第2話
「おまえ、沢渡だよな。
「え……?」
大学にほとんど知り合いがいない僕をフルネームで呼ぶ人なんて、まずいない。驚きつつ文庫本から顔を上げると、少し離れたところに安藤聡史が立っていた。
(安藤もこの大学だったんだ)
ぞわっとするとともに胸の奥が締めつけられるように痛んだ。中学卒業以来、当時のクラスメイトとは一切の交流を絶っていた。そんな僕は安藤がまだ地元にいるのか、どの大学に進学したのか知らなかった。知りたいとも思わなかった。
(せめて安藤の進学先くらいは調べておくべきだった)
後悔の念が一気にわき上がる。中学時代のクラスメイトには誰一人として会いたくなかったけれど、一番会いたくなかったのが安藤だ。
目の前の安藤は、中学時代の面影を残しつつあの頃よりずっと恰好よくなっていた。あの頃も何かスポーツをやっていると聞いてはいたけれど、ずっと続けていたのか背は高くがっしりした体つきになっている。髪は明るい茶色になり、耳にはピアスがいくつも光っていて中学の頃よりずっと派手な印象だ。
そんなふうに見た目が変わっているのに、目の前の男が安藤だとすぐにわかったのは忘れたくても忘れられない存在だったからだ。理不尽で意味がわからなくて怖くて、そしてなぜか切ないように胸が痛くなる相手。そんな強烈な感情が、僕の心の奥深くに安藤を存在させ続けたのだろう。
「なぁ、沢渡だろ?」
また声をかけられて肩がビクッと震える。手足が強張って喉も詰まったような感じになった。息をするのも苦しくて、耳の奥でドクドクと嫌な音が聞こえ出す。
中学のときの僕なら、このまま無言で立ち去っただろう。安藤とは絶対に関わりたくないと思い、全身で拒絶しながら必死に逃げ出したはずだ。
(でも、いまの僕は違う)
声は出なかった。それでも睨みつけるように安藤を見ることはできた。そんな僕の態度に驚いたのか、安藤がギョッとしたような表情で僕を見た。
「いたいた。卓也、そろそろ行かないと遅れるぞ」
松岡の声が聞こえる。空き時間にここで本を読んでいることを知っているから呼びに来てくれたんだろう。振り向いた俺は、口を開きかけてまだ声が出ないことに気がついた。
(もう大丈夫だと思ってたのに)
自分では大丈夫だと思っていた。
何も言わない僕に何か感じたのか、安藤を見た松岡が「あ」と小さく声を出した。
「おまえ、安藤だろ」
突然睨みつけるような眼差しに変わった松岡に、安藤の顔も険しくなる。
「……誰だ、あんた」
「松岡。卓也の親友だ」
「親友、」
「そ。でもって、あんたが卓也の中学時代のクラスメイトの安藤だよな?」
松岡の言葉に安藤の返事はない。
「こいつを不登校にして人間不信にして、追い詰めた安藤っておまえのことだよな?」
「……」
空気が一気に重たくなった。こんなふうになる前に、さっさとここを離れるべきだった。慌てて読んでいた本をカバンに仕舞ったものの、松岡の言葉はさらに続く。
「おまえのせいで卓也はいまも苦しんでる。気安く声かけんじゃねぇよ」
「なんでそんなこと、おまえに言われなきゃならない」
「おまえのせいで、前みたいになったらどうしてくれんだよって言ってんだ」
「言ってる意味、わからないんだけど」
「わかんなくても今後一切話しかけんな。見かけても近づくな」
松岡は本気で怒っている。こんなに怒っている姿は高校時代も見たことがなかった。
松岡は僕より少し小柄で、多少口が悪くなることがあっても明るくて気のいい奴だ。偏見や差別のようなことも言わないし、突然暴言を吐いたり初対面の人に辛辣なことを言うタイプでもない。それなのに、初対面のはずの安藤に本気で怒って文句を言っている。
(……僕のせいだ)
隣に立つ松岡を見上げた。大きくてくりっとした猫のような目が完全につり上がっている。いつも笑っているムードメーカーのような男なのに、僕のせいでこんな顔をさせたのかと思うと自分が嫌になりそうだった。
(どうにかしないと)
早く安藤から離れなければ。
「松岡、もういいから。行こう」
