第16話 水路の仕事
果物屋の女主人、買い物客の女性、そこに宿の女将も加われば、レントに抵抗の余地はなかった。
ただでさえ目が回って動くのもしんどいのだから、暴れる体力なんて残るわけもない。
のうてんきそうにぱやぱやとした表情でイシュカが帰ってきたのは、レントが寝台に押しこまれて一睡した後だった。
イシュカはひと通りの事情を聴いて腕を組んでうなずく。
「で、女将に見張られてまた引きこもっていたと」
「引きこもりたくて引きこもったんじゃないやい」
レントの唇が尖る。自分の意思じゃないし、完全な不可抗力だった。
そんなレントの額をイシュカは小突いて。
「強がっちゃって。レントは僕の大切なご主人様なんだから、ちゃんと元気にならなきゃ」
「そういうならおれを置いていくなよ」
イシュカが寝台に横になっているレントを少し奥に追いやりながら笑う。
「なーに、寂しいの~?」
「イシュカうるさい」
イシュカがレントの枕元に腰かけた。レントはむすっとした表情で見上げる。
「つうか倒れたとき、イシュカに呪力が吸われた気がしたんだけど」
「ありゃ」
「何に力使ったんだ」
そもそもレントがこうなったのは、急に呪力が抜けていったからだ。最近同じ感覚を体感したばかりだったから間違いないと思う。
レントがジト目でイシュカを見ていると、イシュカは天井を見上げながらうなった。
「え~? あ、あれかな」
「あれって」
やっぱり心当たりがあるらしい。
レントが先を促すと、イシュカは苦笑しながら金色の頭をさらりと梳いてくる。
「僕、レントと契約してるじゃない? で、仕事に行くのに離れすぎるとだめなわけで。水路の仕事してるときはレントとの繋がりがぎりぎり切れない位置で仕事してるんだけど。レント、今日お出かけしちゃったでしょ。それで契約の範囲の外に出ちゃったんじゃない?」
その可能性はある。
日中、イシュカがどこで仕事をしているのかは分からないけれど、常天も広いので契約の範囲外に行ってしまうこともあるかもしれない。
でもそれだけが理由だとは思えない。
「それがどうして呪力が減ることになるんだ」
「僕の変化が解けたから?」
「は?」
もう少し詳しく聞こうとしたら予想外の言葉が飛んできた。
「言ったでしょ? レントの呪力がこの世界で僕を生かしてくれる。一瞬、息が詰まっちゃった感じって言えばいいかな。それで反射的に変化が解けちゃて。すぐに範囲内に戻ったからよかったけどさ~。その反動と、距離があったからいつもより多く呪力を吸っちゃったのかも」
そういえばと、宿に戻ってくる前に何をしようとしていたのかを思い出す。
「イシュカ……」
「んー?」
「そういうことは早く言えー! そんなぎりぎり見て仕事すんなよっ」
レントはがばっと起き上がって視線の近くなったイシュカに怒る。でもすぐにまたくらりと目をまわして寝台に逆戻りしてしまった。
「あはは~。ごめんごめん、楽しくてつい~」
「ばかイシュカ! それじゃおれ、イシュカが仕事に言ってる間どこも行けないじゃないか!」
「ほんとだ! そういうことになるね?」
イシュカがレントに毛布を被せながら、今気がついたようにハッとした表情になる。もっとしっかりとしてほしい。
いや待て、それ以前に。
「イシュカ、その時にもしかして姿を見られた?」
「え~? 水路の中だったから見られたとは思わないけど」
「町で噂になってた。幻獣が人に化けてるって」
「あれね~」
イシュカもその噂は知っているらしい。
毛布を被せたレントのお腹をぽんぽんとすると寝台から立ち上がる。
「数日前から流れてるよ。でも僕はこの通りなので。たぶん別人というか、別幻獣じゃないかな~」
「のうてんきだな……。油断するなよ」
「分かってるって!」
元気に返事だけしたイシュカは財布を持って出かけようとする。レントがまた病人状態になっているので、夕食を買ってくるつもりらしい。
飄々としたイシュカに、レントは不安しかなかった。
翌日、結局不安がぬぐえなかったレントは、イシュカの仕事についてきた。
まだだるいのは残っているけど、昨晩ぐっすり眠ったのでだいぶまし。寝ているよりは気晴らしになるし、イシュカの仕事ぶりを眺めるだけだから、そんなに身体に負担もないはずだ。
