傷ついた僕ときみの物語

朏猫(ミカヅキネコ)

第1話

 中学三年のとき、クラスメイトのひと言で僕は卒業までの十カ月近くの間クラスで浮いた存在になった。具体的に言うなら「いじめられていた」のだ。

 それは何気ない、でもわずかに悪意を滲ませたひと言から始まった。


「おまえ、ホモなの?」


 そう言ったのはクラス一の、いや学年一の人気者、安藤聡史あんどうさとしだった。

 彼は運動神経がよくて恰好よくて、とくに女子からは後輩も含めてとても人気があった。明るくて誰とでも気さくに話すから男子にも人気があり、いつも人の輪の中心にいる絵に描いたような人気者だ。そんな安藤が、昼休みが始まってすぐに「ホモなの?」と言ってきた。

 意味がわからなかった。僕はホモではなかったし、そんなことを安藤に言われるほど親しくもない。もちろんホモだと言われるような言動をしたこともなかった。いつも本ばかり読んでいた僕はクラスでも影の薄い存在で、そんな僕に安藤がわざわざそんなことを言ってくる理由がわからなくて戸惑った。


「ぇ……?」


 最初は聞き間違いかと思って小さな声で聞き返した。僕に向けられた言葉だと思わなかったからだ。それでも女子の「えぇー! 沢渡さわたりくん、そうなのぉ!?」という悲鳴のような声で、僕に対しての言葉だとようやく理解した。


「なに、沢渡って男が好きなん?」

「え、マジで? もしかして聡史、告られたとか?」

「うわっ、マジか。いやいや、ないだろ~。聡史、めっちゃモテるじゃん! わざわざ男選んだりしねぇって」

「っていうか、コクるとか勇者だな沢渡。おまえ普段どこいるかわかんねぇくらい影薄いのに」


 安藤の周りにいた男子たちが囃し立てるように、そして馬鹿にするように声を上げ始める。もちろん僕に心当たりなんてなくて、ただ困惑するしかない。


(僕は安藤に告白なんてしてないし、そもそも男を好きになったこともない)


 否定しようとしたけれど、蜂の巣を突いたような騒ぎに誰も僕の声なんか聞いてくれなかった。

 そうして僕は“モテ男、安藤にコクったホモ勇者”という酷いレッテルを貼られることになった。幼い偏見と興味本位、それに多感な時期という三重に悪いことが重なり、卒業するまで僕は薄く広く無視され続けることになった。


「無視されるほうが直接言われるよりマシだ」


 当時はそう思い込もうとした。そうしなければ耐えられなかったからだ。それでも存在していないように扱われるのは精神的に苦しくつらかった。

 何より堪えたのは、普段は僕のことなんて無視しているのに急に話題にされることだった。ちょっと目が合っただけで「ホモ勇者に見られた! やべぇ!」と叫んだり「エロい目で見られた!」と騒いだりする。無視されるよりも、そういって話題にされるほうが何倍もつらかった。


(あれがきっかけて女子が苦手になったんだよな)


 男子たちの馬鹿騒ぎも嫌だったけれど、女子たちの視線やヒソヒソ話にはゾッとするような恐怖があった。そのせいか、大学生になったいまでも女子という存在は怖いままだ。

 結局僕は中学卒業までやや不登校気味になり、高校は実家から遠く離れた私立の学校に進学することにした。そこは寮生活が義務づけられていて学費も高く、地元の同級生たちがわざわざ選ぶ高校じゃないとわかっていたからだ。

 高校のことについてはいまでも父や祖母に感謝している。とくに祖母は、僕が学校で置かれている立場に薄々気づいていたのだろう。


「家のことは気にしないで、行きたい学校に行きなさい」


 一人で幼い弟の世話をするのは大変だろうに、そう言って背中を押してくれた。海外赴任中の父からは、卒業と入学祝いが届いただけで何も言わずに学費を出してくれた。

 こうして僕は地元とは関係ない環境で高校に進学することができた。最初は挙動不審になることが多かったものの、幸いなことに友人も少しできたし教師にも恵まれた。中学三年のときには想像もできなかった穏やかな学校生活を送り、無事に卒業もした。

 その後、僕は実家に戻って地元の大学に進学し、今年二十歳を迎える。


「っていうかさ、何もしてないのにホモとか言うの、マジないよな。おまえこんなにいい奴なのにさぁ。中学のときの奴らって、ほんと見る目ないのな」


 ちょっときつい口調でそんなことを言うのは、高校三年間クラスメイトだった松岡由樹まつおかよしきだ。寮の部屋もずっと一緒で、同じ大学に進学した唯一の親友でもある。


「そうかな」

「だってさ、高校のときはみんな卓也たくやのことちゃんと見てくれてただろ?」

「うん。とくに松岡がね」

「おう、俺は一目でおまえを気に入ったからな! で、何て言ったっけ……。あぁ、そうだ安藤だ。その安藤って奴、どう考えても調子乗りすぎだろ」


 安藤という言葉にドキッとする。同時になぜか切ないようなチクッとした痛みが胸に走った。

 松岡は僕の中学三年のときのことを知っている。仲良くなり、松岡になら話せると思って告白した。あのときの僕は、きっと誰かにずっと聞いてほしくて苦しかったんだと思う。

 松岡は静かに最後まで聞いてくれた。十カ月近くに渡って起きた出来事を、まるで自分の痛みのような顔をしながら聞いていた。話し終わると「俺は卓也のこと好きだから」と言って抱きしめてくれた。

