始(2)



 眩しい。

 洞から出た瞬間、暖かく明るい太陽の光に包まれて、目が眩み立ち竦む。

 空気はからりと乾いて、砂と土の匂いがした。

 そして物音。人の話し声や動物の鳴き声は聞こえないが、ただ何かが動き回っているようなざわつきが聞こえる。

 眩しさに瞑っていた目を、ゆっくり慣らしながら開いた時――見えたのは、まったく予想外の光景だった。

 洞から出てきた四人は、揃って声もなく立ち尽くしていた。もはや『禁忌の森』は跡形もなかった。文明を呑み大地を埋め尽くした理の樹木はすべて消え失せて、現れたのは……

「……遺跡、か?」

 シンはかすれ声を漏らし、それで我に返ったように瞬きした。

 巨大な石造建築が、彼らの真正面にあって天を衝く威容を誇っている。かつての六彩府にして太古の大神殿、御柱をその中心に抱くワシュアールの象徴。

 陽光を反射して、石壁は白っぽく輝いて見える。つまり、苔むしていないし汚れに覆われてもいない。気候の違いだとしても、シンが見慣れた長城の壁とはまるで様相が違う。まるで誰かが、絶えず手入れをしていたような……と訝しみながら、仰け反らせていた首を下ろし、

「うわぁっ!!」

 腰を抜かさんばかりに驚いて、叫びを上げた。のみならず、後ずさろうとしてよろけ、転びかけたのをスルギに抱きとめられてしまう。だが羞恥を感じる余裕など無かった。

「邪鬼が、お、おいおい、やばいぞこれ」

 口が勝手に情けない声を吐き出す。彼は震えながら辺りを見回した。

 古い時代の市街地がそのまま保存されたような、閑散とした町並みに、普通の住民よろしく『邪鬼』たちがうろうろしているのだ。

 スルギも緊張に毛を膨らませていたが、じきに彼は気付いて警戒を解いた。

「大丈夫だ、彼らは違う。たぶん、話にあった『労僕しもべ』のままなんじゃないかな。あの臭いがしないだろう?」

「――あ」

 本当だ、とシンも空気を嗅いで、どうにか気持ちを立て直す。そう、もし邪鬼がいたなら外に出た瞬間、あの恐怖と嫌悪を催す悪臭に見舞われていただろう。それがまったくなかったから、気付かないままのんきに神殿を眺めていられたのだ。

 シンは萎えそうな足に力を入れて姿勢を正し、改めて様子を窺った。これだけ大声を上げても、どの労僕もこちらに注意関心を向けない。落ち着いて観察すると、『邪鬼』との違いは明らかだ。単純なつくりながら服を着ているし、姿も動作も、あれよりはかなり、そう――正気の人間らしく見える。ただし、理の樹海がいきなり消え失せたのにまったく動揺している様子がないのを、正気と言って良いのなら、であるが。

「どうなってんだ、これ……」

 困惑し、ぽつりと独りごちる。傍から見ているだけでは、それぞれの労僕に何の目的があるのか、まるでわからない。ある者は何かを抱えて歩き、ある者は座り込み、ある者はただ空を仰ぎ見ている。ただ、何かしようとしていることは確かだった。たとえば建物の壁をこすっている者がいる。掃除か補修をしているらしい。

 街路にも広場にも、他に目立つ生き物の姿はない。荷物を運ぶ馬やロバもおらず、犬猫がうろつくこともない。視界の端を一瞬かすめたのは鳥だろうか。地面はうっすらと草に覆われ羽虫が飛んでもいるが、大きな樹木は一本も見当たらなかった。

 それでもどこかには生きているのだろう。労僕たちが命をつなぎ、かつての在りようをわずかなりとも維持できるだけの、家畜や作物が。往時の賑わいには遠く及ばなくとも、そこには生活が息づいていた。命じ、統率する人間が誰一人いなくなった後、ことわりの樹海に呑まれた後も、狂わずにいた彼らは本来の仕事を黙々と続けていたのかもしれない。

 シンは呆れ、彼らの正当な支配者たりえる古代人の二人を見やったが、二人はともに神殿を仰ぎ見たまますっかり放心していた。シンも彼らの視線を追い、眉を寄せる。建物を見ているのかと思ったが、少し違った。視線の先はそれよりも上、頂上の祭殿から天に向けられていたのだ。

 ――何かがある。

 見えないのにそう感じられて、シンはもどかしい気分になった。何も見えないし聞こえない、にもかかわらず確かに何らかの存在を感じるのだ。

 気のせいだと片付けられなくもない程度ではある。怪談話を聞いた後で、しばらく部屋の隅や背後に“気配”を感じてしまうようなものだ、と。だが正体を見定められないままその感覚に注意を向け続けていると、不審は恐怖に取って代わられる。