今日の目的の水路につくと、イシュカはおもむろに服を脱いで上裸になる。脱いだ服は荷物と一緒に水路の端に座ったレントの膝に乗せた。
「レントはここで待っててー」
「分かった」
イシュカが水路に潜る。水路は相変わらず澄んでいて、光の入り具合では水路の底も見えてしまいそうだ。
と、思っていたら。
イシュカの姿が揺らいで次の瞬間には魚の尾がついた馬がすごい勢いで泳いでいくのが見えた。
「うわ、イシュカ……本性で泳いでるし……バレるんじゃないぞ、もう」
水路は建物の下にも走っていて、奥のほうまで行けば見られることはない。だけど道に沿っている水路に出てくると見られやしないか、見ているこっちが冷や冷やしてしまう。レントの表情がちょっと引き攣った。
ここは数日前に事故が起きた水門の近くだ。そのせいか立ち入りも制限されていて、作業者もイシュカだけ。通りを一つ向こうに行けば街らしい喧騒が帰ってくるけれど、ここは建物の裏ばかりが連なっているせいか静かだった。
しばらく水路をちょろちょろ泳ぐイシュカを見ていると、やがて水の中で人に変化したイシュカがひょっこりと水面から顔を出した。水にイシュカの蒼銀の髪が揺蕩う。
「水路図頂戴~」
「お前なあ……見られたらどうするんだよ」
言われるまま水路図と木炭を渡す。イシュカは上半身を乗り出して、修理が必要そうな場所の有無を記していく。
「大丈夫、大丈夫。そのために人気のないところをもらってやってるんだから」
「横着するなよな」
「そのおかげで仕事が早いって褒められるんだよ? お金もいっぱいだし。稼ぐのって楽しいね~」
「三年前までおれと同じでお金なんてしらなかったくせに」
お金稼ぎが楽しくなってる幻獣を前に、レントの緊張の糸がゆるんでしまった。気を張り過ぎていたのかもしれない。大きくて長いため息が出てしまう。
当のイシュカは木炭をくるりとまわしてからレントに返す。レントは紙に木炭を包んでから荷物に水路図と一緒に突っこんだ。
「知るのは楽しいじゃないか。これも世界が広がるってことだよ、レント」
イシュカが分かったようなことを言うけれど、なんだか釈然としない気持ちになる。
「減らず口。で、次はどこ?」
「うーんと、あっちのほう。道具持って行ってくれる? 僕このまま泳いでいくから~」
「横着するなって」
ぼやきながらもレントは荷物を持って移動する。イシュカはまた水路に沈むと宣言通りに本性になってすいすい泳いでいく。
そんな調子でイシュカはその日の仕事を順調にこなした。
昼が過ぎた頃には今日の分の仕事が終わってしまって、依頼者に報告して日当をもらうと二人は早々に帰路についた。
せっかく早い時間に仕事も終わったし、レントもいることだからと屋台を冷やかしながら歩く。
「あ」
その道中、ふとイシュカが空を見上げた。金色の瞳が虚空をさまよう。
「どうした、イシュカ」
レントが足を止めると、イシュカも立ち止まった。
イシュカはレントに視線を運ぶと、少し困ったように笑う。
「結界が揺れたね」
「結界?」
「うん。まあ、気にしなくていいと思うけど」
そうは言われても、言われたら気になってしまう。
結界とは常天を覆っている幻獣除けの結界のことだろうか。それだけを聞いても何が起きたのかは分からない。興味がなくなったのか、イシュカもそれ以上話そうとはしない。しかたなくレントは気になる気持ちを端によけておくことにした。
通りを進むと宿が見えてきた。通りが普段に比べてざわついているような気がする。
果物屋を通り過ぎたとき、女主人がレントに気がついて声をかけてきた。
「おや坊や。元気になったのかい」
「おばちゃん。昨日はありがと」
「まったく、具合が悪い時は無理するんじゃないよ」
たまたま居合わせただけなのに心配してくれる気のいい女主人に、レントはくすぐったい気持ちを思い出した。ちょっと照れながらお礼を言えば、仕方がない子だねと女主人は笑う。
イシュカが不思議そうにレントと果物屋の女主人を見比べる。
「レント、この人は?」
「昨日、倒れたのを助けてくれたんだ」
ああ、とイシュカが納得したようにうなずいた。
果物屋の女主人はそんなイシュカの顔をしげしげと見ていて。
