第19話 もう一匹の水棲馬〈下〉

 水路に立つ男は少し古めかしい服を着ていた。

 右耳には紫水晶の耳飾り。水草をからめたような蒼銀の髪はたっぷりとしていて背中を覆っている。白い瞼がゆっくりと持ち上がると、金色の瞳が無感動にイシュカを見た。


「懐かしい匂いがすると思ったら、お前だったか。よく幻種の国ティル・ナヌグから出てこれたな」

「兄さんもね。見かけないな~って思ってたら、いつの間にかこっちに来ているんだもの。びっくりしちゃったよ。それで? これはどういうつもり? 人間を攫っているのは兄さんの仕業でしょ?」


 イシュカから兄と呼ばれた水棲馬が鬱陶しそうに眉間にしわを寄せた。

 レントは声がひっくり返りそうになりながらイシュカに尋ねる。


「イシュカ、それ本当なのか」

「懐かしい匂いがしてたんだよね。壊れた水門に行った時に確信した。兄さんもあの時に気がついたんでしょう? こっち側に僕が来たって」


 イシュカがレントを背に隠しながら、自分と同じ顔をした青年を見た。

 青年は鼻を鳴らして嘲るように口の端を歪ませる。


「どうやってあの忌々しい結界を抜けたのかと思ったら、人間の呪力を纏って擬態しているとはな。おかげで私もこちら側にこれたわけだが」

「僕が悪いお手本になっちゃったねぇ」


 イシュカが肩をすくめた。悪いと思っている割には反応が軽いけれど、そういうのに頓着しないのがイシュカだとも言える。

 イシュカはさして悪くも思っていないのか、すぐにいつもの調子に戻って。


「それで人間を攫っているのはどうしてかな」

「わかりきったことを」


 イシュカの問いを、水上に立つ青年は吐き捨てた。

 それから忌々しげに顔を歪める。


幻種の国ティル・ナヌグは枯れた。かつての恵みは腐り落ち、美しき水は枯れて濁り、我々は棲む場所を追われた。生きる糧を探し、バルリービーの深淵を目指したのは、私だけではないだろう」


 レントは思わずイシュカの服を掴んだ。見上げればイシュカがちょっと困ったようにレントに笑いかけてくる。そのまま視線を上げて。


「だからってさあ、人を攫うのはほどほどにしないと。どんどん生きづらくなるだけだよ?」

「たわけ。こちらで生きるには致し方のないこと。こうでもしなければ我らはすぐに朽ち果てる」

「そうだけどさ~。もっと穏便にいこうよって話」

「そんなこと……そうか、お前はそうか」


 不意に相対する青年が笑いだす。

 くつくつと喉を震わせる笑い方。そこには愉快さに紛れて憐憫のようなものが混じっている。

 青年はひとしきり笑うと、イシュカを見下すように歪んだ笑みを浮かべた。


「運よく契約者を見つけられたか。だがすぐに気がつく。そんなもの一時しのぎでしかないことを。所詮、百年生きることも叶わない脆弱な命だ。お前もすぐ真理に気がつく」


 ほの暗い声で囁くような言葉。

 イシュカはその言葉を斜に構えて受け取った。


「その真理っていうのが人間を攫って食うことなら、僕はまた幻種の国ティル・ナヌグに帰るだけさ」

「だからお前は馬鹿なんだ。人間と我らは相いれない。食うか食われるか、最後は自然の摂理に従わざるを得ない」


 青年が右手を上げる。

 水路の水が噴きあがり、飛来した軍士の矢を防いだ。

 イシュカは慌てて水路から飛びのくと、レントの首根っこを掴み水路から少し離れた石畳の上に一足飛びで着地する。

 膝を折ったイシュカの視線はレントに近い。レントはイシュカの金色の瞳をじっと見た。


「イシュカ、今の話は本当なのか。人間を食うって」

「言ったでしょう? 僕らがここにいるためには呪力がいるって。僕はレントからもらえるけどさ、契約者のいない幻獣は自分で獲ってくるしかないんだよ」


 イシュカから、本当は言いたくなかったんだよなぁという気持ちが伝わってきた。

 それでも聞き捨てならない言葉があって、レントはその言葉をイシュカにぶつける。


「獲ってくるって」

「それが、幻獣が人を襲う理由なのか」

「そう。だからその怖いもの、しまってくれない? レントに当たると困るんだけど?」


 イシュカを挟んだ向こう側。

 イシュカの背後から、アーヴィンの剣が彼の首筋に添えられている。

 鋭い切っ先にレントは叫んだ。


「アーヴィンやめてくれ! イシュカはそんなことしない!」


 だけどアーヴィンは剣を引いてくれなくて。

 冷たい声がレントたちの頭上に降り注ぐ。


「少年よ、聞いていただろう。契約とやらがなければ幻獣は人を襲う。聞いているとどうやら幻獣は長生きのようだ。少年。自分が死んだあと、彼が人を襲わないと言い切れるのか?」


