第5話 解のAとB

 ドアの向こう側は虚無だった。


 虚像、虚栄、虚構……。これらの言葉が意味するところは、何だろう? 簡単に、「今、虚無だ」などと言ったりするが、そう言えることが、現状が虚無でないことの証明になっているのではないだろうか?


 AとBは虚無の中へと入っていく。虚無に乗り出した。それで、二人の存在は消えたかのように思われたが、実際には消えていない。虚無を認識する主体が存在しなければ、虚無も存在しないからだ。したがって、ドアの向こう側を虚無だと認識するから、ドアの向こう側は虚無だということになる。


 AとBは融合して、Nとなった。


「Nって、何のN?」 が尋ねる。


「さあ」 は首を捻った。「numberのNじゃないかな」


「あるいは、noun?」


「nounって、何?」 は質問する。


「knowの過去分詞形」


 左右に本棚が並んでいる。そこから落ちた物か、床に本が散らばっていた。どれも古びている。表紙も中身も、すべて虫食い状態だった。


 それらの中に、ただ、一つだけ、保存状態の良い本があった。


  はしゃがんで、それを手に取る。表紙に被っていた埃を払った。


 硬質な置き時計。その上に蛙の意匠が成されている。長針は十二を、短針は三を差していた。上方に拵えられた小窓が、蛙の口と一致している。そこが開き、中から長い舌が出されている。


  は、表紙を開いて、次々にページを捲る。


 一見すると、ページには何も書かれていないように見えたが、高速で開くことで、何らかの絵が浮かび上がってきた。それは、やはり、蛙の絵だった。あるいは、Nの絵?


「Nって、何?」


「何とも定められないから、Nなんだよ」 は説明する。「そうだって、数学で習ったでしょう?」


「それは、Xでは?」


「じゃあ、Nは整数かな」


「デジタルってこと?」


「数字はどこまでいってもデジタルだよ」


「デジタルすぎるってこと?」


「さあ……」 はそこで苦笑した。「デジタルすぎるって、何?」


 指を鳴らせば、床に散らかった本たちは、一斉に棚の中へ収っていく。綺麗に整列するのだ。まるで細胞のように、それらは区分けされている。しかし、知識に区分けは存在しない。あらゆる要素を融合させることができる。そういう性質を持っているのだ。


 それを忘れて生きている。


 自分の存在も、また、区分けできない。


 身に纏う空気の存在によって、常に自分は世界と繋がっている。


 自分と世界の境界はない。


 故に、すべて一つ。


 Nの解は定数。


 一だ。


「ここにあったんだ」 が言った。「やっと見つけた」


「何を?」


「すべて」


「そうか」


「そうだ」


「そうなのだ」


「そうであるのだ」


「そうであるのである」


「そうであるのであるのである」


「そうであるのであるのだ」


「そうであるのであるのなのだ」


「そうなのであるのであるのだ」


「そうか?」


「本当に、ここにすべてがある?」


「あるよ」


「ありそうな気もするし、なさそうな気もする」


「どっちでも同じだから」


 背後から衝撃。


  は後ろを振り返る。


 古書店の小さな入り口を突き破って、船が室内に入ってきた。


「いやあ、まいりましたぜ、こりゃあ」甲板に仁王立ちした姿で、船長が言った。「どうやら、エンジン、いや、操縦系が故障してしまったみたいですぜい。勝手に動くもんで、どうしようもありません」


 船が迫ってくる。


  は立ち上がり、それを食べた。


 古書店の外では雨が降っていた。隣にある街灯が、三人の足もとを小さく照らしている。


「お二人は、これから、どうするつもりなんです?」船長が尋ねた。


「どうも」 は答える。「帰るだけ」


「蛙だけに?」 は尋ねる。


「ひっくりかえるう」


 ;;;;;、と雨が降る。


 :::::、と雨が降る。


 雨を掻き分けて、向こうから巨大な影が。


 飛び跳ね、飛び上がり、空中で一回転した。


 蛙だった。


 蛙は三人の前で立ち止まり、目をゆっくり上へと向ける。


 挨拶のようだ。


 二人は彼の上に乗る。


 雨が降り注ぐ暗闇の中を、蛙はスピードを上げて駆けていく。


 涼しかった。


 冷たかった。


 後ろを見ると、明かりの灯った古書店がみるみる離れていく。


 そのとき、ドアが開いて、中から人影が。


 細く尖った指が、ドアの縁を掴んでいる。


  が隣を見ると、もう、そこには誰もいない。


  も、船長も、いなかった。


 自分も消えてしまおうか、と、 は考える。


 そうだ。


 初めから、何も存在していなかった。数字によって、言葉によって、存在していたかのように見えただけだ。世界はそのすべてを認識することができる。世界そのものに主体を認めることもできるだろう。


 これは何だろう?


 この、文字の羅列は何だろう?


 うーん、何だろう?


 何でも良いか。


 それは、何でもあって、何でもない。


 ただ、それ。


 es。


 何に見えるかは、分からない。


 決まっていない。


 そうだ、私も消えて、世界になろう。


 そして、世界になったあとで、もう一度、私になろう。


 それは、どちらでも、同じこと。


 蛙は時を刻んでいる。


 数字を刻んでいる。


 でも、その鳴き声は、数字を刻んでいない。


 音。


 クロック・フロッグ。


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クロック・フロッグ 羽上帆樽 @hotaruhanoue0908

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