「男前なお兄さんじゃないか。最近、よく見かけるね。この子の保護者なのかい?」
「むしろ僕の保護者がレントっていうか~、ごしゅ」
「イシュカ、これ買って。今日もいっぱい稼いだだろ」
「おおっ、おいしそうな果物! いいよ、買ってあげる~」
「ははは、おねだり上手な坊やだね」
レントはイシュカが余計なことを言う前に意識を逸らした。悔しいけれど、どう考えたってイシュカとレントじゃ、イシュカが保護者だ。間違ってもご主人様とかは言わせたくはない。そうなんだけど、他の人に知られのは居心地が悪い。それくらいなら甘んじてイシュカが保護者でいい。
果物屋の前でたむろしていると、イシュカとレントの後ろを通り過ぎて行く人たちの会話がレントの耳に届く。
「水路に子どもが落ちたらしいぞ」
「上江の水門近くのところだと」
「怪しいやつが近くにいたって」
「水に引きこまれたって言ってるやつもいるぞ」
「幻獣の仕業だって」
「いや人の仕業だって」
レントは後ろを振り向いた。イシュカも同じように通り過ぎていく人たちを眺める。
「イシュカ、今の」
「だめだよレント」
イシュカを見上げれば、珍しく難しそうな顔をしてレントを見下ろしている。だめだって言われても、レントの胸がざわついた。
「今の人たちが言っていた水門って、イシュカが修理したところじゃないか?」
「そうだけど、大丈夫だよ。子供もすぐに助かるって」
「でも幻獣が……それに結界が」
胸がざわつくのは不安だからだ。
そんなレントの心境を察したらしい果物屋の女主人が、安心しなと笑い飛ばす。
「不安にならなくてもいいよ、坊や。常天軍がすぐに解決してくれるさ」
「だけど、なんか嫌な予感がするんだ」
野次馬に行こうとしている人たちのほうを見て、レントはつぶやく。
イシュカは仕方ないなあと、そのきれいな蒼銀の髪をぐしゃりとかき混ぜるようにかいて。
「あーもー……うちのレント君は心配性なんだから。それなら僕が見てくるよ。レントはお留守番」
それだけは譲らないぞ、とイシュカの金色の瞳がレントを見つめた。
レントはでも、と食い下がる。
「あそこまで遠いぞ」
「レント、髪紐は持ってる?」
「これ?」
左腕を差し出す。その手首には二本の水草のような紐が巻かれている。
三年前、龍江の岸で見つけた水草と、イシュカの髪で作られた髪紐だ。
「それ。ちょっと貸して」
イシュカはレントの右手を優しくとると、その手首に巻かれた髪紐を指でなぞった。一周ぐるりとなぞると「はい終わり」と手を離す。
特に変わった感じのない髪紐を眺めてレントは首を傾げた。
「何したんだ」
「覚えてる? 会ってすぐの頃、あの怖い人のところに僕がついて行くってなった時の。この髪紐を通じて契約の維持をするんだ。このくらいの距離ならこれで十分。レントが僕の名前を呼んだらちゃんと聞こえるよ」
にこにこと笑うイシュカに、レントはますます不思議に思う。
「なあ、いつも思うけど、契約の距離の基準ってなに?」
「僕がレントの声を聴ける距離さ」
イシュカがレントの声を聞ける距離。
レントはここから宿までの距離にイシュカがいたら、呼びかけられても気がつかないと思う。イシュカは耳がいいのだろうか。
レントが少し違うほうに考えているのを察したようで、イシュカはちょっと困ったような顔になる。
「聞こえるようにしたんだよ。レントがもうちょっと呪力が高くなれば、僕の心も読めるようになるかな~」
「そうなのか」
「そうだよ~。ということで行ってくる。宿で大人しくしてるんだよ」
「わかった」
呪力のことはそういうものだと覚えたほうが早い。レントがうなずくと、イシュカはよしよしと雑にレントの頭を撫でて行く。
雑踏に紛れて行くイシュカの背中を見送っていると、果物屋の女主人がレントに少し傷がついている果物を渡してくれた。
「さ、坊やもお帰り。危ないから水路には寄らないようにね」
「え、あ、これ」
「留守番の駄賃だよ。傷がついちまって売れないからね、それは。内緒だ」
屈託なく笑う女主人にレントはまたくすぐったい気持ちになる。
ありがとうとお礼を言って宿へと帰った。
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