第50話 東条匠馬リアルで初めて見た

 なんだかんだ言って、俺は温泉が好きな方だ。


 別に薬効とかそういうのを信じてる訳じゃないが、こういう温泉は景色がよかったり、自然の中に風呂があるみたいな感じがして、開放的な気分になるのだ。


 そういう意味では、古びて年季を感じるこの旅館も悪くはないんじゃないかと思った。とはいえ、硫化鉄がびっしりこびりついている湯船にはちょっと思う所はあったが。


「うっ……くふぅー……」


 身体を洗ってから、底が見えないくらい濁っている湯船に足を入れる。深さが分からない為、足で探って恐る恐る身体を沈めていくと、全身にしみわたるような温かさを感じ、そして温泉特有の臭いが鼻を突いた。


 顔を洗って縁に身体を預け、前方に開けた景色を満喫する。丁度川を挟んで山肌が見えていて、鮮やかに染まった木々の葉っぱが、温泉の黄土色と合わさって楽しませてくれる。誰もいないし、ちょっと近づいて下を流れている川も見てみようか。


 湯船の中をすいーっと移動して、反対側の縁まで行くと、俺は大自然を堪能すべく、硫化鉄のこびりついた縁に腕を乗せて外へ視線を向ける。丁度うつぶせになって寝転がってるような姿勢でみっともないが、お湯は濁ってるし誰もいないし、まあいいだろう。


 下を流れる川は石がごつごつと転がっていて、そこかしこで白い飛沫を上げていた。


 鹿とか野生動物見えないかな。とか考えていると、風呂場のドアが開く音が聞こえた。


「っと……」


 名残惜しいものの、あまりみっともない姿を見せるわけにはいかないので、俺は姿勢を正して座りなおした。


 入ってきたのは柴口さんではないし、もちろん愛理や紬ちゃんではない。普通に黒髪の、筋肉質な身体をした男の人だった。この旅館貸し切りじゃなかったんだな。


 俺はそんな事を考えつつ、ちょっと不躾だが後姿をこっそりと観察させてもらう。いや、そういうシュミがあるとかじゃなく、単純にこんな辺鄙な旅館に泊まる人が気になったのだ。


 うーん、身体は鍛えてそうだし、髪質もしっかり手入れしてそうだ。それに背も高い。同性だから分かることだが、後姿からしてかなりの美形だという事は分かった。


 彼が泡を流し始めたので、俺は目を逸らして頭を半分ほど沈める。スマホで疲れた目を湯船で温めたいが、それをやると呼吸ができないからままならない物である。


「……」


 限界まで顔をあっためたところで水面から顔を出すと、視線の先に男の人がいた。うーん、顔を見るけどやっぱり美形、テレビとかネットで見るような、俳優みたいだ……っていうか、見覚えあるな?


「えっと、すいません」


 そう思った時、俺は自然と声を掛けていた。


「東条匠馬さん……ですか?」

「ちっ……ああ」


 モブの正体として以前第一候補だった現在休止中のストリーマー、東条匠馬。俺の個人情報が漏れてないか探す上で飽きるほど見ていた人だ。


「だから何だよ、俺はモブじゃねえし配信関係の話は――」

「べ、別に大丈夫です! 一度会ってみたかっただけなんで!」


 東条さんが苛ついた口調だったので、俺は他意がない事を慌てて続ける。


「ふぅ……悪い。最近めんどくせえことが多くてさ」

「あ、もしかして休止の理由って――」

「こういう事だよ。プライベートも何もありゃしねえ」


 東条さんはうんざりした調子で話す。


「分かります! 有名になっていい事ってそんなにないですよね!」

「お、おう……」


 俺は彼の言うことが痛いほどわかった。愛理の日常や、紬ちゃん周りのごたごたなど、俺のみの周りでは有名税とでもいうべきことが怒りまくっている。そんな環境に自分も飛び込むとなれば、気が引けてしまうのも仕方ないし、うんざりしてもそれは仕方のない事だと思えた。


「っていうか、お前誰なんだよ」

「え゛っ!?」


 そう言われて、俺は言葉に詰まる。自分がちょっと前話題になって、正体が東条匠馬説まで出たモブというストリーマーであると知られたくはないが、有名になる事に対して、否定的な側面を知っている彼ならば、秘密を共有してくれるのでは、と思えた。


「あ、ああー……っと、そのー……」


 だが、言っていいのか? 事務所的には顔出しNGって訳じゃないだろうけど、東条匠馬っていうビッグネームからそういう情報が流れると拡散力はすさまじいだろう。だが、彼自身が注目されるのを嫌ってる現状……いや、でもモブとしてはこの人に結構迷惑かけちゃってるし……


「ふっ……まあいいけどさ」

「あ、あはは……」


 自分が有名だと勘違いしてるイタいストリーマーみたいに思われたかな、それとも俺の正体がモブだって察しちゃったか? 俺が答えられないのをどうとったのかはわからないが、彼は自分の中で答えが出たようで、納得したように目を閉じた。


「じゃ、失礼しまーす……」


 俺はこれ以上ボロが出ないよう、そそくさと風呂場を後にするのだった。

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