第4話

 二回目の面接にやってきた八木は、不遜な態度が目立った。軽薄な会話で懐に入ろうとする様子もなく、敬語も使わない。初回の結果を踏まえ、取り繕っても無駄だと感じたのかもしれない。

「また先生なんだね」

「どういう意味?」

「いや、担当が代わるかと思ったから」

 確かに、そうすることも理恵の脳裏をよぎった。しかし、まだ何もつかめていないのだ。少なくとも、彼のもつ力について把握した上でなければ、他の人間に引き渡すことなどできない。

 奇妙なビジョンが見える。八木が裁判を受けていて、その周囲には裁判官や検察、原告、傍聴者などが並んでいる。八木が何かを言う。次第に、彼の話を聞いている人間の眼がぼんやりと濁り、やがて大きく頷くようになる。「彼の言うとおりだ」と誰かが言う。原告が「訴えを取り下げるわ」と叫ぶ。裁判長が「無罪だ」と手を打つ。八木は奇妙な笑みを浮かべて、裁判所を後にする。

 そんな未来は避けねばなるまい。

 八木はちらりと理恵の手元を見やった。『ぼくの言うことを信じないで』という赤い文字が置かれている。

「念のため、ね。これに何の意味があるのかって聞かれても困るのだけれど」

 理恵は堂々と彼を見返す。ここで委縮してはならない。八木の力についてここまで把握しているということを、感じ取らせる必要があった。

「今日も面接の続きになるけれど、面倒だし口調もこんなふうで失礼するわね。あなたもその方がいいでしょう?」

「昨日とは別人だ」

「こっちが本性」

 主導権を持ち続けるのだ。そのために、多少荒っぽい口調を選択する。心理士は役者だ。そして、理恵にはステージに上がってきた観客を引きずり下ろす必要があった。

「昨日と同じで、これも渡しておくわね」

 八木の目の前に、紙の束と、赤いマーカーを差し出す。

 彼の眉がぴくりと吊り上がった。

「いらないよ」

「私に必要なの」

 彼の右手はマーカーを握り、用紙を引き寄せた。八木はふてくされたような顔をしている。

「今からちょっと変なことを言うわね」

「何を言うつもり?」

「黙って聞いて。いくつか質問をさせてもらうけれど、正直に答えてほしいの。そして正直に答えられなかったときには、

 八木は吹き出した。

「そんなこと言われたの初めてだ。先生、自分でめちゃくちゃおかしなこと言っている自覚ある?」

 理恵は答えない。

 八木の右手が動いたからだ。大きく、はっきりと。

『わかった』

 ――想像どおり。

 やはり、八木の右手が別の人格であるという仮説は正しそうだ。理恵はほくそ笑む。

「了解が得られたみたいね」

 八木が真顔で理恵を見返す。

「したたかだな、先生。強敵だ」

「どうも。それで、質問を始めてもいい?」

 二人の間に、微弱な電気が走ったような気がした。ここからはハッタリと攪乱だ。


「今日確認したいのは、あなたのもっている不思議な能力について。それから犯行当時のあなたの状況。最後に、あなたの生育歴」

 理恵の言葉を、八木は鼻で笑う。

「先生、漫画の読みすぎじゃないのか? 俺には超能力なんてない」

 一瞬だけ、理恵の心が揺れる。八木の言うことはもっともだ。「あなたのもっている不思議な能力」だって? 非科学的にも程があるだろう。一体自分は、何を言っているのか――。

 彼女は手元のラミネートへ視線を移す。

『ぼくの言うことを信じないで』

 早くも立ち込め始めていたもやが、ふっと消えていく。

 八木はすでに、揺さぶりをかけ始めているのだ。こんな序盤で体勢を崩すわけにはいかない。

 細く長く深呼吸し、改めて八木を見つめ直す。

「あなたには、言葉で人を操る力がある。これは私が導き出した仮説よ」

 八木は重ねて否定しようという素振りを見せた。しかし、彼の右手の方が早かった。

『そうだよ』

 真っ赤なマーカーの文字。

「違う」

 八木はなおも否定する。

「現に先生も目にしているとおり、俺は口と手が別々に動く人間だ。それは認めよう。だけど、人を操るなんてことはできない」

 彼の魂胆が少しずつ見えてくる。逃げ場を少しずつ失い焦っているに違いない。罪をごまかすことをあきらめ、自分にとって有利な鑑定結果を引き出す方向へシフトしたようだ。多重人格による心神喪失、ひいては責任能力を問えない――それが彼にとっての「落としどころ」だろう。

