第3話

「沢渡」

「……っ」


 アルバイトを終え、古書店の外に出たら安藤が立っていた。突然のことに驚き足が止まってしまう。


「沢渡、話があるんだ」


 話があると安藤に声をかけられるのは、これで五度目だ。大学内で三度、四度目は松岡の部屋に行く途中で声をかけられ、五度目はまさかのアルバイト先だった。

 もちろん古書店でアルバイトをしているなんて話したりはしていない。僕がここで働いていることを知っているのは店主と蘭葡らんぽさんに家族、それ以外では松岡くらいだ。蘭葡らんぽさんたちは安藤の知り合いではないだろうし、松岡に至っては安藤を毛嫌いしているから教えたりしないだろう。

 それなのに、どうしてここを知っているんだろうか。そもそも、なぜ今日がアルバイトの日だと知っているんだ。


「沢渡」


 安藤が一歩近づいただけでじわりと汗が滲んだ。心臓が嫌な音を立て、胸が痛くて苦しくなる。僕は慌てて「話すことなんてない」とだけ口にして踵を返した。


「待って」


 腕をガッシリと掴まれ動けなくなった。まさかそこまでされるとは思わず、背中を嫌な汗が流れていく。


「離して」

「嫌だ。離せば逃げるだろ。俺は沢渡と話がしたいんだ」

「僕には話すことことなんてない」

「頼む、話をさせてくれ」

「嫌だ、離して」


 喉の奥が詰まって息が苦しくなってきた。とにかく手を離してほしくて、俯きながらもう一度「離して」と口にする。


「もしかして痴話喧嘩中?」


 目眩がし始めた僕の耳に入ってきたのは、すっかり聞き慣れた蘭葡らんぽさんの声だった。振り返ると閉めたはずのドアが開いていて、綺麗な顔がこちらを見ている。


「店先で痴話喧嘩なんて困るんだよね」

蘭葡らんぽさん、」

「でもって、ウチのバイトくんに泣かれるのも困る。ってことで、とりあえず中に入ってくれるかな」


 蘭葡らんぽさんの綺麗な手が僕の手首を握った。軽く引っ張られただけなのに、反対の腕を掴んでいた安藤の手が呆気ないほど簡単に解ける。僕の背中を押しながら店に入った蘭葡らんぽさんが「ほら、そっちのイケメンくんも」と声をかけた。


「俺に見惚れるのはいいけど、店先は本当に邪魔だから入ってくれないかな?」


 いつもと変わらない蘭葡らんぽさんの言動に、僕は体の強張りが消えるのを感じた。

 店の奥に進み、店番のときに使っている古めかしい机に近づく。そうしてさっきまで座っていた丸椅子に腰を掛けた。


「あ、イケメンくんは立ったままね。ほらきみ、ウチのバイトくんじゃないし」


 蘭葡らんぽさんの後をついてきた安藤はそのまま机のそばに立ち、蘭葡らんぽさんは僕の隣にもう一つ丸椅子を持って来て座る。


「さて、痴話喧嘩の続きをどうぞ」


 にこっと笑いながら蘭葡らんぽさんがそんなことを口にした。「痴話喧嘩」なんて、まったくもって蘭葡らんぽさんらしい言い方だ。おかげで段々と気持ちが落ち着いてきた。少し薄暗い店内と古い紙の匂いに包まれているからか、いつもの僕に引き戻してくれるような感じさえする。


(息苦しさもなくなってきた)


 背中を流れていた冷や汗も止まった。もしかしなくても、僕にとって蘭葡らんぽさんの言葉は一種の精神安定剤のようなものなのかもしれない。


(そう思うのは僕だけかもしれないけど)


