第18話 もう一匹の水棲馬〈上〉
息を切らせながらレントは走る。
宿の前を通っている水路にひとだかりができていた。
「おい、あぶねえぞ! すごい勢いで水が増してる!」
「常天軍はなにしてんだ!」
「川に今、大きな影が! きっと幻獣だわ!」
「水門のほうが氾濫したらしい!」
「女が水路に引きずりこまれた!」
「幻獣だ! 常天に幻獣が入りこんだ!」
増水に、氾濫に、幻獣。
耳に飛び込んでくる人々の断片的な言葉に、レントは唇を噛んだ。
「何やってんだよ、イシュカ……!」
騒ぎの大きいほうへ。
水路に沿ってレントは走る。
一度足を止めて呼吸を整えた。ぜえぜえと喉の奥が穴の開いたように空気をするする吸い込んで吐き出していく。少し錆のような味がした。心臓の音がびっくりするほど大きくて、耳元でバクバクと脈打つよう。こんなに走ったのはいつぶりだろう。
でも足を止めて立ち止まったおかげで視界が広がった。常天軍の姿を見つけた。野次馬を退避させようと軍士が誘導している。その合間を縫って走ると、何人もの術士が水路に向けて術を叩きこむ瞬間だった。
水柱が噴きあがる。
一匹の水棲馬ケルピーの姿が宙に打ち上げられる。
「イシュカ!」
レントは軍士の横をすり抜けた。
そのまま水路に飛び込もうとしたところで。
「少年!」
「うわ!?」
腕を掴まれてつんのめる。
転ぶ、と思ったのにそのまま後ろに腕を引かれて、腹に腕をまわされた。足が宙に浮く。
レントを抱えたのは太い腕だった。その腕には軍士らしい篭手がしかと巻いてある。
レントはぎょっとして顔を上げた。
「あ。アーヴィン……!?」
「少年、生きていたか……!」
短い黒髪に紅い瞳。少しやつれたような顔。三年前に会っただけなのに、色鮮やかに思い出せるレントの命の恩人。
龍江にいるはずの軍士アーヴィンがここにいた。
レントはぽかんとしてアーヴィンの顔を見上げる。
「なんでアーヴィンがここにいるんだよっ。ていうか老けた?」
「その言い方は間違いなく君だな。そういう君こそ今までどこにいたんだ。パズー殿から村を出たと聞いて心配していたんだ」
アーヴィンはレントを地面に下ろしてくれた。
レントは懐かしい名前にどきどきして、目が輝く。
「パズー! うわ、懐かしい。パズーは元気なのか?」
「それは自分で確かめに行くといい。それより君のことだ。今まで何をしていたんだ」
興奮するレントをなだめるようにアーヴィンは頭をぽんぽんと撫でてくる。
レントはされるままになっていたけれど、今まで何をしていたのかと聞かれてかちんと固まった。
「まさか、イシュカ殿とずっと共にいたのか」
アーヴィンとイシュカは一番合わせちゃいけな筆頭だ。
レントはそろっと視線を明後日の方向に向ける。刺さる視線の居心地の悪さといったら。
とはいえ、嘘もつけなくて。
「そうだけど……」
レントが気まずそうに肯定すると、アーヴィンは膝を折ってレントと目を合わせた。
「少年、よく聞け。イシュカ殿は……っ、危ない!」
「うあっ!?」
アーヴィンが何かを言いかけようとして、はっとレントの後ろに視線を向ける。とっさにレントの身体を抱きかかえて、地面を転がった。
鋭利な水の槍が石畳をえぐった。レントはそれにぎょっとする。
「今のなんだ!?」
「水棲馬の攻撃だ! 少年、信じられないと思うが、あれがイシュカ殿の本当の姿なんだ……!」
水の上に凛然と立つ一頭の馬がいる。
蒼銀の鬣に濡れた身体。下半身は魚の尾からなる幻獣。
よく知る姿にレントが戸惑っていると、アーヴィンが立ち上がる。その背の大剣を抜く。
レントの顔色が変わった。
「アーヴィン、なにするつもりなんだよっ」
アーヴィンの紅い瞳が蒼銀の幻獣を映す。
「あれは人に仇成す化け物だ。それを屠るのは我ら軍士の務め。彼はもうすでに何人もの人間を川底に沈めてきた、悪の獣だ!」
「違う! そんなの誤解だ! イシュカはそんなことしない!」
レントはアーヴィンの前に躍り出る。
腕をめいっぱい広げて、水棲馬を背にかばうように立って。
アーヴィンは剣呑な表情でレントを見る。
紅い瞳に宿るのは軍士の使命のみ。
無慈悲な言葉をアーヴィンは口にする。
「誤解ではない。現に水路が今にも氾濫しようとしている。水路が氾濫すれば、この常天はあっという間に沈むだろう。下河と下江の水門を開けたいが、幻獣を逃がすわけにはいかないと常天軍は判断した」
レントは唇を噛む。