 当然、その点について理恵は客観的に判断するつもりだった。責任能力に問えないという結論に達した場合はそれまでだ。理恵は鑑定を任されているのであって、八木の刑罰を重くすることを目指しているわけではない。

 ただ、客観的な判断を導き出すためには、八木によるコントロールを退けつつ、真偽を見極める必要があった。そのために、八木にはもう少し追い込まれてもらう必要がある。

 理恵は大げさにため息をつく。

 ここ一番のハッタリをかます必要がある。

「私はね、正直なところ、私の仮説が合っているのかどうかなんて興味がないの。あなたのことを学会で発表するつもりもないしね。私が欲しいのは、これ」

 八木の手元を指さす。マーカーで書かれた文字。

「裁判で何よりも強いのは物証。そしてあなたは、自らそれを残している。いくら口で弁明したところで、『被告本人が書いた文章』には及ばないわ」

「何が言いたい?」

「つまり、あなたにどんな事情があったとしても、ここであなたの右手が罪を認める記述をすれば、あなたは一発アウトってこと」

「それは俺じゃない別の人格が――」

?」

 八木は口をつぐむ。理恵はここぞとばかりに畳みかける。

「覚えておいて。


 沈黙が漂う。

 理恵は部屋の隅にある植物を通して、面接を俯瞰する。

 現象はすでに始まっている。理恵と八木の間に立ち込め、時々爆ぜる電気のようなもの。そしてその主導権を握っているのは理恵なのだ。

「あらためて、質問をするわね」

 八木は何も言わない。抵抗をあきらめたのか、それとも、また別の策を練っているのだろうか。

「あなたに言葉で人を操る力があるのかどうかはひとまず置いておくわ。物証は得られたし」

 理恵は『そうだよ』の紙をひらひらと振って見せ、新しい用紙を彼の前に置いた。彼の右手は、その紙を手元に引き寄せた。

「次は、あなたの口と、右手について聞かせてちょうだい」

「はいはい、仰せのままに」

 八木はぞんざいに言う。

「今、口と右手、と言ったけれど、その二つにそれぞれの人格があるという認識でいいのかしら?」

「まあ、そんな感じでいいんじゃないか?」

 彼の右手がぴくりと動く。理恵はそれを見逃さない。

「少し正確さに欠ける返事だったみたいね」

 八木は深くため息をつく。いら立っている。言い換えれば、それは理恵が場を掌握できているということだ。

「正確に言えば、異なる人格が宿るのは『話し言葉』と『書き言葉』だ。繰り返し試したから確証はある。右手だけでなくて、左手で文字を書くときだって『書き言葉』の人格だ。さらに言えば、パソコンの音声認識で文字を打ち出すときも同じ。口や手が重要というより、言葉が文字として表れるか否かが大事らしい。逆を言えば――これはまだ試したことがないが――俺が手話を使った場合、動かすのは手だが、話し手は『話し言葉』の人格になるんだろうな」

 話し言葉と書き言葉で異なる人格をもつ男。

 本当にそんなものが存在するのだろうか。今のところ、八木の右手は何も書き出していない。

「そうなったのはいつから? 何かきっかけがあったの?」

「2つの質問を重ねないでくれよ。どちらに答えればいいのか分からなくなる」

 険のある言い方にぎくりとする。しかし、ここで相手のペースにのせられてはならない。八木の言葉に揺さぶられて隙を見せれば、彼は躊躇なくこちらを潰しにかかるだろう。

「じゃあ、前者は?」

「覚えてないね」

「後者は?」

「それも覚えていない」

 答える気がないということか。念のため、彼の「書き言葉」に向かって意識的に言葉を投げかける。

「あなたの言っていることは本当?」

 彼の右手が動く。

『ぼくもおぼえてない』

 いずれの人格も記憶がないという。しかし、それで「はいそうですか」とあきらめるわけにはいかない。

 理恵は個人的な疑問を一度挟むことにした。

「行動に矛盾はないの? たとえば、ここで椅子に座って私といっしょにいることを選択しているのは、『話し言葉』の人? それとも『書き言葉』の人?」

 八木はなぜ腕をギプスでぐるぐる巻きにしないのか。なぜ口を自分で縫い合わせてしまわないのか。行動の主体が見えてこない。

「説明が難しいな」

 彼は頭を掻く。理恵は視線だけで続きを促した。

「あー、バスなんだよ」

「バス?」

「そう。気味の悪いトンネルを走るバス。俺はそれに乗っていて、『書き言葉』の坊主も乗ってる。それで、ハンドルを握る運転手がいる」

「運転手?」

「顔のない、不気味な奴だよ。とにかく、ハンドルを握っているのは俺でも坊主でもない。あらゆる決定権は、運転手にあるんだ。俺たちにできるのは、ああした方がいい、こうした方がいいってわめくことだけ。どの意見が採用されるのかは、運転手しか知らない」

