第2話 忘れられない紅葉の言葉。わたし可愛くないもん……!

紅葉に自宅の門前まで送ってもらった勝美は、自宅へ向かって歩き出した紅葉の姿をしばらくボーっと見つめていた。

 紅葉の告白の文言が鮮明に頭の中でリピートされる。

 勝美は自分の顔が、身体が、熱くなっていくのを感じながらしばらくその場に立ち尽くす。


 少し強い風が吹き、勝美がふと我に返る。

 勝美は頭の中から邪魔なものを追い出そうとするかのように、何度か首をブンブンと左右に振り、両手で両の頬をバチンと叩くと玄関へと続く門扉を開けた。しかし、そんな気合い入れも虚しく、勝美の頭の中では紅葉の告白の言葉が浮かんで、またリピートされていく。

 再び自分の体に熱が帯びていくのを勝美は感じていた。


 玄関ドアの前まできて、勝美は一息吐く。自分の体に帯びた熱は一向に冷める気配がない。それどころか今にも座り込んでしまいそうなほどに足が震えているように感じる。こんな姿を家族に見られていろいろ詮索されるのも面倒だ。


 勝美はレバーハンドルを引いて玄関の扉を開けると、ドアが閉まる前に靴を脱いで、ドアが閉まると同時に家に上がり、目の前の階段を自分の部屋に向けて駆け上がる。

 勝美は自室のドアレバーを押し下げて扉を開くと、そのままの勢いで部屋の中に入り込んだ。


 部屋入り、扉が閉まると、気が抜けたのか、勝美はその場でへたり込む。

 勝美は熱くなった頬を両手で押さえると、そのまま体を丸めてうずくまった。


『桑谷さんは可愛いな』


 勝美は紅葉の言葉を思い出して、顔を覆っていた手でギュッと自らの肩を抱いて、ボソッとひとちる。


「…可愛くなんか…ないもん…」






 勝美が紅葉に送られて帰ってくるのを目撃していた者が二人いた。勝美の妹の夏美なつみと母のかなだ。

 夏美と奏は二人で勝美が帰ってくるのを待っていた。勝美の帰りが遅くなる時、決まって勝美を送ってきてくれる男の子がいることを二人とも知っているのだ。

 夏美と奏は常々勝美と一緒に帰ってくる男の子の仲を噂しては楽しんでいた。夏美と奏の二人は恋愛経験豊富であり、他人の恋愛事も楽しみたい部類の人種なのである。


 今日も帰りが遅い勝美をいつもの男の子が送ってくるのを、夏美と奏の二人はご飯の用意をしながら待っていた。


 外もとっぷり暗くなってきた頃、いつもの男の子が勝美を送って帰ってくるのがキッチンの窓から見えた。男の子はいつものように門の前まで勝美を送ると、勝美に手を振って、きた道を戻っていく。そこまではいつも通りだ。

 いつもと違ったのは男の子が帰った後の勝美の行動だ。いつもは男の子が手を振るのも無視する勢いで門の中に入る勝美が、今日は男の子を見送っている。心なしか顔も赤い。

 夏美と奏の二人は、勝美と男の子との間に何かあったであろうことを瞬時に察知した。


「あーもー、なんでママ今日赤飯炊かなかったのかなー」


 奏が両手で頬を包み込むと、のぼせ上った顔で嬉しそうに声をあげる。

 それとは対称的に夏美はボソッと冷めた声で呟いた。


「あーあ、お腹空いた…」





 勝美は自室でずっと、顔を覆ってうずくまった状態で固まっていた。時間の経過も、家族の存在も何もかも忘れるくらい、勝美の頭の中には紅葉の言葉ばかりがリピートで流れ続けている。故に、夏美が呼ぶ声すらも、夏美が部屋まで歩いてくる足音も、部屋の前まできた夏美が勝美の部屋のドアをノックしている音も、勝美には届かない。