先ほどの幻獣の攻撃で術士と軍士が何人も負傷した。無事だった彼らも、突然出てきた少年に戸惑っているのか互いに目くばせし合っている。
アーヴィンはそんな彼らを一瞥すると、油断なく幻獣へと視線を向けて。
「幻獣をここで倒さねば、常天全土に水害が広まっていくだろう。それは何としても防がねばならん。二度と十三年前の悲劇を繰り返してはならない。少年も大切な人をもうなくしたくはないだろう」
「アーヴィン、何を言って……」
「パズー殿から聞いた。少年のご両親は流れの術士で、十三年前の極河の氾濫に巻きこまれて亡くなったと。あれもまた、水棲馬の仕業だった」
レントの目が見開かれる。
そんな話、知らない。
レントの両親が術士だったのは知っているけど、彼らが死んだ理由が水棲馬のせいだなんて、知らない。
レントはアーヴィンを威嚇するように睨みつけた。
「でたらめ言うな! そんなの知らねえしっ! なんでそんなことをアーヴィンが知っているんだよ!」
「私にも妻がいた。術士だった。十三年前、その氾濫の治めるために妻もまた命を落とした」
「だからってっ! それはイシュカじゃない! 悪いのはイシュカじゃない!」
レントは一生懸命、アーヴィンの言葉を否定した。
たとえ十三年前の氾濫が水棲馬のせいだとして、それがイシュカのわけがないと必死に否定する。
だってイシュカはこの広い世界が見たくて
それなのに。
「少年は騙されているんだ。こうして攻撃されているのが何よりも証拠だろう。現実を見たまえ!」
アーヴィンはイシュカを否定する。
胸が破裂しそうだった。
レントとイシュカは同じだ。
ずっとひとりぼっち。そこにいるだけで、厄介者なのかもしれない。
でも、そんなだから。
――レントだけは絶対にイシュカを否定したくない。
「嘘だ! イシュカは絶対にそんなことしない! 川の氾濫だって、わざとじゃないんだ……!」
「少年!」
レントはそう叫ぶと、水棲馬が静かに立つ水路に駆け寄った。
左腕を差し出す。その手首に巻かれた髪紐がざわりと揺らめいた。
「イシュカ! 声が聞こえるなら戻ってこい! お前の主人は誰だ!」
叫んぶと同時、水棲馬がレントを威嚇した。
水の槍が水路から飛び出し、レントを襲う。
レントはまっすぐ水棲馬を見つめていて。
今にも水の槍がレントを貫こうとした、その瞬間。
「――もう、レントったら。宿で寝てろって言ったのにさ!」
間欠泉のように水路の下流からすごい勢いで何かが飛び出してきた。
飛び出して来たそれは、レントを貫こうとした水の槍を巻き込んで水路に飛沫を上げて着水する。
レントはその姿を見て青い目を見開いた。
「イシュカ!?」
「うわ、なんてとこにいるのさ。怖い人だらけじゃん!」
水草が絡んだような蒼銀の三つ編みが風に揺れる。
金色の瞳がレントを見つけると、その周囲にいる人たちにも気がついてうぇえって悲鳴を上げる。
レントと水棲馬の間に割り込むように水の上に立つイシュカ。
その姿を見て驚いたのはレントだけじゃなくて。
「イシュカ殿……!?」
「えええええ! 一番怖い人もいるじゃん! ちょっとレント、どういうことなのさ!」
イシュカが騒ぐけど、レントもちょっと理解が追いついていない。水棲馬に背を向けて迫ろうとしてくる青年に、レントは両腕を突っ張った。
「待った、待ったイシュカ! どういうことだ!? イシュカが二人……!?」
青年姿のイシュカはここにいるのに、水路にはもう一匹水棲馬がいる。
混乱するレントを前に、イシュカは大きくため息をついた。
「あ~……大事になる前にどうにかしたかったのに~」
レントは目を白黒させている。周囲の軍士や術士たちも突然現れた青年に戸惑っていて。
レントが青年と水棲馬を見比べる。
「イシュカ、あれは何。イシュカの仲間なのか……?」
「そう。レントもよく知ってるでしょ。それの持ち主」
「それ?」
イシュカはレントの左手を差す。左手にあるのはイシュカの髪紐だ。
レントが髪紐とイシュカを交互に見ていると、イシュカはちょっと違うと首を振る。
「僕のじゃない、もう一個の髪紐。言ったでしょ、同胞がいるかもって」
「それじゃ、あいつは」
レントとイシュカの視線が、水上に立つ水棲馬に向く。
その姿が揺らいで。
「久しぶり、兄さん」
「イシュカの兄弟……!?」
水棲馬の輪郭が歪むと、イシュカとそっくりな顔をした青年が水路に立っていた。
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