 バスのメタファー。それは、八木の心象風景に他ならなかった。

「つまり、ここで大人しく私の前に座っているのは、あなたの選択ではなくて運転手の選択ということ?」

「俺が主導権を握っていたら、即座にここを飛び出すだろうね」

「改めて聞くのだけれど、行動に矛盾は生じないの?」

「先生の言う『矛盾』が何を意味しているのかよく分からないが、たぶんないね。俺はしゃべる、坊主は書く、それ以外の行動は運転手が決める。ずっとそうしてきた」

 ふむ。

 理恵は一度、大きく頷く。非常に興味深い。これが鑑定の場でさえなければ、彼のことをもっともっと奥底まで尋ねてみたかった。

 同時に、胸の辺りがざわざわとしていた。

 おかしいな、と思う。いくらなんでも、八木が従順すぎるのだ。聞いたことには(どこまで真実なのかは置いておいて)少なくとも何らかの返答を寄越している。そしておそらく、悪質な虚偽はない――右手が動いていないからだ。

 知らず知らずの間に、また何かを信じ込まされているのではないか。そんな疑念すらよぎる。

 現時点までに抜かりはないはずだ。そう分かっていても、自分自身に対する不信がまとわりつく。

「ここまで、正直に話してくれてありがとう。話を変えるわね。犯行当時の状況について聞きたいわ」

 不安を払いのけるように、理恵は話題を切り替えた。八木は唇をゆがめて笑う。

「どの犯行かな?」

「七十歳のおばあさんに対する詐欺事件。分かっているでしょう?」

 その事件の犯人は、ゆっくり三度ほど頷いた。

「それで、何を話せばいいかな?」

「端的に聞くわね。あなたに悪気はあったの?」

 本来なら、犯行を決意するまでの経緯、計画性、犯行時の情報などを丁寧に聞き取るべきなのだろう。しかし、八木においてそれは得策と言えない――理恵はそう判断した。長期戦に持ち込むほど、つけ入る隙を与えることになるからだ。

 八木は吹き出した。

「端的だね。そんなふうに聞かれるとは思わなかった。悪気があったと答えれば即座に『責任能力あり』とみなされる。普通、まともに答えようとは思わないだろうね」

「でもあなたは正直に話してくれるんでしょう?」

 沈黙。八木は黙って右手に目を落とす。マーカーを握ったそれは、いつでも動き出せる状態だ。

 彼は鼻を鳴らした。

「認めよう、悪気はあったんだよ。ただし、これだけは言わせてほしい。右手と口が別の動きをする人間がまともな稼ぎ方をできると思うか? もし俺がこんな状態でなければ、詐欺なんかには手を出さなかっただろうね」

「つまり、責任能力があったことは認めるけれど、情状酌量を願いたいということね?」

「ご想像にお任せするよ」

 ひとまず、これで理恵の仕事は終わったに等しい。

 犯行当時の責任能力について、少なくとも本人の言質を取ることができたわけだ。

 相変わらず、八木の大人しさが気にかかる。

 有利な鑑定結果を引き出そうと策略を巡らせているのだとばかり思っていた。しかし、彼はあっさりと自分の罪を認めてしまった。

 彼の右手を引き合いに出して脅しをかけたとはいえ、逃げ道がないわけではない。黙秘し続けるという手も、右手を無視して嘘を貫くという手もある(右手の書いた文章がどれほどの物的証拠となるのかは、実際のところ理恵も自信がない)。しかし彼はそれをしなかったのだ。

 彼は何か別のことを狙っている。

 理恵は直感的にそう疑ったが、それは行き過ぎた考えだろうか。

 ——今日確認したいのは、あなたのもっている不思議な能力について。それから犯行当時のあなたの状況。最後に、あなたの生育歴。

 自分の言葉がよみがえる。

 これで終わりにしてもよいのだが、生育歴を押さえておいても損はないだろう。生まれてから今に至るまで、彼自身がどのように形成されてきたのかを把握することは有益だ。個人がもとから有している素因を差し置いて、成長過程の環境要因が精神状態に多大な影響を与えることは、心理士でなくとも知っている。

