第4話

 文学部棟は大学内でも端のほうに建っている。そのため一階にある自販機は文学部の人間でも利用する人が少なく、二つ置かれたベンチはいつも空席だった。講義時間中はとくにそうで、だから僕はここを選んだ。

 安藤と二人きりになりたくはない。でも中学時代の話題が出るかもしれないと思うと、誰かに会話を聞かれてしまうような場所で会うのはためらわれる。誰かに聞かれて噂を流されるくらいなら二人きりのほうがいい。


(それに、ここなら出入り口の近くだし)


 もし二人きりに耐えられなくなったら出て行こう。出入り口の反対側には正面玄関があって事務室もある。こういう場所なら、例えば安藤が激昂しても何かされる可能性は低いはずだ。


(安藤が僕を殴ったりするとは思えないけど)


 でも、昨日のように腕を掴んだりすることは考えられる。そういうことから逃れるためにも多少の人気はあったほうがいい。咄嗟に決めた場所だったけれど、我ながらいい選択だったと思った。


(ここまで考えられるってことは、もう大丈夫ってことだ)


 安藤を前にしても冷静でいられる。本人と言葉を交わしたことで過去の呪縛から解き放たれたのかもしれない。こういうのもショック療法というのだろうか。


「それで、話って何?」


 話したいと言ったのは安藤のほうなのに、なかなか口を開こうとしない。僕としてはさっさと終わらせたいことなのに、どうして何も言わないんだろうか。

 しばらく待ったものの、やっぱり何も話そうとしない。僕は段々と腹立たしさを感じ始めていた。


「話すことがないなら、帰る」


 出入り口のほうに歩き出すと、安藤が慌てたように「話があるのは本当なんだ!」と口を開いた。


「ずっと話したいと思ってたんだ。ただ、何て言っていいのかわからなくて……」

「別に、無理して話さなくていい。僕のほうは何か聞きたいわけじゃないし」

「いや、話す。ずっと言わなきゃと思ってたんだ」


 そう言った安藤が、何度か小さく深呼吸をくり返した。


「沢渡にずっと謝りたかった。中学のとき、ひどいこと言ってごめん」


 目の前で安藤が頭を下げた。ひどいことというのは「ホモなの?」という言葉のことに違いない。

 あのときの安藤の顔が蘇った。普段とは違う笑みを浮かべていて、とても嫌な感じがしたのを覚えている。クラスメイトたちのからかうような笑みとも気持ち悪がるような顔とも違っていた。いま思い出しても、どういう種類の笑みかよくわからない表情だった。

 当時の気持ちが蘇り、目の前がカッとなった。いまさら謝られたところであの時間が戻って来るわけじゃない。何もなかったことにもならない。


「いまさら謝ったところで、どうしたいの?」

「許してもらえるとは思ってない。それでも謝りたいとずっと思ってたんだ。その……あんな遠い高校に行くとは思ってなくて、それに寮に入ったって聞いて、ひどいことをしたんだって、そのときようやくわかったんだ」


 いまさら懺悔されても困る。それに、僕はあの高校に入ってよかったと思っている。松岡という親友もできたし、高校生活はそれなりに楽しかった。

 たしかにきっかけは最悪だったけど、安藤と関わらない人生はそこからスタートした。僕にとっては喜ぶべきターニングポイントになった。


(そもそも、謝るくらいならもう僕に関わらないでほしい)


 女子が苦手なことも人付き合いが苦手なのも、すっかり馴染んでしまった。謝られたところで僕が変わることはない。

 それにようやく吹っ切れたのだ。昨夜はぐっすり眠ることができたし、安藤を前にしてもこうして平気でいられる。もう、僕の日常に安藤が入り込む余地はどこにもない。


「別に、もういい」

「沢渡」

「いまさら謝られたところでどうしようもない。蒸し返されるほうが困る。中三のときのことは忘れてくれてかまわないから。僕ももう忘れる」


 今日ですっかり忘れて、もう思い出すことはしない。安藤を見かけても恐怖やショックを思い出すことがなくなれば、変な胸の痛みだってそのうち綺麗に忘れてしまうはずだ。


「それじゃ。もう声かけないで」

「沢渡!」


 出入り口へ足を向けた僕の腕を、安藤がガシッと掴んだ。


「話、終わったよね? 離して」

「嫌だ。まだ終わってない」

「それならさっさと話してくれない? 僕は早く帰りたいんだ」


 少し強く言うと安藤がクッと唇を噛む。そうして少しだけ視線をさまよわせた。


(さっきと同じだ)