 大抵の人は見た目のほうばかりに目が向くようだけど、蘭葡らんぽさんの魅力は中身にこそあると僕は思っていた。だから言葉だけで落ち着くのかもしれない。

 すっかり平静に戻った僕は、冷静な気持ちで安藤を見た。やけに静かなのは蘭葡らんぽさんに見惚れているからだろうと思っていたのに、なぜか眉を寄せて難しい顔をしている。


「ん? もう痴話喧嘩はお終い?」

「痴話喧嘩じゃないです」


 安藤が小さい声で否定した。


「さて、本当にそうかな? 恋人に逃げられそうになってるイケメンくんに見えたんだけど」


 蘭葡らんぽさんの言葉に安藤の眉がますます寄った。きっと蘭葡らんぽさんの言葉が気に障ったのだろう。僕はすっかり慣れたけれど、初めてだと驚くか怪訝な顔をするのはわかる。


「恋人じゃないです」

「ふむ。しかし俺の目はごまかせないよ。イケメンくんは卓也くんに恋をしている」


 いまの言葉には、さすがの僕も「は?」と声が出た。蘭葡らんぽさんは楽しそうに笑っているけれど、まったくもって意味がわからない。


「だから、てっきり痴話喧嘩かと思ったんだけどなぁ。まぁ、卓也くんのほうはイケメンくんを怖がっているようだけどね」


 蘭葡らんぽさんの言葉に、安藤が奥歯をグッと噛みしめるような顔をした。僕はといえば、ただ困惑するばかりで返す言葉が見つからない。「痴話喧嘩」というのは蘭葡らんぽさん特有の表現だと思ったのに、もしかして本気で言っているんだろうか。そもそも安藤が僕に恋をしているなんて、どういうことだろう。


(そんなことは絶対ないのに)


 これだけははっきり言える。中学のときに「ホモなの?」と蔑みながら言ったのは安藤だ。そのあとも、クラスメイトから無視されている僕をニヤニヤしながら見ていた。男子から暴言を浴びせられるのを満足そうな顔で見ていたのも知っている。

 そのくらい僕のことを嫌っていた安藤が僕に恋をするなんてあり得ない。それに安藤は「ホモ」と呼ばれる人種が嫌いだからあんなことを言ったのだろうし、男を好きになることなんてないはずだ。


「ふむ。二人の私生活について俺がとやかく言うのは野暮というものだ。ただ、卓也くんは俺にとって大事な人だからね、泣かされるのは困る」

「大事な人って、」


 安藤のつぶやきに、蘭葡らんぽさんが「そう、大事な人だよ」と答える。


「だからといって土足で踏み込むようなことはしたくない。それでもこうして口を挟んだのは、ただ真実を知る点に興味があるから、とでも言っておこうか」


 難しい顔をしていた安藤が怪訝な表情をした。突然何を言い出すんだと思ったのだろう。


「もしかして、明智小五郎ですか?」


 僕の言葉に蘭葡らんぽさんがにこりと笑った。


(そういえばいま、推理小説を書いてるって言ってたっけ)


 最近僕が江戸川乱歩を読んでいることも知っている。だから明智小五郎をもじった言葉を口にしたのだろうけれど、安藤には何のことかわからなかったに違いない。

 蘭葡らんぽさんの会話は突然こんなふうになることがあった。だから大抵の人は困惑し、何を言っているのかわからなくなる。「よく誤解される」と蘭葡らんぽさんは言うけど、原因はこういうところにあるに違いない。


(本人もわかってるみたいだけど、改めようとはしないんだよな)


 逆にこういうところが蘭葡らんぽさんらしいと僕は思っていた。日常の中に潜む非日常のような存在が蘭葡らんぽさんだ。少なくとも僕にとってはそうだし、それがたまらなく心地いい。

 僕はすっかりいつもの自分と日常を取り戻していた。安藤の顔を見ても冷や汗は出てこない。


(もう大丈夫)