「最後に、あなたの生育歴を教えて」

 八木は、まだ続くんですか、とでも言いたげな表情を浮かべた。

「前回、話したと思うけどね」

「精神を病んだ父親に万引きを強要された話? あれ、全部嘘でしょう?」

 理恵はラミネートした『ぼくの言うことを信じないで』をひらひらと揺らしてみせる。

 調書の文言が脳裏をよぎる――『父親とは死別』。

 八木の父親に関して、理恵は関心があった。結局、彼の話していることのどれが本当なのか、よく分からないのだ。

「人を疑うのはよくないね。七度訪ねて人を疑え、だよ」

「嘘をつく人がいるからね。わが身に偽りある者は人の誠を疑う、ね」

「それだと、先生が嘘をついていることになるよ」

 互いにくすくす笑い合う。少しだけ、面接室の空気が緩む。

「とにかく、これが最後よ。書くなら書く、話すなら話すで、あなたの生育歴を教えてちょうだい」

 彼の右手が、赤いマーカーを動かし始めた。それを見て観念したのか、八木が口を開く。

「ざっくり話すと、親父とお袋はそんなに仲のいい夫婦ではなかった。それで、俺が幼稚園の年少だか年中だかのときに、親父は女を作って出ていったわけ。それ以来一度も会ってない――お袋の葬式にも来なかった。お袋は女手一つでずっと育ててくれて、そのときが一番楽しかった。だけど、俺が小2のころに事故死した。その後、俺は親戚のおじさん家に預けられたんだけれど、そのおじさんが変態でね。まあ、いやらしいことをいろいろされたわけさ。それでその家を飛び出して、後は詐欺で生計を立て続け、今に至る。以上、終わり」

 彼が話し終えると同時に、右手もマーカーを置いた。

「こちらも見せてもらうわね」

「どーぞ」

 真っ赤な字で埋め尽くされた紙を、理恵は手元に引き寄せる。

『お父さん。小さいときに、女の人のところへ行った。

 お母さん。じこで死んじゃった。

 ぼくはおじさんのおうちに行った。

 おじさんが、いやなことをした。

 にげた。

 うそをついてお金をもらった』

 理恵はうなずいた。『話し言葉』と『書き言葉』の語る内容に、矛盾はないようだ。

 つまり、八木の調書もまた、嘘まみれだったことになる――『生育歴に関する本人の供述。物心つく前に、父親とは死別。母親が女手一つで育てたが、小2のころ事故死。それ以降は児童養護施設にて過ごす。高校生のころ、施設を脱走。その後、詐欺を繰り返しながら各地を転々とする』

「よし、先生、これで今日は解放されるわけだね」

 八木が言う。すでに予定の時間を少しばかりオーバーしている。理恵も気を張り続け、疲れを感じ始めていた。頃合いかもしれない。

 しかし一方で、理恵の中に、親子関係をもう少し掘り下げてみたいという欲求が生まれていた。

 父親との関係は実際のところどうだったのか。母親との関係は本当に良好だったのか。

 束の間、逡巡した後に、理恵は口を開いた。

「そうね。あと一つだけ。あなたとご両親は――」

「いや、もう終わりにしよう。疲れたんだ」

 八木が言葉をかぶせる。

 そうね、もう終わりにした方がいいわ。彼も疲れているし、私も疲れている。

 理恵の中に、うっすらともやがかかる。

 早く終わらせて、その辺の自販機でコーヒーでも買って、一息つきたい。すでに目的は達成している。ここで深追いしても、得られるものは少ないわ――。

「——っ」

 甘い欲望を断ち切るように、理恵は手元へ視線を向けた。

『ぼくの言うことを信じないで』

 落ち着け。また私は操られかけている。

 理恵は深呼吸した。耳の奥に、心臓の音を感じる。それは慌ただしく脈打っていた。

「いえ、答えてほしいわ」

 理恵がそう言い直したことに、八木は少なからず驚いたようだった。短く息を吸い込み、眉をしかめている。

「あなたと、ご両親の関係を知りたいの。父親とはどんな関係だったの? 母親とは?」

 有無を言わせぬ様子で、八木が言った。

 低い声音に、理恵の鼓膜が重く震えた。場の空気が一気に重量を増す。

「そのくらいにしておいた方がいい」

 ——怖い。

 理恵はそう感じた。今の八木は怒っている。これまで見たことがないほどに。

「先生」

 八木はそう繰り返す。

 理恵の肩が上下する。呼吸が浅く、速くなっているのを感じる。

「僕は罪を認めた。それでいいじゃないか。これ以上、立ち入らないでくれ」

 窓の隙間から差し込む夕日を背景にして、八木の顔が黒く染まっている。

 理恵は頷くこともできない。小動物のような呼吸を繰り返すだけだ。

「これ以上俺のことを詮索するのなら、こっちにも考えがある」

 八木は背筋を伸ばす。それだけなのに、理恵は、八木が遥か上方からこちらを見下ろしているような感覚に陥った。

「なあ、――?」

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