ようやく声が出た。カバンを肩に掛けながら立ち上がり、松岡の腕を掴む。そのまま歩き出す僕たちに安藤が声をかけることはなかった。
そのまま文学部棟に入ったところで足が止まってしまった。嫌な緊張をしたからか足にうまく力が入らない。「無理すんなって」と言ってくれた松岡に甘えて、学部棟の端にある自販機前のベンチに座った。
「松岡だけでも講義、行って」
「いいって。それに次のは出欠取らないから平気だろ」
「そうかもしれないけど……」
「いいから」
巻き込む形になった松岡に「ごめん」と謝ると「気にすんな」といつもどおりの笑顔が返ってくる。
「今日ってさ、バイトある?」
「ないけど」
「じゃあさ、ちょっと俺んちに寄ってかない?」
そう言った松岡の表情はいつもより硬い。どうしたんだろうと見ていると、何か考える素振りを見せた松岡が僕を見た。
「話したいことがあるんだ」
どんな話かはわからないけれど、聞かないと駄目な気がする。僕は「わかった」と答え、大学の近くで一人暮らしをしている松岡の部屋に行くことにした。
到着したワンルームの部屋は適度に散らかっていて、いつ来てもどこかホッとする雰囲気がした。
「適当に座ってて」
そう言って冷蔵庫から僕の好きなミルクティを出す。自分の分のアイスコーヒーも取り出した松岡が、紙パックをローテーブルに置いてから向かい側に座った。
「あいつだよな、安藤って」
「……うん」
「同じ大学だったんだな」
「さっきまで知らなかった」
「だろうな。知ってたら、卓也は絶対にこの大学選んでなかっただろ?」
指摘にこくんと頷く。
「まさか、同じ大学だったなんて思わなかった」
再会したばかりの安藤が脳裏に蘇る。思い出の中なら平気だったのに、やっぱり本物を前にすると胸がざわついた。最初に感じたのは恐怖に近い感情で、それから胸の奥がなぜか切なく痛んだ。そういえば「おまえ、ホモなの?」と言われたとき、一番強く感じたのは胸の痛みだった気がする。
「あのさ、卓也に話しておきたいことがあるんだけど」
そう言った松岡の顔は少し強張っている。そんな顔をするなんて何かあったんだろうか。いつも元気な松岡のこんな表情はこれまで一度しか見たことがない。「そういえばあのときは結局原因がわからず終いだったな」と高校時代のことを思い出した。
「何かあった?」
取りあえず安藤のことは後回しだ。松岡の表情が気になってそう尋ねた。
「まぁ、いま現在どうこうって話じゃないんだけどさ」
「うん」
「……俺さ、高校のときにちょっと落ち込んだときがあっただろ?」
まさにいま僕が思い出していたことだ。
「ちょっとじゃなかったと思うけど」
「ははっ。うん、まぁそこそこへこんではいたかな」
そう言って笑った松岡の顔が僕には寂しそうに見えた。
「あのときさ、俺……じつは、失恋したんだ。高瀬先生に」
「え? 高瀬先生って、」
「そう。二年のときの数学の高瀬」
高瀬先生というのは高校のときの数学教師で、二年のときの副担任だ。二十七歳と若く生徒たちの話を聞いてくれる先生だったからか、とにかく人気があった。眼鏡がちょっと怖く見えるときもあるけれど、生徒たちからは「イケメン眼鏡」なんて呼ばれていたのを覚えている。
「俺、初めて男の人のこと好きになってさ。しかも一年のときの一目惚れなんて、笑えるだろ?」
そういって笑った松岡は、やっぱりどこか寂しそうだ。
「二年間、ずっと先生のことが好きだった。もちろん告白するつもりなんてなかった。見てるだけで幸せだったし、コクってもどうしようもないってわかってた。でも、三年になって“卒業したら二度と会えないんだ”って思ったら……コクらなきゃって急に思ったんだ」
松岡の様子がおかしかったのは三年の夏休み明けだった。妙にテンションが高いかと思えば急に落ち込んだりして、話しかけるのを躊躇するときもあった。そんなふうかと思えばやたらとお節介を焼いてきたり、急に寮の部屋に引きこもったりもした。きっとあの前後で告白したに違いない。
「そっか、告白したんだ」
「コクった。すンげぇ緊張したけど、どうしても言いたくて」
松岡の顔が笑いながら歪んでいく。
