3.深い愛情

「おにぃさん、何かいてるの?」

 雲一つない青空の下。小さな公園のベンチに座り、スケッチブックに鉛筆で絵を描いていた小学四年生のこうは、明るい少年に声をかけられた。それは小学二年生のユキで、綺麗な茶色の瞳で紅牙をじっと見つめている。


「へ……えっと、その……」

 突然の事に紅牙は戸惑い、オドオドするが、ユキは構わず絵を覗き込む。そしてリアルな風景画を見て目を輝かせ、「すごい!」と声を上げた。

「すごい……?」

「うん! こんなに上手な絵をかけるなんてすごい!」

 笑顔で真っすぐに自分の想いを伝えてくるユキが眩しくて、紅牙は思わず目を細めた。


「ユキ、そろそろ行くよ」

 公園の出入口から、ユキの祖父が穏やかな表情で手招きする。

「うん! それじゃあ、もう行くね。あ、おれは“ユキ”っていいます。おにぃさんのお名前、聞いてもいい?」

「ボクは……“くろばら紅牙”、です……」

「こーがクンか~こんど、ほかの絵も見せてね」

「うん……」

「ありがとう!」

 紅牙の返事にユキは嬉しそうに微笑んだ後、「じぃちゃーん!」と無邪気に祖父の方へ走っていく。


「志ノ田、ユキくん……」

 ユキに褒められた絵を抱きしめ、紅牙は小さく笑った。

 紅牙の母親は数年前に他界している。父親は紅牙に衣食住を与えるだけで、特に彼に関心はなく、あまり会話もしない。何となくで描き始めた絵を褒められた事なんて一度もなかった。

 だから紅牙は、ユキが絵を褒めてくれた事が心底、嬉しくて……それと同時に、彼のあどけない笑顔に心を奪われた。


 しかし、ユキはよくある理由で将来、政略結婚させられる事が決まっていた。最初は彼の姉がなな家の長男に嫁ぐだけだった筈が、いつの間にか次男の琥珀こはくとユキも許婚いいなずけになっていた。そんな話を、久しぶりに父親と食卓を囲んだ際に聞かされ、紅牙は頭が真っ白になる。




「こーがクンとこはくサンもお友だちだったんだ~」

 どんよりした雲に覆われた空の下。琥珀に手を繋がれ、公園にやってきたユキはそんな言葉を口にする。


 紅牙と琥珀は幼なじみだが、学校や親同士の集まりで顔を合わせる事が多いだけで、特別仲が良い訳ではない。他の同級生に比べて二人は大人っぽく、それゆえ多少は居心地がいいから程度につるんでいるだけだ。だから“お友だち”発言に肯定も、否定もし辛くて二人して、何とも言えない表情をしている。


「ユキくんとななくんは……いいなずけなんだってね?」

「うん。なんか、大きくなったらケッコンするんだって~」

 許婚いいなずけが何なのか、まだイマイチ解っていないユキは無邪気に答える。その返事を聞いて、紅牙の胸がチクりと痛んでいる事など当然、気がついていない。


 琥珀は気づいているらしく、紅牙を見て眉間にシワを寄せ、少し面倒そうに口を開く。

「べつに……ユキの事は気に入ってるけど、コイとかそんなんじゃねぇよ。親父が勝手に、俺がユキにホれてるってカンチガイしただけだ」

「おれも、まだコイとかよく分かんないや~。でも、お友だち同士どーしでケッコンしてもいいと思う」

 琥珀はどこかぶっきらぼうな感じで、ユキはまるで他人事のように話す。


 ユキの発言に、琥珀は僅かに眉をピクリと動かし、紅牙はそれを見逃さなかった。たったそれだけで、琥珀も本当はユキに惚れている事に気がつく。

「ったく……まだなんも分かってねぇガキをケッコン相手に押しつけられて、こっちはメイワクしてんだよ。今日だって、こんなくもり空の中、町を案内しろって言われて……下級生と手をつなぐとか、こっちはガラじゃねぇんだよ」

 琥珀は強がるようにわざと悪ぶって、半ば強引に紅牙にユキの手を握らせる。それでもユキは特に気にしていないようで、紅牙の手をぎゅっと握ってニコッと笑う。


「どういうつもり?」

 珍しく子供っぽい言動の琥珀を、紅牙は怪訝そうに見る。

「べつに……どうせならくろばらも道案内、手伝えよ」

 それだけ言うと、琥珀は二人に背を向け、先に歩き出す。

「こーがクンも行こ?」

「うん、行こっか?」

 ニコニコ顔のユキに手を引かれ、紅牙はつられて微笑み、歩を進める。それから琥珀の背中に向かって、『キミが素直にならないのなら、いつかユキくんはボクがもらうね』と心の中で呟いた。