 業を煮やした夏美が、勝美の部屋のドアを蹴り開けて、初めて勝美はビクッと背中を震わせた。


 部屋中に夏美の声が響き渡る。


「お姉ちゃん、ご飯だってば!」


 勝美が顔を覆っていた手を床について、むっくりと起き上がる。

 間髪入れず、夏美が勝美の前に仁王立ちした。

 すさまじい圧を感じて勝美が顔を上げると、不機嫌な夏美の顔が目と鼻の先にあり、勝美の口元が引きつる。

 夏美が不機嫌そうに口を開く。


「ご飯だよ、ご飯!わたしお腹空いてるんだから、早く着替えてリビングにきてよ!」


 夏美に気圧けおされた勝美は素直に応える。


「はい。すぐ行きます…」


 夏美はきびすを返して、リビングに向かおうとしたが、再度足を止め、勝美を振り返った。夏美は右手の人差し指で勝美をしてビシッと言い放つ。


「ホント早く来てよね!」


 夏美は鼻息荒く、今度こそリビングへ向けてドスドスと足音を立てて歩いていった。

 一階からリビングの扉の音と、夏美と奏の話声が聞こえ始めて、勝美は現実に引き戻される。


 勝美はゆっくりと立ち上がると

 部屋の電気をけると、のそのそと制服を脱ぎ始める。

 ふと、キャビネット横に置いてある姿見に写る下着姿の自分が目に入った。短い髪、決して大きいとは言えない胸、凹凸おうとつのないのっぺりとしたボディライン。女としての魅力を全く感じない。


『こんな自分の何が可愛いというのか…』


 勝美は唇をみしめ、姿見から目をはずすと、黒一色のラフなジャージにそでを通す。


 勝美は制服をハンガーにかけ、壁に取り付けたL字フックにるすと、自室を後にした。



 勝美がリビングの扉を開くと、奏と夏美が食卓について待っていた。

 ニコニコと笑顔で迎える奏に対して、夏美は少しいらついた様子だ。


「もー!お姉ちゃん、早く座ってよ。私もうお腹ペコペコ」


 夏美は勝美をかすように声を荒げる。勝美は夏美の言葉にあせることなく、ゆっくりと食卓に近付くと、椅子に座る。

 勝美が食卓についたことを確認すると、奏が手を合わせて笑顔で口を開く。


「勝美ちゃんもきたし、ご飯、いただきましょうか」


 待ってましたとばかりに夏美が箸を持って手を合わせる。


「やったー!いっただっきまーす!」


 夏美は箸を右手に持ち、白米を一口分すくうとモグッと頬張る。モグモグと咀嚼そしゃくし、それをゴクンと飲み込むと、夏美は心底幸せそうな声をもらす。


「うーん、美味しい!」


 夏美は大皿に盛られた麻婆茄子まーぼーなすを自分の小皿に適量入れると、またパクパクと口へと運んでいく。奏は夏美の様子を笑顔で眺める。


 食事をしながらニコニコと夏美の様子を見ていた奏が、ふと勝美のほうに目を向ける。

 食事の勢いがおとろえない夏美に対して、勝美の箸はまったく進んでいない。食事なんて上の空だ。

 くうを見つめてボーっとしている勝美に、奏が声をかけた。


「勝美ちゃん?」


 奏に名前を呼ばれて、勝美がふと我に返る。


「え?な、何?お母さん」


 奏は笑顔で問いかける。


「ご飯、あまり食べてないみたいだけど、何かあった?」


 勝美は箸を持ったままの手と首をブンブンと横に振り、慌てた様子で答える。


「何もない!何もないよ。ちょっと考え事してただけ!」


 勝美は一口分の白米を箸ですくうと口に運ぶ。最初は一定の速度で咀嚼していた勝美だが、数回重ねるうちに、勝美の咀嚼速度は遅くなり、目はだんだんうつろになっていく。更にその顔は心なしかどんどん紅潮していくように見える。


