始(1)

   始



 名乗りで語りを終えた時、そこにいるのはもはや女神と柩守ではなかった。

 いつの間に姿が変わったのか、対面に座っていたのに気付かなかったシンは、何度も瞬きする。外界の自然光が入らない洞では、色彩の明かりがあっても姿形がはっきりとは見えない。黒髪の女と金茶髪の男。恐らく三十代から四十代あたりだろうか。

 二人は改めて相手が誰かを確かめるように、お互いに顔を見合わせた。

「これは……魂の絆を結んだ頃に戻った、ということかしら」

 考え深げに女――シャニカがそう言うと、その夫リッダーシュもうなずいた。

「そのようですね」

 同意の声を聞いて、シャニカはちょっと目を瞠り、眩しそうに目を細めて「声も」と微笑む。あまりに久しぶりに褒められて、リッダーシュは今さら気恥ずかしそうに目を伏せた。

 初めて婚約者と引き合わせられた少年少女のようなふるまいを見せつけられて、シンは叫び出さないように歯を食いしばり、しかめっ面をする。同時に横でスルギがプシュンと鼻を鳴らしたので、二人が振り返り、シンのひどい顔を見てそれぞれ失笑した。

 笑いを堪えながらシャニカが立ち上がり、歩み寄る。先にスルギのそばに膝をつくと、彼女はゆっくり肩に触れ、それからふかふかの首まわりをちょっと撫でた。

「長くて悲しい話を聞いてくれて、ありがとう」

 途端にスルギはまた目を潤ませ、微かにキュゥンというような声を漏らした。素直で純粋な反応に、シンのほうはいたたまれなくなる。もぞもぞ身じろぎした彼を振り返り、シャニカはいたずらっぽく笑った。

「あなたにも、感謝を。『どんな顔すりゃいいんだこんちくしょう』という顔をしているけれど、最後まで付き合ってくれたおかげで、どうやら上手くいったようです」

「口真似とか勘弁してくれよ、女神様……じゃなくて女王様?」

 まさにどんな顔をすれば、という顔で、シンは歯切れ悪く抗議する。へりくだって恭しい言葉遣いをすべきなのか、継承者の若造相手にしたようなぞんざいさが許されるのか、取るべき態度も定まらない。気まずいのをごまかそうと、彼は早口で続けた。

「ウルヴェーユとやらの原理は実感が無いから信じ切れないが、今の大陸西側がこのざまになった理由はだいたい把握した。『禁忌の森』は世界樹がおかしくなったせいで、『邪鬼』はその昔ワシュアールで造られていた人間もどきの奴隷が狂っちまった結果。で、たまたま既に転生のわざを手にしていたあんたらが、森と邪鬼から人を逃がすために、『女神』と『柩守』の仕組みをつくった。その時にジルヴァスツも『関守』になって、事情を知ってる一部の人間が平原に入らず森に近い丘陵で警戒に当たり、その末裔が馬賊ってわけだ」

 指折り数えながら整理するシンに、シャニカも生真面目な表情でうんうんと相槌を打つ。シンはなんとなしに薄気味悪くなって、数えていた手を拳に握った。まるで他人事のようなこの態度はなんなのか。いや、ここにいるのはもう女神ではなく、それよりずっと前の時代の女王なのだから、他人事だということなのか。深く考えると混乱しそうで、彼はとにかく頭を整理することに集中した。

「世界樹が駄目になった理由は結局、わからないままなんだな? 自然の寿命なのか、国中でウルヴェーユを使いまくったせいなのか。一方で、邪鬼のもとになった労僕なんぞを大量に造る国になっちまった経緯は……あんたの辿ってきた歴史に見る通り。で、今のあんたはそもそもの始め、転生なんていうとんでもない方法を実現させちまった女王様、ってことで合ってるか? よくそんな無謀なことを試したもんだな。まぁそれも、なんか前振りがあっての因果ってことなんだろうけどよ」

 俺なんざ一度目の人生でもう飽き飽きだ、と軽口を装って肩を竦めた小役人に対し、シャニカは穏やかに応じる。

「その話をすると“始まり”の前に戻ってしまうので、今はやめておきましょう。ただ、術を行った始まりのその時、わたしは親しい人と死別することに対して、極めて強い恐れがあったのです、とだけ」

「ああうん、そんなとこだろうさ。あんたは永遠の美貌とかそういうもんを欲しがるクチじゃなさそうだしな。とにかく、あんたが“始まり”に戻ったことで『上手くいった』んだよな? つまり『禁忌の森』の、ついこの間に始まった嵐みたいな異常がおさまった、ってことか。それで前と同じ状態に戻ってるのか。それともまさか、あの森がすっかりさっぱり消えてなくなったりとか?」

 質問を受けて、シャニカもすっと真顔になった。夫を振り返り、互いの『路』が触れ合う響きを確かめてうなずく。

「外に出てみるまでは、わかりません。ただ、ことわりの流れが落ち着いたことは確かです。かつて世界樹が、安定した巨大な御柱であり続けた頃のように。……少し、妙な感覚ではありますが」

「私もです」リッダーシュが同意する。「長らく理が地表に現出した異常な状態に慣れてしまったために、かつての正常な感覚を思い出せないのだとしても、違和感がありますね」