 だからシンはそれを無視しようとした。何も見えない、そこには何もない、あの二人は空を眺めているだけだ。

 しかし事実――見開かれた宇宙の双眸は、をはっきりと映していた。

 天と地を結ぶ光。かつては天から地へと降り続ける御柱だったもの。

 今、それは、地から天へと聳え立つ巨大な樹の姿をしていた。

 まさに『世界樹』だ。その梢は見える範囲の空すべてを覆うほどに高く遠く拡がり、天を衝き宇宙にも達しているだろう。

 シャニカは己の『路』が共鳴し震えるのを止められず、驚愕に打たれたまま、ただその威容に圧倒されていた。ウルヴェーユを使うことに不自由を感じたことなどなかったのに、今やっと初めて、路と標の本当の姿を知ったのだ。

「……は」

 息が漏れた。感嘆と理解納得と、そして――

「は、あは、あはははっ、はは……っ!」

 あまりのことに、心の底が抜けたような笑いが止まらなくなる。シンとスルギがぎょっとしてこちらを見たのも、リッダーシュの心配顔も、何もかもが、遙か彼方の砂粒ほどに思われた。

 砂粒。塵芥。そう、そんなものだったのだ。

 あんなに必死であがき、生き延びようと手を尽くした終末も。長い長い歳月、わずかばかりの喜びを抱きしめて、壮絶な苦しみを味わい、涙と怒りと狂おしさと、それでもなお生きて償いたい、取り返したいと……

「シャニカ様」

 そっと呼びかけ、リッダーシュが手を差し伸べてくる。胸に沁みる黄金のいたわりを受け止め、シャニカはかろうじてその手を握り返した。世界樹の巨大さに呑まれて霧散しそうな自我をかき集め、くすくす笑いながら「大丈夫よ」と宥める言葉を口にする。

 大丈夫。そう、わたしは大丈夫、何ともないし、何でも無いことだ。こんなことは。

 笑いすぎて涙が滲む。シャニカはようやく少し落ち着いて息を吸うと、ゆっくり長く吐き出して、自分を見つめる不安げな面々にしっかりとしたまなざしを返した。

「ただ、あまりにあんまり過ぎて。国が滅びる、世界樹が駄目になる、そう大騒ぎして、どうにかしよう生き延びようと狂奔した……そんな出来事も全部『知ったことか』なのだと見せつけられてしまったものだから」

 苦笑になり、空を仰ぐ。天に届く梢に向けて、地から昇ってゆく理の光。その行く末は見えない。壮大で、見事で、――問答無用の『自然』そのもの。

 ああもちろん、人間の営みが世界樹に対して全くの無力なのではないだろう。ワシュアールの滅びがあの時期にあの形をとったことに、文明の影響が皆無とは言えまい。そしてすべての『路』を切り離し自分たちだけに結びつけた結果、今になってそれが世界樹の変化を妨げていた。だが、力の差はあまりにも圧倒的だ。

 語りによって魂を反転させたことも、世界樹の変化を促したのではない。それがなくとも世界樹は、いずれちっぽけな障害物をやすやすと引きちぎっただろう。かつて地表を食い破ったように。つまるところ、結果として自分たちの魂を守っただけだ。

「わたしたちが何をしようとすまいと、自然は構わず自然の都合で動く。きっとこの状態が、『最初の人々』の時代には正常だったのね。そして恐らく、反転の時に……ワシュアールのように滅んだ」

「ええ。私もそう思います」

 リッダーシュが静かに肯定し、握った手に力を込める。どこかへ流されていきそうな彼女を引き留めるように。てのひらを通じて伝わる温もりだけが、細いもやい綱だ。

 シャニカはぎゅっと目を瞑り、暴れ狂って溢れ出しそうな感情を、用心深く小さなつぶやきにして逃がしていく。

「わたし――シェリアイーダは、あれほど懸命に、世界をまともにしよう、綻びを繕おう、いよいよ駄目になったのならせめて被害を抑えようと、力を尽くしたけれど。何も変わらず、世界はただそうあるように動く。きっとまた何千年か先に、理の反転は起きるのでしょう。巨大な振り子が行きつ戻りつするように、何度でも繰り返し。そしてそのたび、滅びが訪れる」

 壮大な自然の動きを、そういうものだとはまるで想像も及ばなくて、ただ目先の変化を捉え対処するだけで精一杯だった。実に矮小な己らの姿を思い知らされて、もはや滑稽でしかない。

 ――ああ。長い長い生は、苦難に耐えた日々は、いったい何だったのか。

 虚しさに囚われそうになったその時、リッダーシュが繋いだ手をもたげ、彼女の指に口づけした。

「それでも、我々が生きて抗ったことは事実です」

 森緑の瞳でまっすぐにこちらを見つめ、彼は強い声音で言う。シャニカは儚く微笑んだ。

「何の意味もなかったとしても?」

「そうです」

 リッダーシュが頷いたので、シャニカは思わず瞬きした。彼のことだから、何かしらの意味を自分たちの生に見出してくれるのかと予想したのだが。

「意味も価値も、その有無を決めるのは我々の“想い”でしかない。我々が生きたという事実は、想いとは関係なく確かに存在するのです、シャニカ様。誰がどのように価値を断じ、解釈を歪めようと、誰もが忘れ去り思い返すことも無くなろうと」

「……」

 事実は在る、というだけの、慰めにも励ましにもならない当たり前の言葉。だが今はそれが、乱れ騒ぐ心にぱたりと凪をもたらした。

 自然によって人間の営みを「知ったことか」と一蹴されたのに、想いや価値を持ち出すのは見当違いなのだ。それが通じるのは人間社会の狭い内側でしかなく、そんなもので世界に相対しても無力を思い知らされるだけ。

 シャニカはリッダーシュの手をぎゅっと握り返し、そうね、と小さく頷いた。

 その時、彼女が納得するのを待っていたかのように、神殿の中から一人の労僕しもべがこちらへ歩み寄ってきた。シンが後ずさり、スルギが身構える。だが労僕は彼らに何の注意も払わず、かつての女王を注視していた。

「ヒメ、サマ?」

 首を傾げ、明らかにこちらの反応を窺いながら、ぎこちなく呼びかける。シャニカは驚きに息を飲み、労僕の前にしゃがんで目を合わせた。

「言葉が……わたしが分かるの?」

「? 姫サマ。呼■■、聞コ■タ。デモ、行■■カッタ」

 相変わらず労僕の内心はよくわからない。表情もほとんど変わらず、口調も平坦。だがその労僕は、確かにシャニカと視線を合わせ、意思を通じようとしていた。所々聞き取れないのは、長い歳月で単語が変化したのか、彼ら特有の発音なのだろうか。

 涙ぐむシャニカに、労僕は胸に手を当てて一礼した。

「我ラ、ウトゥナム。幸いノ名ヲ■■■■モノ、ズット待■■イマシタ」

「ウトゥ」

 衝動的にシャニカは労僕を抱きしめようとしたが、相手がぎくりと身を強張らせたのに気付き、寸前で堪えた。そうだった。労僕はこうした感情的な触れ合いが苦手だった。シャニカは微笑み、触らないというしるしに手を広げて見せる。

「覚えていてくれて、ありがとう。あなたたちはずっと、ワシュアールの在り方を……部分的にでも、守り残してくれたのね」

 もちろんこの労僕はあのウトゥではない。その後で身近に置いた何人かのウトゥでもない。だが彼らの自己認識が受け継がれ、もはや労僕ではなく“幸いなるものウトゥナム”という種名を持つに至ったのだろう。もっとも、当人はそれについて特段の思い入れはない様子で、ただ小首を傾げて瞬きした。

「?? 我ラ、生キル、必要デシタ。ソレダケ。姫サマ、マタ■■スル?」

 何だろうか。今度はシャニカが首を捻る番だった。また何かをする……とは、再びかつてのように働かされる、命令されるのか、という問いかけだろうか。

 背後でシンの小声が「しゃべってやがる本当かよ」などと言うのが聞こえ、シャニカは何よりまず確認すべき事柄があったのを思い出した。

「教えて。わたしの呼び声に応えて森から出てきたのは、狂ってしまったものたちだった。ここにはもう、彼らはいないの? 皆、飢えて貪ることはしない?」

「狂ッタモノ。■■ニハ、イナイ。タマニ出ル。皆、アッチニ行■」

 ついと手をもたげて指さしたのは、北東の方角だ。

「ツカマエテ、ツクリナオス。逃ゲタラ、ムリ」

「――」

 驚きのあまりシャニカは絶句した。リッダーシュが、ああ、と得心の声を漏らす。

「イーラウが『邪鬼』を捕らえた時、森の端に人影が見えたと思ったのは、そういうことか」

「そんなことがあったの?」

「はい。こちらの様子を窺って、森の中へ引き返したようでしたが、正体を確かめるすべが無かったので。まさかこんな状況になっていたとは」

 答えて彼は、つくづくと労僕――否、ウトゥナムを見つめた。普通の人間では太刀打ちできず、継承者であっても油断禁物の『邪鬼』を、同族ならば捕まえられるというのか。しかもそれを、作り直す、すなわち工廠の大釜に戻せるということだ。

「いったいどうやって捕らえるのか、知りたいような知りたくないような気分ですが、少なくとも『邪鬼』が野放しになっているのではないと判って一安心です。理の流れも正常になった今後は、そもそもの発生数が抑えられるでしょう。平原の民も慌てなくて良い」

 言葉尻でリッダーシュはシンを振り返り、まずまず悪くない結末だろう、と言うように微笑んだ。

 シンは複雑な顔で大袈裟に身を竦め、警戒のまなざしをウトゥナムに投げかけて、やっぱり無理だ、とばかり身震いする。その横でスルギが、所在なさげに尻尾をばさりと揺らした。

「それじゃあ、俺たちジルヴァスツも、これからは……?」

 曖昧に語尾を濁したのは、女神様からお役御免されることへの心細さゆえだろう。

 シャニカは立ち上がり、スルギに歩み寄って手を伸ばすと、励ますように頭を撫でてやった。

「そうね、これからのことを考えなければ。邪鬼の脅威がほとんど無くなったと言っても、完全にではない。でも、たまに現れたとして、それが捕まらずに東目指して逃げてきたとしても、北へ呼び集める力はもう消えたから、里で待っているだけでは仕留められないし。そもそも、あなたたちを関守のさだめに縛り付けるのも、もう……ね」

 女神も柩守も、もういない。新たな器が産まれ魂が継承されることは、二度とないだろう。ならば関守もその役目を終える頃合いだ。

 とはいえ、今までずっと、それこそ始まりの経緯が忘れられるほどの歳月、平原の弱きものを守ることを基とする暮らしを築いてきたのだ。すぐに別の生き方など考えられまい。不安な顔をしているスルギを、シャニカは優しく抱擁した。

「あなた一人で決める必要はないのよ、心配しないで。帰って皆とよく話し合うといいわ。それに、人間たちの動向も見定めないとね」

 言って彼女は、シンに向き直る。とんでもないものを負わされる予感から、シンは自分の背後を振り返ったが、もちろんそこには、重荷を投げ渡せる者など誰もいない。そんな彼の反応に、リッダーシュが失笑した。

「貴殿の手腕を発揮する時が来たようだな。陽帝国はもうずっと内向きの政策で外征には乗り気でなかろうが、皆が皆そうではない。禁忌の森が消え失せて広大な土地が開けたとなれば、富を求めて乗り出す者も少なくあるまい」

「しかもウトゥナムたちは」とシャニカが引き継ぐ。「恐らく国家という体制をもっていない。元来課せられていた労役を自らの“持ち分”と認識して、それぞれがただ実行し、その連携によって種全体が生き延びてきたのでしょう。もちろん軍隊なんて無い。征服するのは簡単に思われるかもしれないわね。でも」

 そこまで言い、心配性のあなたならわかるでしょう、と視線で投げかける。シンは天を仰いで呻いた。

「やめてくれ冗談じゃねえ。こいつらが何考えてんだか俺にはさっぱりわからんが、おとなしくまた労僕しもべの地位に成り下がってくれるなんて期待するのは、虫が良すぎるだろう。いつまた『邪鬼』になっちまうかもわからない。しかもこいつら、ウルヴェーユは使えない筈だろうに、工廠を動かして自分たちを再生し続けてきたんだろう? 禁忌の森に呑まれてまともに動かない古代の施設やら道具やら、自分らでなんとかする知恵をつけちまったってことだろうが。そんな連中相手に戦争とか、中央の連中が変な色気出しやがったら俺ら辺境組が大迷惑だ!」

 つらつらと悪い予想を列挙する彼に、シャニカとリッダーシュが失笑する。シンはぎろっと二人をねめつけた。

「お気の毒様、みたいに他人事決め込んでんじゃねえぞ、くそ」

「悪いけど、他人事だわね。頑張って」

「おい」

「わたしたちの時はもう終わっている。これからはあなたたちが、彼らとの付き合い方を学ぶ時。困難ではあれ、良い機会になるでしょう。自らの在り方を省みて改める機会。都合勝手に生み出し、使い潰し、見捨てて逃げたものに対して、やっと巡ってきた償いをする機会です」

「はぁ!? 何千年も昔の奴らがやったことだろう、なんで俺らが尻拭いを!」

 シンが怒りの叫びを上げたが、シャニカは泰然とそれを受け流した。

「人間に生まれたからです。自分には何の責任もない罪科つみとがを負わされ、自分では何ひとつ貢献していない成果の恩恵を享受する。そうして自身もまた、すべてを後の世代に押し付けて死んでいく。人の歴史とはそういうものでしょう」

「……あんたがそれを言うのか」

 受け入れたくなくて、シンはどす黒い唸りをぶつける。シェリアイーダには痛撃だったかもしれないそれは、今の彼女シャニカにはほろ苦さ程度のものだった。

「そうです。何度も生まれ、そのたびに前の時代の罪を負ったわたしだから言うのです。……自覚のあるなしにかかわらず、わたしたちは皆、過去を償い、未来を望みながら生きている。その繰り返し。いつか本当にすべてが滅びる、時の果てまで」

 幾星霜を見てきたまなざしでそう言われてしまったら、もうシンには反論できない。大きく息をついて、がっくりとその場にしゃがみ込む。地面を見つめて、なんで俺が、とまた恨み言をこぼしていると、リッダーシュの朗らかな慰めが降ってきた。

「なればこそ、貴殿がすべてを背負う必要もない、ということだ。貴殿が生きている間の平和を保ちたければ、相応に力を尽くさねばなるまいが、しくじろうと、やり残したことがあろうと、何であれ結局は後の者が引き受ける」

「気楽に言ってくれるぜ。俺がどれだけ紙と墨を使うことになるか」

 ぶつくさぼやきながらも、相手の声の妙な若々しさが引っかかり、顔を上げる。そして目を瞠った。

 明らかに若返っている。中年の男だったはずが、今はどう見ても二十歳そこそこの青年だ。長い生に倦んだ継承者の面影はもうどこにもなく、溌剌とした晴れやかな顔で、空を覆う世界樹の梢を見上げている。長い歳月の末に再会した誰かを懐かしむように、目を細めて。

 慌てて女王のほうを振り向くと、こちらもそこまで極端ではないが、少し若くなったように見えた。まさか、と我が身を見下ろしついでにスルギも確認したが、こちらは変化なし。ただ驚いているだけだ。ということは。

「おい、おまえらまさか」呼びかける声が震えた。「ここで消えちまってさようなら、てんじゃないだろうな!?」

 言われてはたと我に返ったように、リッダーシュが瞬きして顔を下ろす。シャニカが失笑をこぼし、シンに睨まれて「ごめんなさい」と形ばかり謝った。

「そんなに慌てなくても、あなたたちを置き去りにしたりはしません。ちゃんと帰り道は残しておくから、安心して」

 微笑みかけられて、スルギがよろけるように二人のほうへ歩み寄った。

「それじゃあ、本当にお別れなんですか」

 帰り道やこれからの不安などよりも、ただ純粋に寂しいと訴えるまなざし。置いて行かないで、というその想いに、自身も深く共感する過去があるシャニカは、黙って狼の首を撫でてやった。それから、そんな彼女の想いに応えてくれた愛する者を振り返る。

「そうね。少なくとも彼は心を決めている――どころか、もう早々とあちら側に踏み出しているようだけれど」

 からかう声音で言われ、リッダーシュが気恥ずかしげに姿勢を正し、妻のもとへ戻ろうとする。シャニカは優しくそれを止めた。

「気付いていないの? あなたはもう、わたしが出会った頃の姿になっているわよ。お父様のそばにいつも控えていた、大好きなあなた。世界樹を見上げて誰を想っていたのか、わたしにわからないとでも?」

「シャニカ様」

「ええ、わたしも感じてはいるの。お父様にもう一度逢えるとしたら、きっとあの梢の果てに違いない、って。……いらっしゃると良いわね」

「はい」

 リッダーシュはにこりとしてうなずき、手を差し伸べる。さあ共に参りましょう、というしるしに。だがシャニカはそれを取らなかった。

「先に行っていて。わたしにはまだ、もう少しだけ、という願いが残っているから」

 彼女が口にした言葉に、スルギがぴくりと耳を震わせる。リッダーシュはためらい、迷いながら「では私も」と言いかけたが、シャニカは穏やかに首を振った。

「わたしはもう大丈夫だから、安心して。それに、『もう少しだけ』の時間に、あなたはいないほうが良いと思うの。リッダーシュ、あなたは心底愛する相手であってもその手にかけることができる人。あなたのそんなところも理解し、愛して、信頼したからこそ……わたしシェリアイーダは女神になり、あなたリゥディエンに柩守を任せることができた。でも、はあなたを少し怖いと思うだろうから」

