第20話 バルリービーの深淵

 レントと水棲馬だった青年を巻き込んだ水流はうねりにうねると、やがて水路の中に渦を作りはじめた。

 荒れる水流にイシュカが顔色を変える。


「う、わ……! やば……っ!?」


 その小さな焦りに一番近くにいたアーヴィンが反応する。首筋の剣は突きつけたまま、イシュカを問いただした。


「何が起きている!?」

「ああもう……! レント、呪力抑えて! こじ開けちゃだめだ!」

「どういうことだ!」


 イシュカが届かないと分かっていながらも水路に向けて声を張り上げた。アーヴィンが剣の存在を忘れるなと言わんばかりにイシュカの肩へ剣を押し付ける。

 イシュカが剣なんて気にしていないように首を巡らせた。

 薄皮一枚切れた感触。

 イシュカの金色の瞳が自分を敵視する男を捉える。


「レントが僕を通して幻種の国ティル・ナヌグへの道をこじ開けようとしてる。このままだとレントの身体がもたない」

「なんだと……!?」

「レントはまだ器が完成しきってないんだ。成熟する前に僕と契約しちゃったせいで、呪力の器が成長しきってない。レントの器に呪力が満ちる前に僕のほうに流れてきちゃうから、自分の呪力の最大最少を知らないんだ」


 呪力の器が完成していない。

 己の器を知らないまま、大きな術を行使しようとしている。

 アーヴィンはその意味を正しく理解すると、イシュカと同じように顔色を変えた。


「待て、そうなると」

「レントは自分がどれだけの呪力を持っているのか知らない。しかも今は僕に預けた呪力も吸収している。自分の力量以上の呪力を操ると、身体が耐え切れなくで破裂する……!」

「なんだと……!?」


 アーヴィンが驚愕する目の前で、イシュカは頭を抱えた。

 自分の主人の無鉄砲ぶりに、さすがのイシュカも嘆く。


「ただでさえ幻種の国ティル・ナヌグへの道は大量の力がいるのに! 僕らでも足りないくらいのさ! それを人間がこじ開けようとするのが無茶! しかも呪力が全然ないレントがするなんてもうさー! レントの馬鹿! 大馬鹿者だよ!」


 がおうと天に向けてイシュカが吠えると、アーヴィンもようやくその剣を引いた。

 イシュカよりも今はレントを救出するべきだという意識のほうが大きくなる。


「イシュカ殿、止める方法はないのか!」

「ないことはないけどぉ……攻撃してこない?」

「なんだと」


 アーヴィンが眉間にしわを寄せた。

 イシュカはゆっくりと立ち上がりながら、自分と相反する男をじっと見つめる。

 イシュカにとって一番油断ならないのこの男。

 三年前、レントから自分を引き離し、早々に自分の姿を暴かせたこの男だ。

 イシュカの蒼銀色の髪がさらりと揺れる。

 金色の瞳が妖しく輝いた。


「レントが主導でやろうとしているあれの主導権を僕が奪う。このままだとレントに呪力を吸いつくされるし、人間に変化している余裕なんてないからね。本性になった僕を攻撃しないなら、やれる」


 イシュカの言葉にアーヴィンは苦虫を潰したように口の端を歪めた。


「貴様……我が身可愛さに、少年を取引材料にする魂胆か」

「うわ、そうとる? 君、もう少しレントを見習って真っすぐ受け取ってよ」


 アーヴィンの曲解にイシュカは呆れたように肩をすくめた。

 それからレントにしてあげるように言葉をかみ砕く。


「僕には目的がある。そのためにはレントに死なれちゃ困るんだよね。それにあそこへ飛び込むなら、人の身体は適さない。だからここで本性になるけど、僕を攻撃しないでってこと」