 アーヴィンの視線は鋭く恐ろしい。殺気すらも籠っているそれにレントは萎縮してしまいそうになる。

 だけどここで引いてしまったら。

 レントは奥歯を噛みしめると顔をあげ、アーヴィンをまっすぐと見返す。


「イシュカはそんなことしないって言った。おれはイシュカを信じるし、絶対にイシュカを人殺しになんてしない……!」

 アーヴィンの表情が憤怒を纏う。

「そんなことできるわけが……!」

「できなくてもやるんだ!」


 レントが叫ぶと同時、水路の水が大きく揺れた。

 それはだんだんとうねり、術士たちが戸惑いだす。

 少年から驚くほどの呪力がこぼれだし、それが水路に干渉しだしたから。

 放出する呪力の摩擦でレントの輪郭が揺らめく。

 レントはアーヴィンから視線を逸らすと、踵を返して荒れる水路に変わらずたたずむ青年を見た。


幻種の国ティル・ナヌグに棲めなくなったからこっちに来たって言っていたよな。だったら幻種の国ティル・ナヌグを救えばいいんだ」

「少年、いったい何を」

「おい、そこのケルピー! おれの声を聞け!」


 アーヴィンの静止なんてお構いなしにレントは声を張り上げる。

 ほんの少しの距離だ。レントの声は悠々と青年に届き、自分を攻撃する術士たちから視線が外れる。

 イシュカと同じ――いや、イシュカよりも暗く残虐な色をした金色の瞳がレントを捉える。


「なんだ小僧」

「お前、畑を作ったことはあんのか! ないよな! 絶対ないよな! やったことがあったら、イシュカが鍬の持ち方がわかんなくてうっかり畑ん中の芋を砕いてパズーに怒られたりしないもんな!」


 レントの言い出したことに周囲は呆気にとられた。

 なぜ畑?

 そんなレントの奇行に真っ先に我へと返ったのはイシュカで。


「ちょ、昔のことじゃん! 今はちゃんと畑耕せるし!」

「うるさいイシュカ! おれはお前の兄ちゃんと話してんだ!」

「レントぉ……」


 イシュカの主張も少しおかしかったけど、誰もそれに突っ込めなかった。突っ込む前にレントがばっさりと一刀両断したから。

 レントはそんなイシュカにお構いなし。

 びしっと水路に立つ青年を指さす。


「で、お前だ! 畑仕事をしたことがあるかって聞いてんだ!」


 青年は鬱陶しそうに鼻を鳴らす。興味がなさそうにレントを見下した。


「ふん、なにかと言えば。そんなこと、なぜしないといけない」

「しろよ! 食いもんがないなら畑を作るんだよ! 水が枯れたら井戸を掘るんだ! 川が濁ったなら原因を探すんだ! 人間はそうして生きてるんだ! お前らはその努力をしたのか!?」


 レントの言葉の何かが癪に障ったらしい。

 青年が忌々しそうにレントを睨みつける。


「黙れ。そんなことをして何になる。幻種の国ティル・ナヌグは生きづらい。だから私はここに来た。それはそこの愚かな兄弟も同じだ」


 青年が視線をずらした先にいるのはイシュカだった。イシュカは両手を上げる。その首筋には相変わらずアーヴィンの剣が添えられている。

 レントは青年だけじゃない、アーヴィンや周りの軍士、術士に聞こえるように声を張り上げた。


「でもイシュカは知ったぞ。畑も作れるし、お金を稼ぐのだってできる。それはイシュカが学んだからだ。お前はその努力をしたのかよ!」


 レントはまっすぐに青年を見る。不愉快そうに眉を跳ね上げている青年から目を逸らさない。

 青年の金色の瞳に再びレントが映った。


「愚問め。お前もそこの愚かな兄弟と同じで頭が悪いらしい。人は我ら幻獣を恐れる。ならば奪うまで。我らは奪うことでこの世を支配し、やがてここを第二の幻種の国ティル・ナヌグとするだろう」


 青年の言葉に、軍士や術士たちの目の色が変わる。

 アーヴィンが青年を睨みつけた。


「それが幻獣の本当の狙いか!」

「させねーよ!」


 アーヴィンの殺気が青年に向く。

 だけどそれすらもレントが遮って。


「奪うってことは終わりがあるんだ。命を奪ったらそれでおしまい。次には続かない。だからお前がするべきことは、こうじゃねーんだ……!」


 レントが駆けだす。

 呪力が渦巻いて水路の水が大きくうねった。

 レントは石畳を思いっきり蹴って、水路へと飛びだす。


「家に帰れ、ケルピー! そんで畑を耕してみろ!」


 レントと青年が、大きく噴き上げた水に攫われた。

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