 ベンチの前に立っていた僕を、安藤は唇を噛み締めながらじっと見てきた。僕が見返すと何か焦るように視線をうろうろさせ、そして無言の時間が続いてしまった。まただんまりかと苦々しく思ったものの、仕方なく話し始めるのを待つ。


「……俺が、どうしてあのときあんなことを言ってしまったか、まだ話してない」

「もういいって言ってるよね? 聞いたところで、いまさらどうにもならないから」

「違うんだ!」


 突然の大きな声にビクッと肩が震えた。驚いたのは安藤も同じなのか、掴んでいた手が離れる。


「ごめん。いまさらかもしれなけど、でも聞いてほしいんだ」


 もう一度クッと唇を噛んだ安藤が「あのとき」と話し始めた。


「中三のとき、俺……おまえのことが好きだったんだ」


 小さいながらはっきりした声に、脳みそが一瞬動きを止めた。「おまえのことが好きだったんだ」という言葉が頭の中でぐるっと一周する。

 意味がわからなかった。安藤は何を言っているんだろうか。


「三年で初めて同じクラスになったとき、すげぇ可愛い顔した奴がいるって思ったんだ。同じ男子の制服着てるのが不思議なくらい、可愛い顔してるって思った」


 安藤の視線が自販機に向いた。気のせいでなければ、横顔が少し赤くなっているように見える。


「最初はそれだけだった。それが五月の連休が終わって久しぶりに顔を見てから、目が離せなくなった。『沢渡って何か可愛い顔してるよな』って言う奴まで出てきて、ますます気になった。そのうち、誰かがおまえのこと好きになるんじゃないかって心配になった。誰かがコクって、付き合ったりするんじゃないかってことまで考えた」


 自販機を見ていた視線が僕のほうを見た。


「あの頃の沢渡、頼まれごとしても断ったりしなかっただろ? もしかして流されやすいのかなと思ったら、すげぇ心配になって……流されて誰かと付き合ったりするんじゃないかって考えた。毎日気になって、イライラして……気がついたら、あんなこと言ってたんだ」


 意味がわからなかった。もし安藤の言うとおりだとしたら、好きだから意地悪をしてしまったということなんだろうか。そんなろくでもないことのせいで、僕は中学三年の十カ月近くをあんなふうに過ごさなくてはいけなくなったということだろうか。


(……何だよ、その幼稚園児みたいな発想は)


 中学生にもなって馬鹿なのか。そんなろくでもない自分勝手な気持ちのために、僕はこんなにも苦しんできたってことなのか。


「そんなことのために、僕はあんな目に遭ったってこと?」

「本当に、心の底から悪かったと思ってる」

「……あのとき、僕が男子にひどいことを言われるのを見て、笑ってたよね?」


 口を歪ませて笑っていたのを僕は見ている。あれは蔑むような笑みだった。


「違う! あ、いや、違わないんだけど……おまえが誰とも仲良くならないんだと思ったら嬉しくて……。その、俺だけのものなんだって、これでおまえに声をかけるのは俺だけだって思ったら、嬉しくなって」


 そういえば、クラス中から無視されていた僕に唯一声をかけてきたのは安藤だった。体育の時間にペアを組まなくてはいけなかったときも、卒業文集の係になったときも安藤だけが声をかけてきた。


(それも怖かったんだ)


 無視される元凶を作った張本人なのに、どうして声をかけてくるのか理解できなかった。何を考えているのかわからないのが怖くて、笑いながら声をかけてくるのが信じられなくて必死に安藤から逃げた。そうするたびに胸が痛くなって、安藤の顔を見ると息が詰まるくらい苦しくてしょうがなかった。