 アーヴィンは一度瞑目する。

 一瞬の葛藤。

 それはそうだ、あれだけ幻獣を殲滅しようとしていたのに、その幻獣に見逃せと言われているのだから。

 でもその先にあるのは、どうしてかこの三年、ずっと心の片隅に居続けていた少年の命。

 アーヴィンはやがて瞼を押し上げ、紅い瞳にイシュカを映した。


「……善処しよう」

「不安だなあ、もう。いいけどさ。さーて行こうか」


 ちょっと間を開けて肯定された言葉に、ちょっとイシュカは嫌そうな顔になる。そんな気持ちもため息ひとつと一緒に吐き出しながら。

 イシュカは変化を説いた。

 蒼銀の髪は鬣となり、腕は前足、足は魚の尾を形作っていく。

 石畳の上に現れた水棲馬に、成り行きを見守っていた軍士や術士たちがざわめく。


「もう一体、幻獣が……!?」


 弓や剣、術士による呪力がイシュカへと向けられる。

 イシュカはのうてんきそうな声音でつぶやいた。


『まあ、こうなるよね』

「待て、こいつを攻撃するな!」


 アーヴィンが即座に声を上げる。

 取り巻く軍士や術士が戸惑い、互いにどうせればよいのかと目くばせし合う。

 イシュカはその隙に宙へと躍り出て。


『さ、レント君。やんちゃはやめようね~』


 手のかかる主人の無茶ぶりを止めるべく、イシュカは渦巻く水路へと飛び込んだ。






 渦潮の中、レントの身体が淡く蒼銀の色に発光する。

 呪力が身を包んでいる。浅いながらも呼吸ができるものの、急激に減っていく呪力のせいで呼吸がうまくできない。空気を求めてレントは喘いだ。


「う、はぁ……!」


 渦潮の底は水路の石畳だった。そこに蹲るレントの前に、一匹の水棲馬が立つ。


『馬鹿な人間だ。人間ごときがバルリービーの深淵を開けると? 思い違いも甚だしい』

「お前、その姿……!」

『ふん。人間なんぞを見下すにはこの姿がよいだろう』


 水棲馬の表情はよく分からないけれど、その声には間違いなく嘲りが含まれているのが分かった。

 蹲りながらも、レントは水棲馬を睨みつける。水棲馬は文字通りレントを見下した。


『小僧、好き勝手言ってくれたな。お前にその力は大きすぎる。お前が握っているその力を我に譲渡するなら、今日のところは見逃してやろう』


 なんだかものすごく上から目線でむかつく。

 腕をついて上体をゆっくりと起こすと、レントはべえと舌を出した。


「だれが渡すもんか。おれはお前を幻種の国ティル・ナヌグに帰すんだ……!」


 水棲馬がふんと鼻を鳴らして、水の槍を生み出す。


『やはり人間は愚かだ』


 水棲馬の頭上から、水の槍がレントめがけて放たれる、瞬間。


『ちょぉおっと待ったー!』


 声とともに水の槍が降ってくる。

 その槍に間欠泉のような水流がぶつかる。

 渦の結界を直進で駆けてきたその声の主は、水の槍を相殺して水飛沫を上げながらレントの隣に降り立った。


「イシュカ!?」


 レントがびっくりしてイシュカを見上げると、目の前にいる水棲馬ケルピーがぷりぷりと怒る。


『ほんともうレントの馬鹿! 無茶してもう、馬鹿ったら馬鹿!』


 開口一番に罵倒されて、レントは面食らう。

 なんだか既視感のある光景だ。ついさっきもイシュカに同じように助けられたばっかり。

 言い返せずに口をぱくぱくさせていたレントは、はっと我に返る。


「なっ、ばかって……! ばかじゃねえし!」

『いやもう大馬鹿者だよ! 自分の力量も分かんないんだから!』

「うぐっ」


 さっきも聞いた台詞だけれど、イシュカに言われるとちょっと胸に突き刺さる。

 言い淀んだレントの額に、イシュカはその鼻先で優しく触れた。


『子供は大人しく寝ているように』

「子ども扱いすんじゃね、ぇ」


 レントに傾いていた呪力の均衡がイシュカ側に偏る。

 瞼が急に重たくなった。レントの意識が微睡みに落ちて行く。

 契約の繋がりを通じ、レントが生み出そうとしていた幻種の国ティル・ナヌグへ通じる道を開くための力の主導権が、イシュカの手の内に転がりこんだ。

 呪力の均衡が完全に崩れ、レントの身体から力が抜ける。

 イシュカは水を操り、意識を失ったレントが頭をぶつけないように優しく水路の底へと横たえた。呼吸を確認するように鼻先を頬へと添える。


『あとはお兄さんに任せなさい』


 そっとつぶやくと上体を起こして、イシュカは自分の対へと視線を向ける。


『お前……』

『やあ、兄さん。まあ、事情は聴いての通りだからさ? ――大人しく帰ってくれる?』


 イシュカが力の奔流を一点に集中させた。

 渦巻く水がもう一匹の水棲馬を襲う。

 水棲馬はそれを軽々避ける。水の槍を生み出し、イシュカを攻撃した。

 イシュカは尾で槍を軽々と打ち払う。

 しばらく水流と水の槍の攻防が続いた。


『しぶといなぁ』

『ならばそこを退くがいい』

『それはだめ。レントを殺すつもりでしょ? そんなことさせないし……そろそろ、かな?』


 イシュカが水を操り、相対する水棲馬に津波のような水流をぶつけた。

 水棲馬は鼻で嗤い、軽々とそこから脱出しようとする。