「一生分の勇気を振り絞ってコクったんだ。そしたら高瀬の奴さ、馬鹿にしたみたいに笑いながら『男同士なんてあり得ない』って言ったんだ」
松岡の顔がさらに歪んだ。
(そうか、だからか)
僕は高校時代の松岡の言動をようやく理解できた。
高校二年に進級した頃、どこで聞いたのか僕が中学時代にクラスメイトの男に告白したらしいという噂が流れた。おそらく僕と同じ中学だった人が知り合いにでもいたんだろう。同じクラスじゃなくても僕のことは噂になっていたから、後輩の誰かがこの学校の人に話したのかもしれない。
(あぁ、また始まるのか)
あのときそう思った。高校になっても中学三年のときのようなことになるに違いない。今度は寮だから逃げ場はない。学校でも寮でも無視され、それなのにチラチラ見られる生活を一年以上も送ることになる。
絶望的な気持ちになったとき、声を上げたのが松岡だった。
「そんなの噂だろ? 誰かこいつがコクったところ見たのかよ」
決して大きな声じゃなかったけれど、怒っているのは顔を見れば一目瞭然だった。ムードメーカーで怒ることなんてなかった松岡の様子に、クラスメイトはハッとしたような顔をして口を閉ざした。その後、僕が無視されたり陰口を叩かれたりすることはなかった。
あのとき松岡は、自分の恋心まで馬鹿にされたような気がしたんだろう。もしくは、同性に恋をするのは間違いだと言われたような気がして腹が立ったのかもしれない。このことがきっかけで、その後僕と松岡はさらに仲良くなった。
「そういう経験があったからってわけじゃないけど、卓也から安藤の話を聞いたとき無性に腹が立ったんだ。男を好きになっちゃいけないのかよって思った。そもそも卓也はあいつのこと、好きでも何でもなかったんだろ? それなのにそんなこと言うなんて、クソだろ」
松岡は可愛い顔をしているのに、こうして口が悪くなることがある。そういうときは大抵理不尽な何かを見聞きしたときで、僕のために怒ってくれるときもそうだったなと思い出した。安藤に関しては、きっと自分の過去を思い出して腹が立つに違いない。
「さっき、青ざめてた卓也を見てピンときたんだ。あぁ、こいつが安藤に違いないって。っていうかさ、なんでいまさら卓也に声かけてきたんだよ」
「わからない」
「会ったのは中学卒業してから初めてなんだよな?」
「うん」
僕の返事に松岡が「そっか」と言ったあと「でも、それなら変だよな」と続けた。
「卓也って中学のときと見た目全然違うよな? 髪型もだけど伊達眼鏡してるし、卒アル見たときどれが卓也かわかんなかったもん。それでよく気づいたな」
指摘されて初めて気がついた。自分でも中学のときとは見た目が大きく変わったと思っている。前髪を伸ばして伊達眼鏡をかけるようになったからか、祖母にも弟にも「別人みたい」と言われたくらいだ。
そんな僕に、中学卒業以来一度も会っていない安藤がどうして気づいたんだろう。そもそも安藤が僕を覚えていたことが信じられなかった。
あのとき、蔑むような目で僕を見ながら「おまえ、ホモなの?」と言い放った安藤の口元は歪んでいた。それで僕のことが嫌いなんだということがわかった。
(僕のこと嫌いだったはずなのに、何で声をかけてきたんだろう)
どうして、なぜ、そんな言葉が頭の中を行ったり来たりする。
「ま、何にしても俺がついてるから心配するな」
そう言った松岡の顔に、さっきまでの歪んだ表情は残っていなかった。いつもどおりの明るい表情にホッとする。
「松岡って頼もしいよな」
「おう、俺はおまえの親友だからな。あんな奴のせいで、また卓也がつらい思いをする必要なんて絶対にないからな?」
「そうだね」
「そうだ、そうだ」
松岡の声に気分が少し浮上した。それでも僕の中には、すっかり消えていたはずの中学時代の安藤と、さっき見た大学生の安藤の二人が居座ってしまった。幼さの残る顔と大人の顔が二人して嫌な笑みを浮かべながら僕を見ている姿が、何度も浮かんだり消えたりした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます