第2話
部屋に入って来た男は短髪で背が高く、一見すると後ろ暗いところのない好青年に見えた。男——八木羊介は理恵の姿を認めると、ほりの深い精悍な顔に微笑を浮かべた。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ。今回お話を聞かせていただく滝川理恵です」
机を挟み、向かい合って着席する。本来、カウンセリングならば対面でなく九十度の角度に椅子を配置するのだが、この面接はそういった類のものではない。
「いやあ、思ったより若くて美人の先生だなあ。うれしいです」
八木がくだけた調子で世辞を言う。理恵は何も言わず、愛想笑いを返した。早速、違和感が胸の中に広がる。
なんだろう、この感じ。
「こうしているとなんだかお見合いみたいですね。御趣味は、みたいな。実際、僕のことをいろいろと知ってもらうことになると思うので、あながち間違いではないのかも」
接待を受けている気分になってくる。ここまで饒舌な相手も珍しい。
「そうですね。今日から何度かに分けて、八木さんのことをお聞きすることになると思います。リラックスしてお話しください。答えにくいことがあれば、そのように申し出ていただいてかまいません。ですが、ここで虚偽の報告があると後々不利になることもあるかと思いますので、その点だけはよろしくお願いします」
「了解です。かっこつけて盛りすぎないように気を付けますね。って違うか」
相手のペースに巻き込まれないよう、理恵はあえて事務的に話をしたのだが、八木は意に介する様子もなくおちゃらけている。
理恵は自分の抱いている違和感の正体に気付いた。
八木は二十人超をだましてきた詐欺師なのだ。それにしては、話が下手すぎる。話す内容はウィットに富んでいるように見えて白々しく、距離の詰め方も性急だ。彼の発言で「くすっ」となる人間は多くないだろう。
他人をコントロールしようとする人間には、特有の圧がある。まず、自身の魅力を武器に相手の懐に潜り込み、そして着実に逃げ場をふさいでいく。理恵には、少なくとも八木がそういった器用さを備えているとは思えなかった。
理恵はちらりと部屋の植物を見やる。架空のビデオカメラを通して、へらへらした様子の男と、硬い表情をした自分が見えた。
まだ何も始まっていない。相手の特徴を決めつけてかかるには早計だ。まずは、対話を重ねる必要がある。
「まずは、事件についていくつか聞かせてください。今まで何度もお話しいただいていると思うのですが――」
「はいはいはい。今回起訴されている事件のことでいいですか?」
「ええ」
「えーと、何から話したらいいですかね。起こったこと自体は警察で話したとおりなんですけど、ちょっと事情があるというか」
「これは取り調べではありませんので、その事情も含めて話していただければ大丈夫ですよ」
理恵はA4サイズの白紙と、赤い蛍光マーカーを差し出した。八木が怪訝な顔でそれを見る。
「すみません、私の面接スタイルなんです。たまに、口頭ではお話ししづらいという方もいるので、そのときに書いてもらえるように」
それだけではなく、面接相手が興奮状態に陥った場合の措置という意味合いもある。誰しも、話すより書く方が冷静に、客観的になれるものだ。ただ、先端の尖ったペンを渡して襲われてはたまらない。そのため、ペン先の太い蛍光マーカーを代わりに渡すようにしていた。
それにしても、八木の様子が少しおかしい。紙とマーカーを見てからというもの、挙動や表情に焦りがはっきりと表れている。
「いやあ先生、配慮はありがたいんだけど、僕には必要ないかなあ」
その言葉とは裏腹に、彼は紙へと手を伸ばしていた。そのまま手元に引き寄せ、マーカーのキャップを外す。
「大丈夫ですか? 少し様子が――」
「大丈夫。大丈夫です」
彼の右手はマーカーを構えたまま、止まっている。彼の目が何度か、紙と右手を行き来した。
何かを考えている。おそらく、ものすごい勢いで。理恵はそう直感した。でも、その「何か」の中身は全く分からない。
やがて思考がまとまったのか、彼は先ほどと同じ笑顔を浮かべた。
「事件のことでしたね」
彼は話し始める。依然として、右手にはマーカーを構えたままだ。今にも書き出せる、とでも言うように。
八木の目はまっすぐ理恵を見つめている。
「少し、関係がないと思われるかもしれないんですが、こらえて聞いてください。僕が小学生の頃の話です」
理恵も八木を見つめ返した。
極力、面接中はメモを取ることを避けたい――被鑑定人の不信感につながるからだ。ボイスレコーダーはあらかじめ起動させてあるが、一言一句聞き逃すまいと集中する。
「僕の母親は、僕が小学2年のころに事故で亡くなりました。信号無視のダンプカーにはねられたそうで、遺体の損傷も相当ひどかったそうです。だから、僕はお別れの前に顔を見ることすらできなかった」
理恵は調書に一瞬だけ目を落とす。小2のころ、母親が事故死。検察の聞き取りと一致している。
「父はそれから、僕のことを一生懸命育ててくれました。仕事で忙しいはずなのに、朝食も夕食も一緒に食べてくれたし、休みには遊びに連れて行ってくれもした。今でも感謝しています。ただ、やっぱりそれは父にとって、普通の生活ではなかったんです」
家庭環境というのは、その人間の心理状態に大きく影響するものだ。たとえ本人が認めたがらなかったとしても。その点、自ら両親のことを話し始めた八木はかなり自覚的で、理知的に思えた。
「後から知ったんですが、父はいわゆるブラック企業に勤めていて、かなり無理をして早帰りしたり休みを取ったりしていたようなんです。当時は今みたいに人権を重んずる風潮も薄かったので、父は会社で疎まれ、袋叩きにあいました。僕はそれを知らないまま、父に甘え続けていたんです。父は僕を育てるという重荷を背負いながら、妻を失った悲しみと、会社でのいじめに耐え続けていました。そうして当然のように、父は壊れました」
面接において、安易な同情心は捨てるべきだ。理恵はそのことをよく知っているし、自身の感情をコントロールする訓練も積んでいる。
しかし、八木の身の上話には、聞く者を無力感に包み込むような重みがあった。彼の生育歴は恵まれたものではなく、そして、これから彼が語る続きも、決して明るいものにはなりえないのだ。
「父が電話で謝る姿をよく見るようになりました。そのうち、父は、電話を持っていなくても謝るようになりました。電話を持っていないって言うのは、つまり――説明が難しいな。とにかく、僕がおかしいな、と思ったのは、家の壁の染みに向かって謝る父を見たときです。そんなことが頻発しました」
極度のストレスによる鬱状態。それと、統合失調傾向が併発した。そんなところだろう。その状態では、八木がまともな家庭生活を送ることもできなかったに違いない。
「そうして、壊れてしまった父は、仕事を失いました。そのころには、独り言や被害妄想みたいなものもどんどん増えて、僕とまともに会話できる時間はほとんどありませんでした」
そこまで言って、八木は顎に手を当て少し考え込んだ。
眉間にしわが寄っている。きっと、幼い彼が変わり果てた父親を見るとき、こんな顔をしていたに違いない。
「んー、でも、まれにあるんですよね、まともに会話できるときが。そのとき、父はふっと我に返って、『すまない』とか、『俺が次にわけわからなくなったら、警察に行って保護してもらえ。俺のことは捨てていけ』とか言うんですよね。だから、父のことも恨めなくて。ずーっと、離れることも見放すこともできず、壊れた父と一緒にいたんです」
似た事例を、最近も聞いた気がする。詳しくは覚えていないが、そのときも、ヤングケアラーに対する支援に、国をあげて取り組まねばならぬと息巻いた記憶がある。
「金がないので、そのうち、父は僕に万引きを強要するようになりました。そのやり方がトラウマというか、僕の中に色濃く残っているんです。たとえば、スーパーに行くじゃないですか。そこの惣菜売り場を父と見て回る。そのうち、父が立ち止まる。そして、僕の背中を、ポンポンって2回叩くんです。それが『盗れ』の合図」
この親子二人を誰が責められるだろう。少なくとも理恵には、病んだ父親に万引きをさせられながらも寄り添おうとする息子と、壊れながらも息子に食事をとらせようとした父親の姿しか浮かんでこない。
「うまく盗れるときもありました。でも、どうしてもできないときがあって。近くに他のお客さんがいるとか、監視カメラに近いとか。スーパーの中で繰り返しすれ違う人がいると、万引きGメンじゃないかとドキドキしたりしてね。とにかく、そうやって僕がためらっていると、父がお仕置きをするんです。父は、ポケットの中にまち針を入れていて、僕がなかなか商品に手を出さないと、ポケット越しにチクッと刺す。それほど痛いわけでも、血が出るわけでもないんです。ただ、背中に少し刺激があるだけ。でも、当然僕の頭はパニックですよ。店の人に見つかってはいけないし、見つかりそうかどうかなんて状況を父が判断できているとは思えない。だけど、父の言うとおりにしないとまた針で刺されるし、ね」