 その顔色が変わった。

 何ものも棲めないほど澄みきっていた水に、何かが混じる。はじける泡に光の粒子が混じる。幻種の国ティル・ナヌグへの道が開こうとしていた。


『バルリービーの深淵……! そんなはずは……!』


 水棲馬がうなる。この光景が信じられないようで、イシュカを鋭く睨みつけた。

 対するイシュカは飄々としている。


『僕のご主人様さ。器が小さいだけで、潜在的な呪力って人一倍大きいんだよね。だからこんなこと、僕にとって朝飯前さ。今までたんまりと貯め込んだ力があるんだもの!』


 渦巻く水流が水棲馬を引きずりこもうと、触手のように追いかけてくる。

 その水流の根元には泡でつくられた幻種の国ティル・ナヌグの景色が広がっていて。

 これが水棲馬ケルピーの本来の力だ。

 こちらの世界と幻種の国ティル・ナヌグを結ぶみちが、水棲馬が拓くバルリービーの深淵。


『く、吸い込まれる……!?』


 水棲馬がもがくけれど、もがけばもがくほどその身体は水流に引きこまれていく。

 イシュカは自分で生み出したバルリービーの深淵に飲み込まれないように水流を操りながら、吸い込まれていく兄弟に声をかけた。


『向こうに行ったらよろしくね? 僕が迎えに行くまでもう少し待っていてって伝えてくれる?』

『何を言って……!』


 イシュカの金色の瞳がすっと細まる。


『僕が幻種の国ティル・ナヌグに送った魂に決まっているだろ』


 さも当然というようなイシュカの言葉。

 その告白に、水棲馬が狂喜の声を上げた。


『は……、はは、ははははは! 結局貴様も私と同じではないか! とんだ茶番だな、リーバー・エッハ!』

『その名前で呼ばないでくれる? 僕の今の名前はイシュカだよ、リーバー・アッハ。それともヴェゼルと言ったほうがいい?』


 イシュカは顰め面になりながら水棲馬の真名を呼ぶ。

 それだけじゃなくて、リーバー・アッハを縛る契約名すらも。

 ヴェゼルと呼ばれた水棲馬は狂喜の声をぴたりとおさめると、まるで呪詛でも吐くようにおどろおどろしい声を這わせた。


『契約者を得たからと言って本質は同じだ、リーバー・エッハ。貴様もすぐに女子供を深淵へと引きずり込むことになる。我ら水棲馬ケルピーは愛する者を深淵に呼び込む幻種ナヌグなのだからなぁ……!』


 もう半身が幻種の国ティル・ナヌグに引っ張られているヴェゼルに、イシュカはあっさりと言い返す。


『たとえそうであっても、僕がレントと一緒にそっちへのは百年は先さ』


 その言葉を額面通りに受け取ったらしいヴェゼルが嗤う。

 イシュカを愚かだと嗤う。


『それは見ものだ! だが忘れるな、今、ここで深淵を開く意味を。一度開いたら道はつながりやすくなる。私以外の幻種ナヌグがきっとくるぞ。私もまたここで道が開くのを待ち続けるだろうなぁ……!』


 そんなことは百も承知だ。

 イシュカの余裕はそれくらいで崩れやしない。


『そうなったらそうなったで、おっかない人がきっとどうにかするでしょう。向こうでたむろしてるやつがいたら言っておいてよね。どうしてこの世界とそっちの世界が分けられたのか。そんな力も役割もないのにこちらへ来るのは、馬鹿のすることだよって』


 ヴェゼルの身体はもう胸まで幻種の国ティル・ナヌグへと引き込まれている。普通ならもうとっくに深淵を閉じることができるのに。それが難しいのは同胞を送りこもうとしているせいだろうか。イシュカの兄弟であるヴェゼルだって、力さえあればバルリービーの深淵を開くことができるから。

 わずかな抵抗を示し、ヴェゼルは問いかける。


『ならば聞こうか、愚かな兄弟よ。何故、貴様はその馬鹿なことをしてまでこちらの世界にきたのか』


 イシュカは目を細めた。

 あの日、三年前に開いたバルリービーの深淵。

 その道を通り、変わり果てた幻種の国ティル・ナヌグから飛び出したのは。


『そんなの、決まってる。広い世界を見るためさ。世界は広いんだもの。幻種の国ティル・ナヌグで見つからなかった答えが、こっちにはあるかもしれないじゃないか』


 もう鼻先しか残っていないヴェゼルが、言い捨てる。


『馬鹿馬鹿しい。いったい何を探すというのか』

『それは――』


 バルリービーの深淵が閉じて行く。

 力の奔流は止み、残されたのは水棲馬ケルピーのイシュカと人間のレント。それから故郷の川の水が混ざり濁った水。

 イシュカは残った滓のような呪力で人の姿をとる。

 その表情は兄と呼んだ同胞を心底軽蔑するようなもので。


幻種の国ティル・ナヌグを蘇らせるために決まっているじゃない。そんな簡単なことも分からないなんて、馬鹿なのはそっちじゃん」


 イシュカは膝を折って、深く眠る少年を抱き上げる。

 小さくて軽い、ささやかな命。

 この命がイシュカをこの世界に繋げてくれる首輪になる。


「僕が探しているものが、百年で見つかるといいけど」


 イシュカはそう囁くと、水流を操り水面へと浮上した。

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