「――ああ、それならば」

 得心した、とリッダーシュは頷いた。そして、差し伸べていた手を引き戻して胸に当て、最後にしっかりと見つめ合ってから、笑顔で深く一礼した。

 別れの言葉はない。

 金茶の髪をひとつに編み、晴朗な空気をまとった少年は、その声と同じ黄金の光に包まれて、世界樹に吸い込まれるように天へと昇り――

「……消えた」

 ぽつりと落ちたつぶやきは、シンのものだった。骨のひとかけ、形見の品ひとつとして残さず、消えてしまった。何度も生まれ変わり長い時を旅して、最期がこれとは。

「潔いっちゃ潔いが、味気ねえもんだな」

 シンは独りごちて肩を竦めたが、いやこんな気分は凡人の感傷で、同じ運命を生きてきた者なら満足しているのかもな、と思い直して元女王の様子を見た。

 同時に、空を仰ぎ見ていたシャニカがふらりとよろめいた。

「――!」

 スルギが素早く抱きとめる。瞬間、胸によりかかる重みが変化した。驚きに瞬きひとつ、そして鼻には確かに覚えのある匂い。

 息が震えた。腕の中で身じろぎしたのは人間の女、だがその髪は黒ではなく焦茶色で。

「まさか」

 あと少しだけ、という言葉を聞いて抱いた淡い希望。まさか本当に?

 身動きすると腕の中の人が砕けて、もう一人のように消えてしまうのではないかと恐れ、スルギは確かめることもできず硬直する。だが彼女は消えなかった。

 小さく頭を振り、ふらつく足に力を入れて、ゆっくりと姿勢を立て直す。そうして、狼の顔を見上げて、不思議そうに呼びかけた。

「スルギさん?」

「……っ、ミオ!」

 がばっ、と正面から抱きしめ直し、何度も何度も名を呼びながらかき抱く。ふさふさの毛並みに埋もれたミオは溺れるようにもがき、なんとか顔を出して息をついた。

「スルギさ、っぷ!」

「ミオ、本当に君なんだな、ああ、神様……!」

「はい、私です。だからあの、少し息を」

 頬ずりするために抱き上げられ、ミオの足が宙に浮く。さすがに見かねたシンが止めに入った。

「ちょっと落ち着け、その勢いで抱き潰しちゃ元も子もねえぞ」

「抱き潰すもんか」

 否定しつつもスルギはそっとミオを下ろし、今度は自分が立っていられなくなって、その足下に座り込んだ。華奢で小さな手を両手で包み込み、拝むように鼻先や額を擦りつける。

「……うう、本当にミオだ、こんなことがあるなんて」

 良かった、良かった、と感涙にむせぶ狼を前に、人間ふたりはどちらからともなく顔を見合わせた。ミオがふっと笑ったので、シンは妙な気分になって頭を掻く。

「何がどうなってんだか。おい、わんころはすっかり感激しちまってるが、あの時の姉ちゃんとは別人だな? 少なくとも、霊峰に登る前とは違う」

「はい」

 ミオが肯定したので、スルギも少し落ち着きを取り戻し、顔を上げた。微かな不安を浮かべた灰色の双眸に、ミオは優しいまなざしを返す。

「でも、私はミオです。ラク市の白綬、うまく立ち回れなくて追放された役人で、スルギさんのところでずっとお世話になっていた私。ただ、あの頃は虚ろだったところに『女神』の魂がおさまっているので、違うところもあります。そういう意味では、別人でしょう」

 淡々と言い、そこで彼女は自然に微笑んだ。

「今はこうして、嬉しいとか幸せだとか、そういう気持ちを確かに感じられますし、それを表に出すこともできます。……願いが叶って、また会えて嬉しい。スルギさん」

 握られたままだった手をそっと抜き、逆に狼の大きな手を包み込む。それから彼女は傍らを振り返り「あなたにも、緑二殿」と付け足した。シンは苦虫を噛み潰して唸る。

「おまけ扱いするぐらいなら変に気を遣わずに、そいつと好きなだけいちゃいちゃしてろよ。……っと言いたいとこだが、いつまでも駄弁ってもおれん。ここはやたら空気が乾いてるせいで、喉がカラカラだ。あの女王様は、帰り道は残しておくとか言ってたが」

 もう消えちまってやしないだろうな、とシンは真顔になって周囲を見回した。その時になって、事態に置いてきぼりにされていたウトゥナムが、つと手を上げて指さした。シンが目をやると、彼らの少し背後、草に覆われた広場の中央に虹のゆらめきが確かに残っている。

「道」

 ウトゥナムがはっきりそう言ったが、どういう意図なのかはわからなかった。あれが霊峰の洞に通じるものだと理解しているのか、単にシンの言葉尻を捉えて繰り返したのかも。

 ミオがゆっくりとウトゥナムに歩み寄る。さすがにスルギもしゃんと立ち、そわそわする尻尾を抑えて彼女に付き従った。ウトゥナムは相変わらず無表情のまま、じっとミオを見上げて待っている。