 言って彼も立ち上がり、入ってきたのとは反対側、洞の奥の壁に向き合って立った。シャニカもその横に並ぶ。二人が手を掲げて壁に触れると、そこから六色の彩りが波のように広がった。

 失われた古い言語で、二人が韻律を紡ぐ。洞内の紋様が応えて輝き、流れ、音の飛沫が弾けた。シンとスルギは揃って首をのけぞらせ、そのさまに見惚れる。原理も何もわからずとも、色と音の調和は心地良い。

 余韻が静まると、シャニカが振り返って「シン、スルギ」と呼びかけた。

「ここから、すべての始まりの地――ワシュアールを支える御柱、世界樹のもとに出られるはずです。わたしと彼は行きますが、あなた方も共に来てくれますか?」

「もちろん」

 即答してスルギが立ち上がり、素早く二人のほうに行く。慌ててシンは腰を浮かせ、

「待て待て待て待て!」

 自分でもぎょっとするような大声で呼び止めた。取り乱した声を上げたのが恥ずかしくなり、俺は冷静だぞ、と誇示するような足取りでスルギに追いついて腕を掴む。

「考えなしに従うな、犬じゃねえんだろうがよ。すべての始まりの地で世界樹のもと、ってことはつまり、昔のワシュアールの都、つまり『禁忌の森』のど真ん中に出ちまうってことだぞ!? 森の異常がおさまってるとしたって、そもそもがあの森はまともな人間が――おまえらジルヴァスツだって、ほいほい入り込めるもんじゃないだろうが!」

 叱りつけられて、スルギはやや怯んだ顔をする。シンは畳みかけた。

「邪鬼がうようよいたらどうする、一瞬で回れ右して逃げ戻って無事に済むとでも?」

 無謀を禁じるつもりの指摘は、残念ながら逆効果だった。スルギはきりっと引き締まった表情になり、腕を掴むシンの手を外させた。

「だったらなおさら、俺が一緒に行かなかったら二人が危ない」

「無茶言うな! くそ、俺は行かないぞ。安全なここで待つ。絶対すぐ戻ってこいよ、俺ひとりであの山を下りるなんざ自殺行為だからな」

 シンは半ば脅し、半ば本心で、我が身を抱いて震えて見せた。案の定『弱きもの』を見捨てられないスルギは、後ろめたさと困惑のあいまった声を漏らした。

「帰り道の心配か」

「当たり前だ!」すかさずシンはまくし立てる。「そもそも俺らは、何がどうなってるか知って、どうしたらいいのかを決めるために、ここまで来たんだろうがよ。あっちのお二人さんは、外がどんな状態だろうと、ともかく故郷の土を踏めたら満足かもしれねえが、俺とおまえは麓まで戻って、おまえは里、俺は砦で、待ってる連中のところに報せを持ち帰るのが仕事だ。ほだされて大事なとこを見失うんじゃない」

 びしっと厳しく言い渡されて、スルギは耳をぺたんと垂れ、どうしたら良いのかと問うように洞の奥を見やった。その視線の先で、リッダーシュが悪気のない失笑をこぼす。

「勤勉なことだ、時が時なら我らの臣下に是非とも迎えたかったな」

 朗らかな声音に、皮肉の気配はない。継承者イーラウとは異なるその笑い方に、シンはどうにもむず痒くなってしまう。あの若造と同じであれば、うるせえ何様だ、と一喝してやれたものを、今の彼はこちらに抵抗の余地を与えないほどに、明るく幸せな波をかぶせてくる。苦り切っているシンをよそに、リッダーシュは六彩の揺らめきに手を触れて続けた。

「貴殿の懸念はもっともだが、恐らくそれほどの危険はあるまい。禁忌の森に邪鬼が数多棲息していたなら、呼び声に引かれて北に現れるものも、はるかに多かったはずだ。近年はその数も随分減っていたし、そもそも彼らが狂うのは理の力の異常が誘因なのだろうことを思えば、正常化した今、かつての滅びの時のように至るところ邪鬼まみれ、という状況ではあるまい。とはいえ」

 そこで彼はシンを振り向き、愉しげな揶揄の声音で言い添えた。

「貴殿に一番手を命じはすまいよ。私が行こう。安全であれば呼ぶ。それで良いか? 何がどうなったのか、貴殿もその目で確かめたいだろう」

「おう。安全なら、そりゃあな」

 渋々ながらシンが認めると、リッダーシュは満足げにうなずき、シャニカに目礼してから色彩の揺らめきに身体をくぐらせた。シンとスルギが息を詰めると同時に、シャニカもふわりと舞うようにして光の帳を通り抜ける。

「――!」

 スルギが反射的に駆け出し、シンが止める間もなく向こう側へと消えた。

 シンは空振りした手を宙に浮かせたまま、しばし待つ。一呼吸、二呼吸。だが誰も戻っては来ない。数回足踏みして、洞内を三往復ほどうろうろしてみたが、何もなし。

「……っ、何をもたもたしてんだよ、クソ!」

 結局彼も、やけくそになって色彩の中へ――世界の中心、かつての都エストゥナガルに通じる扉に突っ込んでいった。


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