 わずかに残る切ないような胸の痛みを無視しながらそう思った。


蘭葡らんぽさん、ありがとうございます。もう大丈夫です」


 僕の顔を見た蘭葡らんぽさんが綺麗な顔でにこりと微笑んだ。


「それはよかった。大事な人が泣くのを見るのは、俺もつらいからね」

「大事な人って、さっきから何ですか」


 その言葉だけを聞くと、蘭葡らんぽさんが僕に恋をしていると勘違いしてしまいそうだ。きっとほかの人ならすぐさまそう思うに違いない。これだけ綺麗な人に「大事な人」なんて言われたら、老若男女関係なく恋に落ちるだろう。

 それでも僕はそう思わなかった。僕にとって蘭葡らんぽさんは家族のような親愛の情を抱く相手でしかない。「そう思う僕も変なのかもな」と思ったら、少しだけ笑ってしまった。


「おかしいかな? 俺は卓也くんのことが好きだし、間違ってはいないと思うんだけどなぁ。それに卓也くんだって俺のこと、好きでしょ?」

「はい、好きですよ」


 それは間違いない。


「ほら、だからおかしくなんてまったくない。……イケメンくん、顔が怖いよ?」


 見上げた安藤の顔は何だか怒っているように見える。どうしてそんな顔をしているんだろう。わからないけれど、そんな安藤を見ても冷や汗が出ることも喉が詰まることもなかった。


蘭葡らんぽさん、ありがとうござます」

「どういたしまして」

「帰ります」

「うん、気をつけて」

「はい」


 蘭葡らんぽさんにお辞儀をして立ち上がった僕に、安藤が慌てたように声をかけてきた。


「おい、沢渡、」

「僕には話すことなんてない。もう声をかけたりしないで」


 声が震えることも変に力が入ることもない。記憶の中の安藤も、こうして目の前にいる安藤を見ても、もう大丈夫。


「……それでも、俺は話したい」


 安藤が顔をしかめながら食い下がった。


「嫌だ」

「どうしても話したいことがあるんだ」

「僕にはないから」

「なぁんだ、やっぱり痴話喧嘩じゃないか」


 蘭葡らんぽさんの言葉に少しだけ力が抜ける。思わず「蘭葡らんぽさん」と呆れながら見ると、にっこり微笑み返された。


「まぁまぁ卓也くん、話くらい聞いてやったらいい。それでイケメンくんの気が済むならいいじゃないか。そうすれば、もうストーカーされなくて済むだろうしね」

「ストーカー?」

「うん、ストーカー。……してるだろう?」


 言われた安藤がギョッとした顔をした。


「恋心は拗れると厄介だからね。拗れきる前に結ぶか切るかしたほうがいい」


 安藤はじっと口を閉ざしている。


臙脂色ゑんじいろに渦巻く血は怖いものだよ」

「……今度はみだれ髪ですか?」


 蘭葡らんぽさんの言葉が何を指しているのかはわからない。それでも一理あると思った。

 僕は「ふぅ」とため息をついてから安藤を見た。立ち上がった僕より頭半分くらい大きいから、少し見上げる形になる。


(そういえば、こんな近くで見るのは初めてだ)


 同じクラスだった中学のときでさえ、この距離で顔を見たことはなかった。あの頃は人気者の安藤が眩しくて、そばに行くことなんて考えたこともなかった。

 それくらい接点がなかったからこそ「おまえ、ホモなの?」の言葉はあまりにショックで、驚いて、意味がわからなかった。胸がひどく痛んだのも、おそらくショックが大きかったからに違いない。


「話したいのはわかった。明日、三コマ目の講義が終わったら時間が空くから、そのときでいいかな」


 このまま安藤と話を続けようという気にはどうしてもなれない。それにこのままでは店にも蘭葡らんぽさんにも迷惑をかけてしまう。

 そう思って提案した言葉に安藤がこくりと頷いた。三時半に文学部棟の自販機のところで会う約束をし、僕はもう一度蘭葡らんぽさんにお辞儀をしてから家路に就いた。

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