前日
今日のために、どれほどの時間を勉強に費やしただろうか。と毎度のことながらそう思う。
ご飯を食べる時も、お風呂に入るときも、頭にあるのは数学の公式や覚えるべき英単語、漢字や古文の文法に飛鳥奈良平安の偉人たちである。
『私たちは勉強するために産まれてきたんじゃないってのにさぁー。』
とは古舘の言葉だ。そりゃあ私だってそう思う。しかし古舘と違って私は、勉強しなければ平均点すら越えられない。落ちこぼれの私はせめて、その差を努力で埋めなければ生きてすらいけないのだ。
自分の未来全てが、この紙一枚で左右される。漠然とした認識だが、私の心が押し立てられるには十分だった。
「――!」
考査開始のチャイムが鳴り、私は配られた用紙をめくった。問題と記憶を照らし合わせて、私は粛々と解答を書き連ねていった。
◇◇◇
「っかぁー!やっぱテスト後の一杯は最高ーっ!」
隣の席の古舘が冷えた水を飲んで、おっさんみたいに喜んだ。ビールでも飲んでるつもりなのだろうか。
私たちは無事定期考査を終え、その労いの意味を込めて『BAR:OrangeBlossom』へ数週間ぶりにやって来ている。古舘から誘われたのを私が了承した形だ。
「別に古舘は頑張ってたわけでもないんでしょ。今回はどこ遊びにいってたの?」
「んなっ!ウチが毎度どっかで遊び呆けてるみたいな言い方やめてや!」
「毎度遊び呆けてるでしょ。」
「ちゃーうーしー!この前のテーマパークは社会見学やしー!てか今回はホンマに真面目に勉強したんやって!」
「どうだか。」
「見とけよ!テストで満点連発したるからな!」
「へぇ、じゃあテストで百点以外とったら学校で私に話しかけないでね。」
「それは話ちゃうやん……」
勉強を一個もせずに考査に臨み、それでいて毎度平均点以上の点数を難なく叩き出している古舘でも、全教科満点となれば無茶な話だ。
「と、とりまテストの話はやめてさ!なんか頼もうやなんか!」
「まぁ……それもそうだね。すみません、プッシーキャットを。」
「あ、ウチはバージン・メアリーで!」
カウンターの向こうで私たちの会話を聞いていたバーテンダーさんに注文をすると、バーテンダーさんはにこやかに頷いた。
「はい、少々お待ちください。」
「っかー!頼んでもうたわー!」
「既視感。」
「いやなんか慣れへんっていうか、なんかこう……大人になった気分になれるやん?カクテル頼んでんねんから。」
気持ちは分からないでもないけど、毎回毎回そんな反応するつもりなのか?元気なこって。
「にしても、せっかくお二人がいらしているというのに……今日に限ってすみません。」
「あーいえいえ!普通ならこんくらいの時間に寝るもんですしね。全然ゆっくりしてもろて構いませんよ。」
「だね。まぁ会えないのは確かに残念だけど――」
「ごめぇぇぇんっ!!寝過ごしたぁぁぁっ!!」
バコン、と割れんばかりの勢いでドアが開く。ドアベルの音も掻き消すくらいの勢いで、そこから飛び出てきたのは例の少女だった。
「浮?こんな時間に起きたの?」
「いやぁ……こういうときのためにアラーム掛けてて助かったよ!」
「寝落ち対策バッチリやん。」
「まぁそれでもこうなった訳だけどね。」
「め、面目ない……」
私がそう言うと、浮は頭を掻いて苦笑した。少しは反省の色を見せて欲しいものだ。
「戸国……浮ちゃん居らんくて寂しかったんは分かるけど、チクチク言葉は良くないで?」
「は?……はぁぁ?そんなんじゃないから。変なこと言うな馬鹿死ね。」
「グサグサ言葉来たんやけど!?」
声が裏返りそうになるくらい動揺しつつ、なんとか取り繕いながら古舘に悪態をつく。なんとか古舘には悟られずにいられたようで内心胸を撫で下ろした。
「……チャームのチョコレートです。」
「え、ウチの分は?マスター。」
バーテンダーさんがホクホク顔でチョコレートくれた。図星を突かれたことを誤魔化したのがバレたのだ。私は耳が熱くなるのを感じた。
「そういうの良いですから、はやくカクテルの方をお願いします。」
「失礼致しました。」
「ちょ、せっかく出してくれたのに失礼やろ?要らんならウチが貰うで。」
「は?無理。」
「食い意地は張るんかい。」
私はバツの悪さを、二つに割ったチョコレートと一緒に噛み砕いた。香り高いほろ苦さが口の中に充満する。美味しい。
「ねぇねぇ、前に言ってたこと覚えてる?」
「前に?何か言ってましたっけ。」
「え、戸国まさか忘れてんの?」
浮の一言に私は記憶を遡った。
……あー、なんかそんな約束をしたような気もしたかもしれない。しかしその記憶も朧気だ。
「あー、アレやもんな。戸国テスト前はマジで詰め込んでるからな。脳のリソース使うために直近の記憶消しとんのやろ。」
「尋ちゃんってそんな器用なことできるんだ……」
「どこのポケットの怪物?」
321ポカンじゃねーんだよ。そこまで勉強廃人じゃないからな?いやそれで点数上がるならなりたいけど。
「まぁそれは置いといて……戸国、浮ちゃんとのお出かけの約束しとったやんけ。」
「……あぁ、あれか。」
冗談のつもりで言ったはずが、気づいたら実際に行くことになってしまったあの約束か。古舘の軽口に反抗するための行為がこんなことになるなんて、と思っていたっけ。
『ま、ごめんな浮ちゃん。戸国はウチの方がええみたいやわ。モテる女は辛いなぁー。』
『浮、今度どっか遊びにでも行く?』
『え!良いの!?』
こんなことを言って……
『ならさ、一緒にショッピングモール行こうよ!』
『ショッピングモール……ですか?』
『うん!ここから電車で行けば結構近いし、それにちょっと気になる映画があって、それも一緒に見に行きたいなって!』
こんなことを言われて……
山とか川とかよりかはマシかな、と思って首を縦に振ってしまったんだっけか。
うーん……正直、面倒くさい。
「戸国はこういうの絶対面倒くさいって思うタイプやから、前日にちゃんと釘刺しとかなドタキャンとかバックレとかすんで。」
「無駄に解像度高いな一緒に出掛けたこと無いのに。」
「うーん……あ、粧奈ちゃんって尋ちゃんのおうちの場所知ってる?」
「え?まぁ知っとるけど……」
……ん、なんか嫌な予感がする。
「それじゃあ粧奈ちゃんも――」
「あーうん。分かった絶対行く。バックレもドタキャンも、遅刻もダブルブッキングもしない。」
「二つくらい追加で企み発覚しとるで。戸国怖い子……」
「約束ねっ!」
無垢な笑顔は強要の圧か……?
「とはいえ、まだ何も決まってないでしょ。場所は決まってるけどその他……いつ、何を目的に、いつまで滞在するのか。ここら辺ちゃんと決めとこうよ。」
「あー、確かにそうだね。お店が始まる前には帰りたいかも。となると……私は夜の九時には戻っておきたいかな!」
門限遅すぎ……これがバーを営む一家の門限か。夜に出歩く非行少女にならなかったのは奇跡なのでは?
「私はいつでも大丈夫です。」
「ウチは午後五時。」
「ナチュラルに混ざんな古舘。」
「えー?だってさっき浮ちゃんに誘われてたしぃー。」
「まだ誘われきってないからノーカン。」
「浮ちゃーん……」
「尋ちゃん……」
浮は恐らく無自覚で上目遣いのお願い。古舘は分かっている上で目をキャルルンと潤ませながらいわゆる『ぴえん』の顔で上目遣いのお願い。
古舘は捨て置くとして、浮の方を断るのはなんだか悪いような気がした。私は数秒長考する。
「……まぁ、うん。分かった。」
「めっちゃ葛藤してた……」
「やった!ありがと尋ちゃん!」
両手をあげて喜んだ浮に苦笑して、私は残っていた最後のチョコレートを口に放り込んだ。
「そうそう、戸国さっき行く目的も決めよ言うとったやろ?」
「うん、それがどうかした?」
「なんか浮ちゃんこの前、気になる映画ある言うとったやろ?それを見に行くんじゃダメなんかなって。」
「え、良いの?」
浮が驚いたように聞いてくる。というか実際に驚いている辺り謙虚というか、もはや卑屈ささえ感じる。
「良いも何も元からそれは行くつもりだけど、問題はその後でしょ?映画見てはい解散、ならそれでも良いけど。」
「えー?それは何かおもんないなー……」
「映画見た後に何をするのか、見切り発車だとやること無くなって無駄な時間を過ごすことになるだろうし。」
そうなったら私は「家で読書してた方が良かった」と感じることだろう。こちらだってそんなことは思いたくない。
せめて時間に釣り合う成果は得たいと思うのは、わがままでは無いはずだ。
