第2話 河神の生贄〈上〉
レントがアーヴィンと出会ってから数日。
龍江軍の軍士は隣村に滞在しているらしい。アーヴィンは哨戒のついでだと笑いながら、レントのもとへとやって来るようになった。
「少年、何をしているんだ? いつ来てもずっと畑にいるな」
「おっさん、うっさい。あっち行けよ」
村人が遠巻きにする中、アーヴィンはしつこいくらいレントにかまった。幻獣の一件のあと、洗っても血の赤さがとれなかった服をレントがそのまま着ていたことが、アーヴィンの良心を刺激してしまったらしい。村長からレントの身の上も聞いたようで、何かと目をかけてくれた。
今日も朝一番で林から出てこようとしている獣たちを追い払い、そろそろ河へと洗濯に行き出す女たちが来る頃かなと思っていたら、アーヴィンに見つかってしまった。
「ほら少年。肉だ。肉を食え」
「い、いらねーし!」
「ハハハ、子供は遠慮なんてするもんじゃない!」
アーヴィンはそう言って干し肉をひと握り、レントにほどこす。レントが眉に渋くシワを寄せると、その眉間をぐりぐりとほぐしてくるおまけつき。
「ちょっ! こんにゃろっ」
「子供は食って寝て遊ぶのが仕事だ! さぁ、食べたまえ!」
レントはむすっとしながらも、干し肉を大切そうに大きな服のポケットへしまいこんだ。ひと切れだけつまんで、頬張る。
レントには大きいぶかぶかの服はアーヴィンがくれたものだ。レントの一張羅を血だらけにしたお詫びだという。
今まで村人からもらって着ていた古着なんかよりずっと柔らかくて、きれいで、畑の土で汚してしまうのがもったいないくらい。
その服の小間物入れはアーヴィンからもらったもので膨れていた。今みたいに干し肉だったり、果物だったり。一回だけ、飴ももらった。
アーヴィンがどうして自分にかまうのか、レントは不思議でたまらない。この村の七不思議のひとつとして並べてやりたいくらいだ。
「にく、かたい」
「干しているからなぁ。よく噛みたまえ」
むっすりしたまま、レントは干し肉をかじった。アーヴィンはよく見ているようで、レントの耳がほんのり赤くなっていて照れていることなどお見通しらしい。
呵呵と笑ったアーヴィンは、レントの頭をくしゃりとかき混ぜる。
「そうだ、少年。しばらく極河には近づかないように」
「きょくが? そこの川のこと?」
「ああ。ここ数日、水嵩が増してる。雨が降り出したら特に気をつけるんだぞ」
レントの村のそばにある川はとても大きい。
国を横断するほど長い川で、運河としても活用されている。隣村などは船が泊まり、わずかばかりでも交易ができるから他の村より豊かなのだとか。
その隣村からやって来たアーヴィンは神妙な顔になる。
「八年前だったか。あの時もこんな晴れた日に極河が増水して、いきなり氾濫した。ここらの流域の村々は河神の怒りだと言うがな……あの時の二の舞いにならないといいが」
「おっさん、むずかしいこと考えてるじゃん」
「これでも軍士だからな。軍士とは幻獣退治だけが仕事ではない。民を守るのが仕事なんだ。あと私は断じておっさんではない! 二十七だ!」
両腕を組んで、仁王立ちになって笑うアーヴィンはいつものことだ。
レントはその隣でずっともぐもぐしていた干し肉を飲みこむと、アーヴィンを見上げる。
「なぁ、おっさん」
「む。だからおっさんではないと」
「軍士って、どうなったらなれる?」
レントの灰色の瞳に、銀色の甲冑がきらりと映る。
アーヴィンは目をまたたきながらレントを見下ろしたけれど、すぐにまた小さな子どもの頭をくしゃりとかき混ぜた。
「いっぱい寝て、いっぱい食って、いっぱい体力をつけることだな。軍士の学舎に行けば技術や作法はすぐに身につく。少年、軍士になりたいのか?」
「べつに……案山子より、楽しそうだと思っただけ」
ぷいっとそっぽを向くレントに、アーヴィンは真面目な表情になる。