「あなたには、あれが何かわかりますか」

 ミオが問いかけると、ウトゥナムは「道」と繰り返した。それから小首を傾げ、人間と狼を見回して続ける。

「姫サマノ道。我ラ、行■ナイ」

「はい。これから私たちは、あの道を通って帰ります。でも、また来ます」

 ミオができるだけ単純な文をつなげて言うと、ウトゥナムもすんなり理解してか、こくりと頷いた。

「■■■、消エタ。ダカラ■■来ル。知ッテタ。マタ■■スル?」

「ごめんなさい、言葉がわかりません。また昔と同じになるのか、という質問なら、同じにはなりません」

「ナラナイ」

 確認のように繰り返したウトゥナムに、ミオは「はい」と肯定し、それからどう言おうか少し悩んだ。かつてのワシュアール人と同じくウルヴェーユを使える人間は、もういない――最後の一人を除いて――し、陽帝国の人々がこの西大陸の状態とウトゥナムを目にして、支配あるいは交易などの関わりを望むかどうかわからない。イウォルの民とジルヴァスツがどう動くかも。

 だが、不確定なことをつらつら並べても、ウトゥナムを混乱させるだけだろう。

「あなた方が平和に暮らせるように、できるだけのことはします。だから、あなた方は……生きてください。これまでしてきたように」

 ミオがどうにか最低限の希望を告げると、ウトゥナムはしばし間を置いて、納得したような風情で、胸に手を当てて一礼した。そして唐突にくるりと背を向けて歩き出し、とことこと神殿の中へ戻って行ってしまう。挨拶も何もない。シンが呆れて首を振り、

「あいつらとの付き合い方を学ぶってのは、随分と苦労しそうだな……俺ァごめんだぞ、帰るからな、帰って二度と来るもんか」

 誰に向かって宣言しているのやら、投げやりな台詞を残して、さっさと六彩のゆらめく帳をくぐった。

「俺たちも戻ろう、ミオ。どうするにしても、一度里に帰って皆に知らせないと」スルギが言い、ふと笑みをこぼす。「ヤティハには厳重に注意しないとな。君を見たら感激して、それこそ本当に抱き潰しかねないから」

「懐かしいです。相変わらずなんですね」

 ミオもちょっと笑い、もう一度改めて都の景色を眺めた。王宮も大神殿も、建物の姿だけはほぼ往時のままだ。微かに元女王の懐古が胸をよぎったが、今の彼女はもう、それに囚われはしなかった。天を衝いてそびえる世界樹を見上げ、その光の暖かさに畏敬の念を抱く。古くから識っていたそれを、これから新たに知ってゆくのだ。

 あれは神ではない。だがミオは背を向けて立ち去る前に、恭しく一度、深く頭を下げた。これからまた、この国に――否、この土地と生命たちに、恵みをもたらしてくれることを願って。




 山を下る帰路は賑やかなものだった。何しろシンがひっきりなしにしゃべるのだ。

 先回りしてあれこれ予想しては心配する苦労性の小役人は、既に幾通りもの可能性を考え、ああだこうだと並べ立てては、どうすりゃいいんだ畜生、などと愚痴に泣き言をこぼし続けている。しかも登りはイーラウに先導も面倒も任せておけたのに、帰りはそれがなくなって、荷物は増えるし手間も増えるし、まさに不満憤懣の尽きることなし。

 崩れやすい岩だらけの難所をひやひやしながら越えて、一休みしながらシンはようやく良い事をひとつ見付けた。

「しかしまぁ、女神様があんたを残してくれて、まだしも幸いだな。今までに女神になった器の中の別の誰か、いつの時代のどこの誰ともしれない奴だったら、最低の悪夢になるところだ。あんたが最後の一人で、女神様になった後そんなに経たずにお役御免になったから、ってだけかもしれんが」

「それはもちろん、そうです。ただ、私の願いが叶ったのは、私が平原に生まれたからでもあります。ほかは皆、イウォルに生まれて早くから器となり、女神の意思と記憶を受け入れていったので……私のように、自分自身としての人生を確立させることは、なかった。イーラウさんが消えてしまったのも、そういうことだと思います」

 ミオは訥々と答え、しばしスルギを見つめた。そして、気遣う声音で先を続ける。

「最期の……私が一度、女神になったあの時も。私は、スルギさんに手を伸ばしました。きっとこれまでは皆、継承者……柩守の彼を呼んだのだと思います」

 自己の岸辺が削り取られていく、あの恐ろしい感覚。早くから器としての生を受け入れていた者たちも、やはり怯えただろう。共にいてくれと、愛する者に手を伸ばしただろう。

 その呼び声を標と成すために、彼はそれを断ち切ってきたのだ。何度も、何度も。いつもそこで、彼によって願いは絶たれた。だがミオの願いはスルギに向けられていたから、こうして戻ってくることができたのだろう。

