第3話
「沢渡」
「……っ」
アルバイトを終え、古書店を出たら安藤が立っていた。まさかの場所での遭遇に驚きすぎて足も呼吸も止まってしまった。
「沢渡、話があるんだ」
話があると安藤に声をかけられるのはこれで五度目だ。大学内で三度、四度目は松岡の部屋に行く途中で声をかけられた。そして五度目の今回はまさかのアルバイト先だ。
もちろん古書店でアルバイトをしていることは教えていない。僕がここで働いていることを知っているのは店主と
それなのにどうしてここを知っているんだろうか。そもそも、なぜ今日がアルバイトの日だと知っているんだ。
「沢渡」
安藤が一歩近づいただけでじわりと汗が滲んだ。心臓が嫌な音を立て、胸が痛くて苦しくなる。僕は慌てて「話すことなんてない」とだけ口にして踵を返した。
「待って」
腕を掴まれ動けなくなった。まさかそこまでされるとは思わず、背中を嫌な汗が流れていく。
「離して」
「嫌だ。離せば逃げるだろ。俺は沢渡と話がしたいんだ」
「僕には話すことことなんてない」
「頼む、話をさせてくれ」
「嫌だ、離して」
喉の奥が詰まって息が苦しくなる。とにかく手を離してほしくて、俯きながらもう一度「離して」と口にした。
「もしかして痴話喧嘩中?」
目眩がし始めた僕の耳に入ってきたのは、すっかり聞き慣れた
「店先で痴話喧嘩なんて困るんだよね」
「
「でもって、ウチのバイトくんに泣かれるのも困る。ってことで、とりあえず中に入ってくれるかな」
「俺に見惚れるのはいいけど、店先は本当に邪魔だから入ってくれないかな」
いつもと変わらない
店の奥に進み、店番のときに使っている古めかしい机に近づく。そうしてさっきまで座っていた丸椅子に腰を掛けた。
「あ、イケメンくんは立ったままね。ほらきみ、ウチのバイトくんじゃないし」
「さて、痴話喧嘩の続きをどうぞ」
にこっと笑いながら
(息苦しさもなくなってきた)
背中を流れていた冷や汗も止まった。僕にとっての
(そう思うのは僕だけかもしれないけど)
大抵の人は綺麗な見た目のほうに目が向く。けれど
すっかり平静に戻った僕は、冷静な気持ちで安藤を見た。やけに静かなのは
「ん? もう痴話喧嘩はお終い?」
「痴話喧嘩じゃないです」
安藤が小さい声で否定した。
「さて、本当にそうかな? 俺には恋人に逃げられそうになってるイケメンくんに見えたんだけど」
「恋人じゃないです」
「ふむ。しかし俺の目はごまかせないよ。イケメンくんは卓也くんに恋をしている」
いまの言葉には、さすがの僕も「は?」と声が出た。
「だからてっきり痴話喧嘩かと思ったんだけどなぁ。まぁ、卓也くんのほうはイケメンくんを怖がっているようだけどね」
(そんなことは絶対ないのに)
それだけははっきり言える。中学のときに「ホモなの?」と蔑みながら言ったのは安藤だ。そのあともクラスメイトから無視されている僕をニヤニヤしながら見ていたのも覚えている。男子から暴言を浴びせられるのを満足そうな顔で見ていたのも知っている。
そのくらい僕のことを嫌っていた安藤が僕に恋をするなんてあり得ない。それに安藤は「ホモ」と呼ばれる人種が嫌いだからあんなことを言ったのだろうし、男を好きになることなんてないはずだ。
「ふむ。二人の私生活について俺がとやかく言うのは野暮というものだ。ただ、卓也くんは俺にとって大事な人だからね、泣かされるのは困る」
「大事な人って、」
安藤のつぶやきに、
「だからといって土足で踏み込むようなことはしたくない。それでもこうして口を挟んだのは、ただ真実を知る点に興味があるから、とでも言っておこうか」
難しい顔をしていた安藤が怪訝な表情を浮かべた。突然何を言い出すんだと思ったのだろう。それに口調が変わったのも不思議に思ったに違いない。そんな
(そういえばいま、推理小説を書いてるって言ってたっけ)
(本人もわかってるみたいだけど、改めようとはしないんだよな)
逆にこういうところが
僕はすっかりいつもの自分と日常を取り戻していた。安藤の顔を見ても冷や汗は出てこない。
(もう大丈夫)
わずかに残る切ないような胸の痛みを無視しながらそう思った。
「
僕の顔を見た
「それはよかった。大事な人が泣くのを見るのは俺もつらいからね」
「大事な人って、さっきからなんですか?」
言葉だけを聞くと、
それでも僕はそう思わなかった。僕にとっての
「おかしいかな? 俺は卓也くんのことが好きだし間違ってはいないと思うんだけどなぁ。それに卓也くんだって俺のこと、好きでしょ?」
「はい、好きですよ」
それは間違いない。
「ほら、だからおかしくなんてまったくない。……イケメンくん、顔が怖いよ?」
なぜか安藤が怒っているような顔をしている。どうしてそんな顔をするんだろう。そんな安藤を見ても冷や汗が出ることも喉が詰まることもないことに気がつきホッとした。
「
「どういたしまして」
「帰ります」
「うん、気をつけて」
「はい」
「おい、沢渡、」
「僕には話すことなんてない。もう声をかけたりしないで」
声が震えることも変に力が入ることもない。記憶の中の安藤も、こうして目の前にいる安藤を見ても、もう大丈夫。
「……それでも、俺は話をしたい」
安藤が顔をしかめながら食い下がった。
「嫌だ」
「どうしても話したいことがあるんだ」
「僕にはないから」
「なんだ、やっぱり痴話喧嘩じゃないか」
「まぁまぁ卓也くん、話くらい聞いてやったらいい。それでイケメンくんの気が済むならいいじゃないか。そうすれば、もうストーカーされなくて済むだろうしね」
「ストーカー?」
「うん、ストーカー。きみ、してるだろう?」
指摘された安藤がギョッとした顔をした。
「恋心は拗れると厄介だからね。これ以上拗れる前に結ぶか切るかしたほうがいい」
安藤はじっと口を閉ざしている。
「
「……今度はみだれ髪ですか?」
僕は「ふぅ」とため息をついてから安藤を見た。立ち上がった僕より頭半分くらい大きいから少し見上げる形になる。
(そういえばこんな近くで見るのは初めてだ)
同じクラスだった中学のときでさえ、こんな距離で顔を見たことはなかった。あの頃は人気者の安藤がまぶしくて近寄ることなんて考えたこともなかった。それくらい接点がなかったからこそ「おまえ、ホモなの?」の言葉はあまりにショックで、驚いて、意味がわからなかった。胸がひどく痛み続けたのもショックが大きかったからに違いない。
「話したいってことはわかった。明日、三コマ目の講義が終わったら時間が空くから、そのときでいいかな」
このまま安藤と話を続けようという気にはどうしてもなれない。それにこのままでは店にも
そう思って提案した僕の言葉に安藤が静かに頷いた。三時半に文学部棟の自販機のところで会う約束をし、僕はもう一度
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