓の熱のない物言いに紅葉は
前を歩いていた蓮太郎が椅子を引いてくれた椅子に、紅葉は浅く腰かけた。
蓮太郎は紅葉に耳打ちする。
「大丈夫ですよ。わたくしがずっとそばにおりますから」
紅葉の肩の力が少し抜けたことを後ろから確認すると、蓮太郎は紅葉から少し遠ざかって直立する。
紅葉がナプキンを膝にかけたのを確認して、楓が食事の号令をかける。
「それでは、食事にしましょう」
楓の声を合図に、キッチンからコック帽をかぶったシェフが前菜を乗せたワゴンを押して入ってくる。
「
静かなダイニングに、シェフの静かな声とワゴンのキャスターが
シェフが次々と料理を運んできては料理の説明をして、料理の入った皿を置き、空になった皿をワゴンに乗せてキッチンに戻っていく。
料理が変わるだけでシェフは同じ行動を繰り返している。まるで配膳ロボットのように。
楓も相変わらず黙々と食べ続けている。
部屋には皿とシルバーが
紅葉は自分だけ違う世界に飛ばされたような孤独を感じて、持っていたスプーンを皿の上にそっと置いた。
空になった皿を回収していたシェフが紅葉のそばまでくると、心配そうに声をかけた。
「
紅葉は無理矢理笑顔を作って、申し訳なさそうに答える。
「いいえ、とても美味しいです。ただ、ちょっと食欲がなくて…」
「そうでございましたか…。デザートに
「ありがとうございます。いただきます」
「では、お持ちしますね」
紅葉がシェフと話している間に食事を済ませた楓は、ナプキンで口の汚れを
「紅葉さん、最近帰りが遅くなる日が増えたわね」
紅葉は楓の顔を見ずに答える。
「ええ、委員会の仕事が忙しいものですから」
シェフが楓の隣でティーポットから器に茶を注ぐ。
「委員会の仕事…それなら仕方ないわね」
シェフが茶を注いだ器を楓の前に置く。
シェフが移動してから、楓が茶器の中身を一口含む。
「ライチティーね、さっぱりした甘さで美味しいわ」
シェフは紅葉の前にライチが入った器を置くと、楓と紅葉に一礼して、ワゴンを押しながらキッチンへと戻っていった。
楓はライチティーを飲みながら話し出す。
「紅葉さん、学校はどうかしら?」
紅葉は口の中の杏仁豆腐を飲み込んで、口元を拭ってから答える。
「楽しいですよ、とても」
「成績は落ちてないかしら?」
「学年トップを維持しています」
紅葉はナプキンを四つ折りにしてテーブルの上に置くと、椅子から立ち上がる。
「おばあさま、今日は気分が優れないので、これで失礼します」
背中を向けて立ち去ろうとした紅葉を楓の声が呼び止める。
「紅葉さん!」
紅葉はその場に縫い留められたようにピタッと足を止める。
「あなたはわたくしのものであること、忘れないでくださいね。あなたには将来の道も婚約者も既にわたくしが準備しました。高校だけはあなたの希望を優先しましたが、これ以上のわがままは許しませんので。あなたはわたくしの用意した道を逆らわずに進むこと。いいわね」
数秒の沈黙の後、紅葉が楓に背を向けたまま、静かに呟く。
「もし、僕がまたおばあさまに逆らってしまったとしたら…?」
紅葉のつぶやきを聞き逃さない楓が即座に反応する。
「今、何と?」
楓がジッと紅葉を
目が合っているわけではないのに、紅葉は楓の視線で動けなくなる。圧迫感で息がつまる。
「紅葉様、大丈夫ですか?」
蓮太郎が楓の
蓮太郎が優しく紅葉の方に触れる。小さいその肩は小刻みに震えていた。
蓮太郎は楓の方を振り返り、一礼して懇願する。
「楓様、紅葉様の体調が
楓はテーブルの上の茶器の中身をグイッと飲み干す。
「いいでしょう。紅葉さんに話したいことがあったんだけど、体調が治ってから改めます」
楓は立ち上がり、ダイニングから出て行こうとしていた紅葉の横で、ふと立ち止まった。
「紅葉さんには、体力もつけていただかないといけないようですね」
楓はそう言い捨てると、扉を開けて、ダイニングを後にした。
震えながら立ち尽くす紅葉に蓮太郎は優しく語りかける。
「紅葉様、お部屋に戻りましょう」
ダイニングから部屋までの長い道のりを紅葉は蓮太郎に支えられて歩く。
部屋に着くと蓮太郎が部屋の照明のスイッチを入れる。部屋が明るく照らし出された。
楓が建てた家。楓が用意した紅葉のための部屋。楓が用意した家具。楓からもらったお金で買った私物。
「この部屋には僕の物は何一つない。この身も、この心さえも、おばあさまの物…?僕の桑谷さんへの気持ちはどうすればいいの?僕は一生この家から逃れられないの?この家を出て、いつか自分の家を建てて、好きな人と慎ましく暮らしたい…!そんなささやかな夢すら僕には叶えられないの…?」
身体と声を震わせて、紅葉が心の内を
唇をかんで握った拳をわななかせる紅葉を、蓮太郎はギュッと抱きしめた。
「紅葉様、忘れないでいてください。あなたの身と心は誰がなんと言おうと紅葉様のものです。楓様の物になど決してなりません。「柳に追従する椿であれ」わたくしは幼い頃から家族や親族からそう擦り込まれて生きてきました。ですが、今わたくしが紅葉様とともにいるのは自分の意志です。昔の言葉を守って紅葉様を守っているわけではありません。紅葉様。今、紅葉様自身に生まれた感情をどうぞ大切にしてください。そして、自分自身の夢を諦めないでください。わたくしは紅葉様が心から幸せになれる未来が訪れることを信じていますよ」
紅葉が蓮太郎の背中に腕を回す。
蓮太郎に顔を見られないようにしながらも、紅葉の方は不定期に上下を繰り返している。
蓮太郎は紅葉の頭を撫でながら優しく言葉を紡いでいく。
「紅葉様、今日はもう休みましょう。寂しくならないよう今夜はわたくしがずっとそばについておりますので、安心して眠ってください」
「ありがとう、椿さん」
紅葉が震える声で呟くように言った。
蓮太郎は紅葉を抱きしめる腕に力を込める。
「今は労働時間外です」
一瞬の沈黙の後、紅葉が蓮太郎を押し離しながら口を開く。
「今日は何もしないで。ただ側にいて欲しい…」
蓮太郎は一瞬面くらった表情を浮かべたが、すぐにくすっと笑って応えた。
「大丈夫。紅葉様が嫌がることはもうしませんよ」
紅葉はようやく涙を拭いて安心したように笑った。
「ありがとう、蓮。寝る前に一緒にお風呂入ろう。ガウン貸してあげるよ」
蓮太郎は幸せそうに笑った。
「はい。紅葉様、背中流して差し上げます。お話もいっぱい聞きますよ」
蓮太郎の優しさに紅葉は救われる。
紅葉が笑ってくれると蓮太郎は優しくなれる。
隙間を埋め合う二人は、今日も日常を繰り返す。お互いの心の傷を癒すために。
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