 ミオが過去を想って沈黙すると、スルギがその手を取って優しく握った。しんみりした空気になったのを、シンが咳払いで切り替える。

「おかげで俺は役人仲間の協力が得られるってわけだ。……何きょとんとしてるんだ、おまえもやるんだぞ!? まさか道中ずっと俺があれこれ言ってたのを、全部ぼんやり聞き流してたのか? ここでまた『悪いけど他人事だわね、頑張って』だとか言われたら泣くぞ俺は!」

 悲鳴を上げつつ既に涙目である。ミオが答えるより先に、スルギが身を乗り出した。

「待ってくれ、まさかミオを低地に連れて行くのか? それは駄目だ、そもそもミオは殺されかけて里に流れ着いたんだから。生きていることがばれたら危ないし、そうでなくとも」

「おい落ち着け、わんころ。もちろん里で暮らせばいいさ、あの労僕連中のことはおまえらに任せたいからな。霊峰を通ってあいつらの言葉やら実態やら調べて、知らせてくれりゃいい。俺は砦で、馬賊――じゃねえな、イウォルの連中と連携して、丘陵から西へ行こうとするやつを牽制する。まぁ、まともな経路であっち側まで行くのはかなり難儀だろうから、時間は稼げるさ。その間に……はぁ、気は進まねぇが、中央にせっせと報告書を送るしかねえだろうな」

 やれやれと伸びをして腰を上げ、さて行くか、とまた歩き始める。難所を越えたので少し気楽な足取りになって、三人の会話もいくらか明るくなっていった。

「まずはそもそも虎狼族が実在した、ってとこから話を始めなきゃならんだろうなぁ。あー、めんどくせえ」

「あ……ジルヴァスツの皆さんについてなら、正式の報告書ではありませんが、私がいくらか書き留めたものが」

 ミオが思い出して言い、スルギに目顔で問いかける。狼は、うん、とうなずいた。

「部屋を掃除していて見付けたよ。ちゃんと取ってある。俺たちの見た目とか暮らしとか、整理して細かく書いてあった」

「なんだそれ。提出する当てもないのに記録をとってたのか? 役人の鑑だな。ならそいつを叩き台にして作るか。問題は送りつける先だが……」

 今さら中央の伝手を頼れるかねぇ、あいつら生きてっかな、などとシンがぼやけば、イウォルの皆さんも力を貸してくださるでしょうし、とミオが慰める。

 中央の誰かが真面目に受け止めてくれたら、視察の役人も西の果てを訪れるだろう。その頃には、ジルヴァスツの何人かは里を出て、イウォルや長城砦の者と共に丘陵を見回っているかもしれない。

 いずれワンジルとの関係を改善できたら、もしかしたらサーダッド一族と共に行ったワシュアール人の記録があるかもしれない。エストゥナガルのあの様子からして、紙の書物は無理でも石碑や粘土板文書なら残っているかもしれず、それら史料が見付かれば報告書にも説得力が出る。何より、歴史学者が歓喜して駆けつけるだろう……

 そうした未来の予想や可能性を語り合っているうち、ミオは確かに時代が動いていくのを実感した。端から端へ、振り子が再び揺れて進む。一度は滅び消え去った国が、埋もれて忘れられた事実が、またよみがえりつつあるのだと。

 やがて行く手に、柔らかな緑の草に可憐な花々が咲き乱れる、なだからな斜面が開けた。『女神の裳裾』に戻って来たのだ。かつて一面の赤い花に覆われたそこも、今は白や黄、紫や緋、とりどりに彩られている。

 ミオはふと佇み、下りて来た山道を振り返った。

 どこまでも青い空を、薄雲を纏った霊峰の白い尖端が鋭く切り取っている。相変わらず峻厳で、もはや女神はおらずとも、やはり霊妙な気高さを帯びていて――だが、孤独ではなかった。

「白雪、血潮……」

 唇をついて、詞がこぼれる。理の流れが『路』を洗い、満たして、また巡り戻ってゆく。


 白雪 血潮 萌ゆる草

 海原 麦の穂 遠き宇宙そら……


 口ずさみ、歩を進める。先に進んでいたスルギがこちらを振り返り、追いつくのを待っている。ミオは笑顔になった。

 もう少しだけ共にいたい。そう願って許された時間がどれほどあるのかわからないが、それが尽きた後も、記憶は命と共に歩んでゆくのだろう。


 巡り廻せよ 百歳ももとせ 千歳ちとせ

 果つることなき 時の果つまで


 ――いつかすべての時が果てる、久遠の彼方まで。




(完)

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