 そんな松岡は、僕が昔のことを思い出すたびに「中学の奴らが悪い」と言ってくれる。いまも、女子に話しかけられてうまく返事ができず落ち込んでいた僕を励まそうとしてくれているのだろう。


「っていうかさ、その前髪と眼鏡、ちょっと変えたほうがよくないか?」

「そうかな」

「せっかく可愛い顔してんだからもったいねぇじゃん?」

「何言ってんだか」

「いいや、俺は断言する。おまえより可愛い顔の男はこの大学にはいない」

「あはは、松岡ったら相変わらずだなぁ」


 笑いながら、長くなった前髪の隙間から松岡を見る。


(この前髪を切るのは、まだちょっと無理かな)


 地元に戻ると決めたとき、僕は前髪を伸ばすことにした。知り合いとすれ違ってもわからないように目が半分隠れるくらい伸ばし、それだけじゃ心配で伊達眼鏡も掛けるようになった。

 そんな行動を取る僕を松岡は心配しているのだろう。何かあるたびに「可愛いのにもったいない」と冗談を言う。そんなことを言う割には、無理に前髪を切らせようだとか眼鏡を取り上げようだとかはしない。そんな松岡の優しさが僕は好きだった。


「願わくば、もう少し笑顔が増えるとさらにいいと思うんだけどなぁ」

「僕が笑ったところでしょうがないって」

「いいや、みんなびっくりすると思うね! 惚れる奴がわんさか出るに決まってる」


 さすがにそれはないよと苦笑した。

 顔どころかインドア派だと丸わかりの真っ白な肌も、一七〇センチくらいの微妙な身長も痩せすぎな体型も、自分でも見たいとは思わない。今朝だって生気のない顔を鏡で見てギョッとしたくらいだ。


(そもそも自分だって好きじゃないのに、誰かに見られたいなんて思わないし)


 中学のとき「女みたいな顔してるからホモになったんじゃねぇ?」と言われた言葉が、いまも僕の胸に突き刺さっている。それ以来、鏡で自分の顔をまともに見たことがない。写真に撮られるのも嫌で、修学旅行の写真はほとんどが風景ばかりだ。


(目立ちたくないし、見られたくないからいまのままがちょうどいいんだ)


 誰にも見られず、余計なものを見ないで済むいまが心地いい。ただ好きな本に囲まれて生活できれば、それで十分だ。だから大学では文学部を選んだし、当然サークルにも入っていない。それじゃあ就活が大変だぞと松岡は言うけれど、現状で精一杯の僕に未来のことなんて考えられなかった。


「マジでもったいないと思うんだけどなぁ。って、そういや今日の午後って休講じゃねぇ?」

「うん」

「じゃあ、おまえはバイトかぁ」

「バイトだけど、どうかした?」

「ん~。用事ってほどじゃないけど、たまには一緒に飯でも食いたいなと思って」

「そっか。じゃあ今度遊びに行くよ」

「おう、また飯作ってやるよ。いま丼ものに凝っててさ、味見してほしいんだ」

「やった。松岡の作るご飯、おいしいんだよね」

「もっと褒めろ。でもって、もっと食いに来い。おまえ、ほんと痩せすぎで見てる俺のほうが倒れそうだわ」


 そう言った松岡が、笑いながら「バイトがんばれよ」と手を振って学食のほうに消えていった。


「痩せすぎ、か」


 自分でもわかっている。もっと食べたほうがいいとは思っているけれど、元々小食だからか太るほど食べることがない。それでも中学三年のときに比べたらマシになった。これもアルバイトを始めたおかげだと思っている。


「さて、そろそろ行くか」


 カバンを持って大学を出た。駅に向かう大通りを五分ほど歩き、古い商店街に入ってしばらくすると目的の古書店が見えてくる。そこが僕のアルバイト先だ。

 六十代後半の店主が細々と商っているその古書店は、商店街でも古株の部類に入るらしい。店主は無口だけど穏やかで、古い紙の匂いも相まって僕にとってはとても居心地がよい場所だった。

 一番いいのは滅多に客が来ないことだ。店としてはよくないことなんだろうけれど、店主がそのことを気にしている素振りはない。しかも店の本は好きに読んでいいと言われていて、バイト代をもらっているのが申し訳なくなるくらいだ。