「少年。村人は君を軽んじるが、君は自分のことを誇っていい」
「はぁ?」
レントがじろりとアーヴィンを見上げれば、彼は鎧をがしゃりと鳴らしながら膝を折り、レントへと視線を合わせてくれる。
「獣がこないよう、畑を守っているのだろう? 守りこそ、立派な軍士の努めだ。君は既に、立派な軍士の心得を持っている」
「軍士の、こころえ……」
「そうだとも! それに少年の力は訓練すればもっと人のため、世のためになるものだ。もし、少年さえよければ……」
アーヴィンの真摯な眼差しに、レントも吸いこまれるようにしてその言葉へと耳を傾けた。
でも、アーヴィンがその先の言葉を続ける前に。
「軍士様、こんなところに! 隣村で行方不明者が出たと、今、使いがやって来てな! 軍士様を探しとるぞ!」
「行方不明者だと! すぐ行く!」
アーヴィンの視線が上がる。
レントがそのアーヴィンの手をぎゅっと掴んだ。
不満そうな、寂しそうな、そんな顔。
素直な子供らしい表情がレントの顔にある。アーヴィンは困ったように頬をかき、その頭をいつものように撫でるだけだ。
「また来よう、少年」
そう言って、アーヴィンは村人とともにレントを置いて行ってしまった。
レントはその背中に向かって、いつものように舌をべぇっと突き出す。ぷいっと林のほうを見た。
アーヴィンの言っていた川は、林を挟んだ向こう側にある。
ちょっとくらい、と魔が差した。
レントは船が流れるくらい大きいという川を見たことがない。レントの世界はこの小さな村の中だけで、林の向こう側には行ったことがない。
レントももう十歳だ。
これくらいの歳の子供たちは、大人にまじって薪を拾ったり、木の実を拾ったり、林を越えて水を汲みに行ったりする。
レントは案山子だから畑にいないといけないけれど、でも。
レントはこっそりと村を抜け出した。
少しくらい、ほんの少しだけだ。
子供扱いするアーヴィンへの反骨心が、レントを突き動かす。
レントがいなくても、昼間は人の気配を嫌がってかほとんど獣は現れない。今なら案山子がちょっとくらいいなくたって平気だ。
ちょうど少し前、川へ水汲みに行く女たちが出発したから、それを追いかければ真っ直ぐに川へ行ける。案の定、ちょっと走ったらすぐにおしゃべりな女たちの声を見つけた。
林の中は畑と違った土の匂いと、草の匂いで満ちている。
レントは女たちの声を追いかけて、林を歩く。
かしましい女たちのおしゃべりは尽きることがなくて、ほんの少しだけ心細かったレントの慰めになった。
女たちの声がだんだんと落ち着いてくる。木々が遮っていた太陽の光が、燦々と降り注ぐ。
彼女たちに知られないように、レントは茂みの中からそっと外を伺った。
「わぁ……っ」
大きな水たまりが、遠くにまで広がっている。畑の水たまりなんて比べものにならないくらい広い水たまり。それが左から右へ、絶えずに流れていっている。
これが極河。船は見えないけれど、この大きな川を見られたからレントは大満足だ。
きょろきょろと辺りを見渡して、女たちの目が届かないところを探す。もう少しだけ川に近づいてみた。
大きな川の水は畑の泥のように濁っていた。遠くから見ればゆったりと流れているようにも見えたけれど、近くまで行くと思ったよりも勢いよく水が流れていることに気がつく。
これ以上近づいて、川に落ちると危ない。
レントは満足するまで川を眺めて、帰ろうと踵を返した。
そのとき、視界の端で何かがきらりと煌めく。
なんだろうとレントはそれを拾った。濡れそぼった水草のような、草の根のような。でも蒼く銀色にきらめく、きれいな何か。
(せっかくここまで来たんだ。このきれいなものを持って帰ろう)
レントは周りを見渡すと、それを冒険の証としてポケットへとしまった。
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