 理由がわかったところで、いまさらどうしろと言うんだ。「謝ってくれたし、理由もわかったから許してやろう」なんて気持ちにはなれない。


「いまさらそんなこと言われても困る。そもそも、どうしていまさら」

「いまさらじゃない! 俺は、いまでも沢渡のことが好きなんだ!」


 今度こそ完全に体中が停止した。


「本当は、一年のときから沢渡が同じ大学だって知ってたんだ。いや、その前からそうなるようにと願ってた。大学は実家に戻ってから通うって噂で聞いたから、それならこの大学だと思った。中学のとき本ばっか読んでたのは知ってたし、地元近辺で文学部があるのはこの大学しかないから間違いないと思って俺も受験した。一年のとき探して見つけたときは、嬉しくて泣きそうになった」


 笑いながら泣きそうに歪む安藤の表情に背筋がぞわっとする。


「でも、見つけた沢渡は昔と全然雰囲気が違ってて……。やっぱり中学のときのことを引きずってるんだと思ったら、声なんてかけられなかった。でも、あいつといつも一緒にいるのを見たら……もしかして、沢渡はあいつと付き合ってるのかと思ったら、声、かけてた」

「ちょっと待って。もしかしてあいつって松岡のこと?」

「この前、声かけんなって言った奴」


 慌てて「付き合ってない」と否定した。勝手に勘違いされて松岡にまで何かされたらたまったもんじゃない。


「あのとき、松岡は親友だって言ったよね? 僕もそう思ってるし、高校からの大事な友達で唯一の親友だ。そもそも松岡しか友達らしい友達ができなかったのだって、あんたのせいじゃないか」

「え?」

「中学のことがトラウマになって、話しかけられるのが苦手になった。自分から話しかけるのもだ。あんたのせいで、友達が作れなくなったんだ」


 安藤が顔を歪ませた。その顔からひどく後悔しているのは僕にもわかった。だからと言ってなかったことにはできないし、安藤の気持ちを受け入れることなんてできるはずがない。


(いまさら好きだなんて、言われて喜ぶとでも思ったのか?)


 ズキズキと胸が痛み、切ないような苦しささえ感じる。「おまえ、ホモなの?」と言われたとき以上に胸の奥がズキズキした。痛くて痛くて、まるで怪我をしてしまったような気分だ。



「いまさら懺悔みたいなことを言われても無理だから」

「沢渡、」

「それに、僕は男が好きなわけじゃない。これまで好きになったこともないし、これからもきっと好きにならない。男だけじゃない、女性もだ。全部、あんたのせいだ」

「……ごめん」

「謝ってほしいなんて思ってない。そんなことより僕のことはもう忘れてほしい」


 心の底からそう思った。思っているから口にしているのに、胸がギリギリと捩られているように痛んだ。安藤の存在よりも自分の言葉に息が苦しくなる。


「忘れるなんて、無理だ」


 安藤が消え入りそうな声でそう答えた。後悔している顔が段々と表情をなくしていく。


「高校三年間で、沢渡のことを何度も忘れようとした。別の人を好きになろうともしたし、実際付き合ったりもした。男と付き合ったこともある。でも、駄目なんだ。頭の中にはずっと沢渡がいて、同じ大学になってからは毎日沢渡のことばかり考えるようになった」


 安藤の色のない視線が僕を見た。感情の読み取れない瞳が、ただ真っ直ぐに僕へと向けられる。


「時間があれば沢渡の後をつけてた。いけないことをしてるってわかってるのに、自分でも止められなかった。俺はもう、沢渡のことしか考えられないんだ」


 背筋を冷たいものが流れ落ちた。安藤が怖い。どうしようもないくらい怖い。さっきから何を言っているのか理解できない。

 それなのに、胸の痛みが段々と消えていく気がした。痛みの代わりにモヤモヤした霧のようなものと、何かよくないものがわき上がってくるのを感じた。


(それに気づいたら駄目だ)


 咄嗟にそう思った。わき上がるよくないものを見たら、僕はきっと戻れなくなる。


「帰る」

「沢渡、」


 カバンをギュッと握った僕は、安藤から逃げるように踵を返した。わき上がってくるものに気づかないためにも、早く安藤から離れなければと足を動かした。

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