幼い子どもにとって、親は絶対的な存在だ。親の言うことと社会の良識に挟まれた彼は、どれだけ苦しい思いをしただろう。
「ま、結局そういうことが全てバレて、父は病院へ、僕は施設に入ったんですけどね。その施設でうまくやれなくて、飛び出して、なんとか自分で生活しようとしたわけです。当然、素性を明かせないわけですから、真っ当な仕事に就けるわけもない。それで――」
「詐欺に手を染めてしまった」
「そう。不思議なんですけど、それをやっている当時、それが悪いことだとは全く分からなかったんです。起訴された事件にしても、七十過ぎのおばあさんに対して、現実にはありもしない商品を勧めて代金をもらいました。今では、それがおかしいってことはすぐ分かります。でもそのときは、手当たり次第に家のインターホンを押して、嘘をつき続けていた。どうしてかと言うと、背中を刺されるからなんです」
「背中を刺される?」
「ええ。家のインターホンを押すかどうか迷う、出てきた人に嘘をつくことを迷う。そうしていると、背中にチクッって痛みが走る――こうやって話すと、いかに荒唐無稽なことを言っているのかが分かりますね。父の影が、ずっと僕にまとわりついているってことです。生きるためには、たとえ非合法の形でも金を稼がなければならない。それができなければ、父にお仕置きされる」
理恵は、自分のなすべきことが分かった。
八木は過去の経験から、善悪を判断する弁識能力に著しく欠けた状態であったに違いない。これを心身喪失とまで裁判所が判断するかどうかは分からないが、報告に上げる価値はあるだろう。不起訴とまではいかなくとも、うまくすれば、情状酌量につなげられるかもしれない。
その決心と同時に、ふつふつと怒りが湧いてくる。それは、幼い彼を救えなかった――あるいは遅すぎた行政への怒りなのかもしれない。彼が背負ってきたこれだけの背景をくみ取っていない検察に対する怒りなのかもしれない。 現在、彼の状況を一番理解できているのは自分だけだ。そんな矜持と焦りを理恵は感じ、高らかに宣言しようとした。しかし、そのとき――
不意に、八木の右手が動いた。
紙に、大きく文字が書かれていく。
子どもが書くような、不揃いで荒い字だ。
――『ぼくの言うことを信じないで』
理恵は目を見開いた。何度も繰り返し、その文字列を追い直す。
八木が苦虫を嚙み潰したような顔をした。
理恵の耳に、窓の外を車が走る音や、微かな喧騒が戻って来る。呼吸が浅く、速くなっている。理恵は大きく深呼吸した。
頭の中のもやが晴れていく。
植物に目をやる。自分は今どんな顔をしているのだろうか。
理恵の頭に映像が流れる。自己憐憫にあふれたストーリーを語って聞かせる八木。それを熱心に頷きながら、うるんだ瞳で聞く自分。肌が一気に粟立った。
冷静にならなくては。
理恵は調書に目を落とす。小2のころ、母親が事故死。それは八木の発言と一致している。
しかし――
『生育歴に関する本人の供述。物心つく前に、父親とは死別。母親が女手一つで育てたが、小2のころ事故死。それ以降は児童養護施設にて過ごす。高校生のころ、施設を脱走。その後、詐欺を繰り返しながら各地を転々とする』
理恵は八木を見つめる。
八木はあきらめたような様子で、気だるく理恵を見つめ返す。
「今語ったことは嘘ね?」
「疑われるとは心外ですね。神に誓って本当です」
「調べれば分かることだわ」
八木は黙る。
「それよりも――」
理恵は言いかけて口を閉じる。先ほどのあれは何だったのだろう。八木の話を聞いているうちに、頭がぼんやりとしていった。次第に身体を包んだ心地よい浮遊感。複数の可能性を並行して考えることができなくなり、やがて全身を貫いた極端に独善的な正義感。そして、赤いマーカーで書かれた『ぼくの言うことを信じないで』。
「私に何をしたの?」
理恵はそう問うしかなかった。
八木は何も言わず、口角をにやりとつり上げた。
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