 奏と勝美が話してる間にお腹を満たした夏美が、箸を茶碗の上に置き手を合わせる。


「あー美味しかった。ごちそうさまでした」


 夏美が立ち上がってキッチンに向かう。

 奏は一瞬夏美と視線を交わしてクスっと一回笑うと、勝美のほうに向き直り笑顔で問いかける。


「勝美ちゃん、何を考えこんでるの?良かったらママに話してみない?」


 勝美は奏から顔を反らすように少し横を向きながら、ボソッと答える。


「大したことじゃないから気にしないで」


 夏美がキッチンからティーパック入りのマグカップを手に戻ってくる。

 夏美はテーブルの上の電気ポットに手を伸ばすと、持ってきたマグカップにお湯を注ぐ。アプリコットのいい香りが部屋中に広がる。

 夏美はティーパックが入ったままのマグカップに口をつけ、紅茶を一口飲むと、ティーパックを皿の上に出してホッと一息ついた。

 夏美は勝美に視線を送り、ニヤッと口の端をゆがめると、勝美の心を見透かすように語り出す。


「ママ、お姉ちゃんはね、今玄関先ののことで頭がいっぱいなの。だからね、お腹に栄養を送ってる場合じゃないんだよ、きっと」


 勝美が夏美の言葉に反射的に顔を上げる。


「ちがっ!!」


 勝美の顔は真っ赤に染まっている。

 勝美の顔を見て、夏美はクスっと笑いながら続ける。


「あれ、あたり?お姉ちゃんってすぐ顔に出るんだもん。わっかりやすい」


 勝美はうつむいて言葉にならない声を上げる。


「う~…」


 夏美はマグカップを両手で包み込むように持つと、食卓に肘をつき、勝美に視線を送りながらとどめの一言をもらす。


「で?告白でもされた?」


 勝美が夏美の一言に再び反射的に顔を上げる。その顔は首までゆでだこのように赤く染まっていた。

 勝美は言葉にならない大きな声を上げる。


「ばっ…!そっ…!あ~ッ!!!」


 勝美の様子をジッと見ていた奏が、興奮で立ち上がり、目を輝かせて勝美のそばまで歩み寄り、思いのままに言葉を口から滑らせた。


「そうなの、勝美ちゃん!あの男の子に告白されて、付き合うことになったんだ!?昨日まではただの委員会が同じだけの同級生って言ってたのに。そうなんだ~!」


 勝美が再び俯いてボソッと呟く。


「わたしの中で、あいつは今でも委員会が同じだけの同級生だし…」


 勝美の反応を見て、少し興奮が冷めた奏は、心を落ち着かせて、笑顔で勝美に問う。


「勝美ちゃんは、あの子が嫌いなの?」


 勝美が視線をさまよわせながら曖昧に答える。


「嫌い、ではない…けど、まだよくあいつのことわからないし…そんな状態で付き合うなんて…なんていうか、その…」


 一生懸命に話す勝美の背中を、奏が優しくポンと叩いて、笑顔で語りかける。


「付き合っていく中で相手のことを知っていくのもママはありだと思うな。好き同士のカップルばかりじゃないと思うもの」


 勝美が自信なさげに言葉を挟む。


「でも、わたし、女の子らしくないし、可愛くもないし、素直でもない」


 奏が再び勝美の背中をポンと叩きながら続ける。


「あの子から見た勝美ちゃんは、すごく魅力的な女の子なんじゃない?それにママは、勝美ちゃんはとても可愛くて素直だと思うけど」


 夏美が奏の言葉に続く。


「恋愛にうとくて、すぐに顔を真っ赤に染めちゃうとことか、すぐに落ち込んじゃうとことか、わたしたちにはない可愛さだよね。顔なんて口よりも素直だし」


 夏美の言葉に笑いながら、奏が続ける。


「そうそう。付き合ったら一生添い遂げなきゃいけないわけじゃないし、ダメなら別れるって選択肢もあるわけだし、まずは気軽に交際してみたらいいじゃない」


 勝美が顔を上げて奏に目を向ける。勝美と奏の視線が交わる。

 奏は満面の笑みを勝美に向けると、勝美の両肩をガッとつかんでめくくった。


「そして、進展があったらすぐにママに言ってね!ママ二人を応援してるから!!」


 感動的な場面から一変、奏のミーハーな一言に勝美は顔をゆがめ、口の端を引きつらせる。


 一人楽しげな奏を見ながら、夏美がマグカップのアプリコットティーを飲み干して立ち上がると、勝美に一言かける。


「わたしも報告楽しみにしてるわ」


 夏美が携帯を手にリビングを後にする。


 勝美は家族から向けられる好奇を全身に感じながら、自分の想いのすべてを反映してしまう顔面の正直さをうらんだ。

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