「じぃちゃんにっ……会いたい……」

 それから一年後、ユキの祖父が他界した。部屋の隅で一人、ボロボロ涙を流すユキを見て、紅牙はどうすればいいか分からない。それでも自分にできる事を必死に考えて、笑顔のユキと彼の祖父の似顔絵を描いて贈った。


「ボクはユキくんの笑顔が好きだ。キミにはずっと笑っていてほしい。だから、ボクはずっとユキくんのそばにいるよ」

 真剣な表情でユキの頭を優しく撫でながら、紅牙は精一杯の言葉を紡ぐ。


 少しの間、ユキはきょとんとしていたが、「こーがクン、ありがと」と泣き笑いを浮かべた。




「ユキくん、お願いがあるんだ。ボクの“プレゼントネーム”を……キミがつけてくれないかな?」

 紅牙は小学校を卒業する直前、ユキにそんなお願いをした。この世界には、中学校に入学する前に、苗字と名前の間につける“プレゼントネーム”を誰かに考えてもらう風習がある。家族、友人、恋人……誰につけてもらうかは本人が決められるため、紅牙はユキを指名した。


「オレでいいのか……?」

「うん。ユキくん“が”いいんだ」

「分かった。次に会う時までに考えておくね」

 そう約束した数日後、紅牙はユキから“ヘデラ”と言う名を贈ってもらった。




「オレは紅牙クンと琥珀サン、大好きな二人にプレゼントネームをつけてほしい」

 その二年後。本人の希望で紅牙と、同じくユキにプレゼントネームをもらった琥珀が、今度は返す番となった。

 正直、二人で考えるのは少し気まずさもあったが、ユキのためならと紅牙と琥珀は真剣に案を出し合う。その結果、意見が一致した“アングレカム”と言う名を贈り返した。


「カッコいい名前だ~。二人とも、ありがとう!」

 ユキは紅牙と琥珀に勢いよく抱きつき、満面の笑みを浮かべる。紅牙にはその表情が、今までで一番、輝いて見えた――。




「——……あぁ……なんだか、走馬灯みたいだったなぁ……」

 夜が明け、目を覚ました紅牙はぽつりとそう呟いた。


 リべディストも夢を見るんだ……。


 紅牙はそんな事をぼんやり考えながら、自分の腕の中で眠っているユキに視線を向ける。


 シャツははだけたままで、ユキの上半身には数えきれない程の噛み痕が残っており、目頭に薄っすら涙が浮かんでいる。紅牙はそれを指でそっと拭ってから、ユキをぎゅっと抱き締めた。


「ユキくん……大好き。愛してる」 

 紅牙が耳元でそう囁くと、ユキの身体がピクリと動く。それからゆっくり目を開き、紅牙の顔を見ると、勢いよく起き上がった。


「ユキくん、どうしたの?」

「そのツタ……夢じゃなかったのか……」

 紅牙の首や腕に巻きつくつたを目にしたユキは、落胆したような声を出す。

「うん、現実だよ」

 紅牙はそう言って自分のシャツを捲り上げると、左胸から生えている蔦もユキに見せる。それを目にしたユキの瞳に、絶望の色が増し、彼は項垂れる事しかできない。


「これからどうすれば……」

「永遠にボクと一緒にいればいいよ」

 あっけらかんとした紅牙の声に、ユキは目を見開き、顔を上げる。紅牙はユキと目が合うと、ニコリと微笑み、彼を抱き寄せた。


「っ……紅牙、クン……」

「大丈夫。ユキくんを喰い殺したりはしないから。その衝動を抑えるために、夜になったらまた血は飲んじゃうだろうけど」

「んな事、気にしてるんじゃない……オレは――」

 ユキの切羽詰まった声をかき消すように、窓ガラスが割れる音が響く。


「黒原! ユキをどこにやった!?」

 聞き覚えのある叫び声に、ユキはハッとし、紅牙は心の中で舌打ちする。

「……ユキくんはここにいて?」

 紅牙はユキの頭を軽く撫でてから立ち上がり、真っすぐ部屋を出た。

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