「あれ? 今日はバイトの日だったっけ?」

蘭葡らんぽさん、おかえりなさい」


 奥で店番をしていると、商店街の先にあるパン屋の袋を持った男性が顔を覗かせた。


「ただいま。じいさんは?」

「古書の仕入れだそうです」

「あぁ、それで呼ばれちゃったのか」


 まだ五月の連休を過ぎたばかりだというのに、今日はやけに暑い。うっすらと汗ばんでいる蘭葡らんぽさんが、額の汗を拭いながら僕の隣に丸椅子を持って来て座った。


(相変わらず綺麗な人だな)


 店主のお孫さんである蘭葡らんぽさんはとても綺麗な人だ。誰もが振り返る美人だけど女性じゃない。男性らしさも感じるのに、美人以外に表現のしようがない不思議な人だった。


(初めて見たときは、思わず惚けてしまったっけ)


 そんな蘭葡らんぽさんはモデルや芸能人ではなく物書きをしている。年は聞いていないけれど、おそらく二十代後半といったところだろう。同じインドア派だけど蘭葡らんぽさんは僕みたいな貧弱な体はしていない。物静かなのに生命力に溢れているように僕には見えた。


(とくに出会った頃の僕には眩しく見えたっけ)


 蘭葡らんぽさんに出会ったのは大学に入学したばかりの頃だった。

 覚悟はしていたものの、急激な環境の変化と中学時代のことを思い出してしまうせいで、僕はすっかり気鬱になっていた。気がつけば「僕なんてこの世にいなくてもいいんじゃないだろうか」なんてことを考えたりもした。明確な死を考えたことはなかったけれど、たぶん抜け殻のような状態で生気も薄かったに違いない。

 そんな僕が、ぼんやり川を眺めていたときだった。「まだ寒いだろうから、入水自殺はやめたほうがいいよ」と声をかけてきたのが蘭葡らんぽさんだった。


「あれ? 違った? それならいいんだけど」

「……」

「ねえ、俺の声、聞こえてる?」


 綺麗な顔に覗き込まれてようやく我に返った。あまりに綺麗な顔に、僕はその後もしばらく見惚れていたと思う。

 そんな蘭葡らんぽさんとは、その後も何度か顔を合わせることになった。どうやら出歩く場所が似通っていたらしい。そのうち少しずつ言葉を交わすようになり、実家の古書店で働かないかと誘われることになった。そこから気がつけば二年弱のつき合いになっている。人見知り気味の僕にしてはすごいことだ。

 そういえばバイトを始めてしばらくした頃、出会ったときのことを尋ねたことがあった。


「どうして僕が自殺すると思ったんですか?」

「だって、玉川上水だったから」

「……もしかして、太宰治ですか?」

「そうだよ」


 普通のことのようにそう話す蘭葡らんぽさんは少し変わった人だと思う。だけど、そういうところが僕にはちょうどよかった。普通のことのようにちょっと変わったことを話しているうちに、日常と非日常が混ざり合って不思議と心が凪いでくる。いい意味で現実世界のことがどうでもよくなる感じがした。

 蘭葡らんぽさんに出会ったおかげで、僕は前向きな気持ちで大学に通えるようになった。真面目に文学を勉強しようと思ったし、こうしてアルバイトを続けることもできている。

 ちなみに蘭葡らんぽさんの名前は、江戸川乱歩が好きだというお母様が名付けたのだそうだ。聞いたとき「画数が多いから習字が嫌いになった」と顔をしかめていたのが印象的だ。


「適当なところで帰っていいよ。あとは俺が店番をやるから」


 そう言われて「ありがとうございます」と頭を下げる。


「それじゃあ、これ読み終わったら帰ります」

「乱歩の『D坂の殺人事件』か。明智小五郎登場ってやつだね」

「はい」

「そういえば、この前は泉鏡花の『外科室』を読んでなかったっけ」

「そうですね」

「うーん、愛読書のラインナップがちょっと心配になってくるな」


 そう言いながらも蘭葡らんぽさんの顔は笑っている。

 こうして何気ない会話を交えるたびに、僕は蘭葡らんぽさんと話をするのが好きなんだなと実感した。誰かと話をするのは得意じゃなかったはずなのに、蘭葡らんぽさんが相手だと気負わなくていいからか自然と言葉が出てくる。


(年上の兄弟がいたら、こんな感じだったんだろうか)


 僕は心のどこかで蘭葡らんぽさんのことを家族のように感じているのかもしれない。きっと最初に「卓也くんと話すのは楽しいし有意義だ」と蘭葡らんぽさんが言ってくれたからだ。それを僕は真正直に受け止め、こうして図々しくも蘭葡らんぽさんに纏わりついている。

 結局この日は本の続きを読むことはなく、蘭葡らんぽさんの新しい作品の話を少しだけ聞いてから祖母と弟が待つ家へと帰った。

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