「うーん……カラオケ?」
「流石に歌はちょっと……」
「ウチも音痴やから恥ずかしいかもなぁ……」
「ゲームセンター?」
「ゲームはちょっと……」
「遅い時間になると治安悪なりそうじゃない?」
「それじゃあ……ファミレス?」
「ご飯はちょっと……」
「今ダイエットしてるからあんまり食べられへんかもやわ。」
「ええーっ!?もう思いつかないよ!」
浮は頭を抱えて顔を青くしている。まぁ正直私はどこを言われても「なんだかなぁ……」としか思えないので、「じゃあどこがいいのか」と聞かれたらどうにも答えられない。とはいえ、もし可能性があるとするならば……
「……あ、待って!本屋!本屋行く?」
「のった。」
「即断即決!?」
やっぱり浮はよく分かっている。ショッピングモールに一店は書店がある。書店があるということは本がある。本があるということは私がいる。
つまり本あるところに私あり。訪れた地の書店には必ず赴かねばならないのだ。
「そんなこと言うんならウチあれやで?服屋とか見に行きたいけど。」
「えー……」
服なんて着られればそれでいいじゃないか、と思う私にとっては下策中の下策だ。真っ向から拒否しようと私は口を開いた。だが、その前に浮がグッジョブのハンドサインを作り……
「うん!じゃあそれも目的に入れよ!」
「なっ……ちょっと!」
「ええやんか、戸国だって本屋行くんやし。」
「ぐっ……まぁ、うん。」
正論である。というかもはや当然である。
団体で行動する以上はこのような支障など避けられまい。我慢して退屈を凌ぐしかないのだろう。
「じゃあ残りは『いつ』だね!どうする?私はいつでもおっけーだよ!」
「ウチもここ最近は暇やでー。」
「とはいえ学校もあるし、明日と明後日の土日どっちかじゃないと私たち行けないんじゃない?」
「分かった!じゃあ土曜日でどう?」
「せやなー、それでええと思うわ。」
「分かった、明日ね。」
「うんっ!今からとっても楽しみになってきたよ!」
浮は明日が楽しみで落ち着かないようだ。そしてそれに古舘も追従して首肯していた。
「集合場所と集合時間も決めとかなな。現地集合か、また別か……」
「現地でいいんじゃない?レインで連絡取ればすぐに合流できるだろうし……あ。」
「……うん、私携帯持ってないんだよ。ごめんねぇ。」
浮は申し訳なさそうに頬をかいて私に謝罪した。
「持ってないことを責めても仕方ない。別の方法を考えるだけだから、謝らなくてもいい。」
「尋ちゃん……!」
「それやったら集合もこのお店の前でええんとちゃう?浮ちゃんも分かりやすいやろうし。」
「良いんじゃない?時間は……まぁ朝九時くらいで。浮、これでどう?」
「うん!ありがと!」
決まりだ。それ以外に今すぐ決めるべき事柄も思い浮かばないし、後は明日遅刻しないように気をつけるだけだろう。不義理なことをすれば古舘が私の家に突撃してくる可能性もあるし。
「お待たせしました。プッシーキャット、そしてバージン・メアリーです。」
「お、来た来た!」
「明日に備えたいですし、今日はこれ一杯だけにさせてもらっても良いですかね。」
「えぇ、浮も今日は早めに店から帰っておきなさい。」
「いやぁ……私さっきまでグッスリだったからなぁ……」
「浮ちゃんが遅刻したら戸国が家まで突撃しに行かな。」
「なんで私?」
「ウチもグッスリかもしれんやろ!?」
「そうなったら私迷わず帰るけどね。」
「ちょっとは明日に価値を見出してくれ。」
プッシーキャットを手に取って、私たちはそれからもうしばらくの間だけ明日のことを語り合った。
「尋ちゃん!」
「ん、何?」
何も予定の無かった土日休み。本来なら読書をして過ごすはずだった。まさか私が、この二人と一緒に出掛けることになるなんて。でもまぁ――
「明日、楽しみだね!」
「……」
――でもまぁ、こういうのも悪くないのかもね。
「……まぁまぁね。」
私はプッシーキャットを一口飲んで、私を見つめる二人の視線から逃れる。甘く酸っぱい柑橘の味は、照れてしまう私の内心を引き締めるのに一役買ってくれたのだった。
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