第3話

 理恵は書斎の椅子に深く腰掛け、書籍をまた一つ積み上げた。

 机上には、専門書の塔が三つほど並んでいる。調べれば調べるほど、八木羊介のことが分からない。

「お母さん」

 書斎の入口から娘が呼びかける。

「何? まだ起きてたの?」

「もう寝るところ。お母さんはまだ調べ物?」

「そうね、もう少ししたら休むわ」

 中学生になる娘は賢い。理恵の様子から、今回母親が抱えている案件がただならぬものであると感じ取っているらしかった。

「無理はしないでね」

「ありがと」

「そうそう、懇談のプリント、リビングの机に置いておいたから」

「もうそんな時期ね。オーケー、後で確認しとく。そろそろ期末テストの結果も出るころじゃない?」

「じゃ、おやすみぃ」

「あ、逃げるな」

 他愛のないやり取り。まだ娘が小学校に上がる前に夫と離縁し、それからは女手一つで彼女を育ててきた。理恵の実家も、頼れる距離にない。だから仕事と家事に翻弄され、娘と過ごす時間をなかなか作ってやれなかった。それでも、よくここまで道を違えずに育ってくれたものだと思う。

 理恵は改めて、うず高く積まれた専門書に向き直る。

 今日経験したあれは、いったい何だったのだろうか。

 当初、理恵は薬物の使用を疑った。香水などに幻覚作用をもつ薬物を混ぜ込み、こちらを惑わせたのではないか。しかし、鑑定留置中である八木に、そんなことできるはずがない。

 洗脳? 催眠術?

 大仰な言葉が脳裏をよぎる。

 少なくとも、今日垣間見た現象は、洗脳とは異なるものだろう。そもそも洗脳とは、相手から冷静な判断力を奪い、従わざるを得ない状況へ追い込んでいくことを指す。そのために、洗脳の主犯格となる人間は手段をいとわない。相手を理想的な人間だと尊ぶ時期と、些細なことから相手に幻滅しこき下ろす時期を頻繁に繰り返す。緊張と緩和。飴と鞭。相手を思いどおりに動かすにはそれで十分だ。認識や価値観を書き換えられ「操り人形」となる、なんていう一般的なイメージとは全く異なる。

 では催眠術はどうだろうか? 催眠術などというものが本当にあるとは、理恵自身信じていない。心理士である以上、非科学的な内容を求めることの不毛さを嫌というほど分かっている。しかし、それならば彼女自身に起こった現象をどう説明すればよいというのか。

 八木のしたことは、洗脳と催眠術のどちらにも当てはまらないように思えた。強いて言えば、催眠術の方がより近いと言えるのかもしれない。

 彼がしたのは「話すこと」だけ。それなのに、理恵の内面を大きく揺さぶり、間違った選択をさせる寸前まで追い込んだのだ。

 手を尽くして調べたが、同様の事例はどこにも見つからなかった。こうなると、理恵も仮説の上に仮説を重ねるしかなくなる。

 ――八木羊介は、

 なんて荒唐無稽で、現実味を欠いた推測だろう。ただ、それ以外に考えようもなかった。もしこれが事実だとすれば、天才的な詐欺師であることも、そのわりに会話が堪能でないことも説明がつく。

 人を言葉で操る。

 改めて、面接中の感覚を思い出そうとする。頭の中にもやがかかったような感覚。八木の話にかき立てられた強い同情心。彼のために何かをせねばという使命感。

 それと、何か大きなものに包まれた安堵感のようなもの――彼の言葉に身を任せていれば心配いらないとさえ思えた――もあった気がする。

 次回の面接でも、細心の注意を払わなければならない。

 理恵はラミネートした紙を手に取る。

 幼稚な字で書かれた『ぼくの言うことを信じないで』という文字列。

 これを見た瞬間に、理恵の思考は明瞭さを取り戻した。お守り代わりに、ラミネートとして持参するつもりだった。八木が語り始めてもコントロールされないよう、この用紙を見える位置に置いておけばいい。

 この現象もどう説明すればよいだろう。

 八木の右手は、彼の意志と関係なく文字を書いたように見えた。そして実際に、八木が話す言葉の効果を抑制した。

 二重人格、あるいは多重人格——解離性障害とは少し様子が違うようにも見えた。もとの人格から離れて別の人格に切り替わるから「解離」なのだ。彼のように、話す人格と書く人格が同時に存在していることなどあり得るのだろうか。

 脳機能の障害を負った人間において、自分の意志とは関係なく腕が動くという事例があるのは聞いたことがある。しかし、それだって、壁のスイッチを押す程度のものだったはずだ。果たして、本人の思考から離れて書記することなど可能なのだろうか。

 ——八木羊介は、

 口の方の人格は厄介だ。何が事実で何が嘘か分からない。それに明確な害意をもって、こちらを操ろうとしてくる。手の方の人格は、文章から感じる幼さや発信の少なさから、おそらく口よりも格下なのだろう。ただ、話術による催眠を解くことができる。すべて確証のない、理恵の推測なのだが。

 理恵は頭を振る。

 情報が少なすぎる。次回の面接を前に、不安になっているのだ。これ以上思考を繰り返したところで、得られるものはない。次回の面接中に確認すべき内容だけ書き出して、あとは身体を休めることに専念するべきだ。

 理恵が任されているのは八木の鑑定のみ。だから、彼が犯行当時、自分の行動に責任を負える状態だったのかどうかを判断すればよいのだ。

 彼が意図的に他人をコントロールしたか。口と右手がバラバラに行動することが、犯行や精神状態にどう影響したのか。

 これらについては、単刀直入に尋ねてみるほかない。そして、正確な供述を引き出すには、必要があるだろう。理恵はそう思った。

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