水棲の契約
采火
第1話 案山子のレント
砂利混じりの濁流の中で見えたのは、ほのかに蒼く輝く白銀だった。
(死にたくない)
まだ、死にたくない。
河神の怒りを示すかのような、荒々しい濁水にのまれた少年は、無我夢中で光へと手を伸ばす。
その光から、声が聞こえて。
『君、僕と契約してくれたら、助けてあげるよ』
やさしい、揺りかごのような声。
驚いた少年の指に絡んだのは、たおやかで青々しい水草で。
泥水の中なのに希望の光はきれいに見えた。
今にも汚泥にのまれて死にゆくはずだった少年の心臓が、大きく鼓動を打つ。
少年は絡んだ水草を命綱に、その光を引き寄せた。
(契約だとかなんだとか、知らないけど……生きるためなら、神だろうと鬼だろうと、なんだって――!)
死にたくない。
まだ死にたくない。
河神の怒りを示すかのような荒々しい濁水の中、無我夢中で光へと手を伸ばす。
『
少年は必死で言葉を飲みこんだ。理解して、今にも力尽きそうな身体で、肺に残った空気すべてを吐き出して。
「――
それは馬のように遠くへ駆け、魚のように自由に生きる幻の存在。
ひとりぼっちの少年と河神と呼ばれた存在の契約だ。
◇ ◇ ◇
澄みわたった青空の下、子供の声が天高くこだまする。
「おぉーい! かかしー!」
「案山子のレントー!」
「案山子のレントは畑がにあう!」
けらけら笑いながら、畑のあぜ道を子供が駆けていく。
笑われたレントは、畑の中でおもむろに顔を上げた。
案山子のレントは畑が似合う。
いつもの悪口に、いちいち怒っていられるもんか。
レントはいつかあの子供たちに泥団子を投げつけてやろうと、顔だけ覚えてまた手もとに視線を戻す。
腰までざんばらに伸びたくすんだ金の髪に、どんよりとした灰色の瞳。雨を風呂代わりにし、くず野菜で命をつなぐ身体は棒切れのように痩せぎすで、いつでも薄汚れた灰色の襤褸を着ているレント。
幼い頃に両親を亡くしたレントは、大きな河のほとりにある村で「案山子」として育った。
家はなく、朝から晩までひたすら畑で立つのが、レントの役目。たまに畑仕事を手伝えば、駄賃として蒸した芋をもらえる。
たった十歳の子供だったけれど、蓄えに余裕のない村では、レントのそんな扱いになど誰も気に咎めることなんてなかった。
「レント、言いつけた仕事はできたか」
「パズーのおっさん。できたよ。はい、これでいいだろ」
「ああ。十分だ」
子供たちが去って行ったほうから、無精髭を伸ばした男がやってくる。ずんぐりとした身体は大きい。この貧しい村で何を食べたらそんなに大きくなるんだろうと、レントがこの村で数えている七不思議のひとつだ。
そんなパズーが畑の泥をものともせずに、レントのところまでやって来る。レントの足もとには収穫した芋が転がっていて、パズーはそれを一個手に取ると収穫具合をじっくりと見た。
「おう、良い具合だ。どれも成熟してる。未成熟のはまだ埋めてあるな?」
「とーぜん」
「よし。じゃあ今夜は約束通り、蒸した芋を持ってきてやるよ」
「よっしゃっ!」
握りこぶしを突き上げて喜ぶレントに、パズーが苦笑する。
レントが案山子として畑に立つのは、両親の血を継いだのか、彼が幼いながらに呪力を発現させたからだった。レントの両親は余所者で、この村の誰も呪力のことなんて分からない。ただ、レントが呪力を暴走させると家が倒壊するのを身をもって知っていたから、彼の両親が亡くなったとき、誰も引き取ることをしなかった。
親を亡くした子供はいずれ野垂れ死ぬだろうと、貧しい村の住人は見て見ぬふりをした。なのにどういうわけ、か彼は幸運にも十の歳を重ねてしまった。これもレントが数えるこの村の七不思議。
だからレントには家がない。あえて言うなら、この村の畑がすべて家だと言えるかもしれない。
レントはこの村で持て余されている。子供ながらにレントはそのことを理解していて、自分が忌み嫌われていることも知っていた。それでも生き延びることができたのは、ささやかな村人たちの優しさだったこともちゃんと知っている。
「あ、そうだ。パズーのおっさん、夜、雨が降るぞ」
「なに?」
「雨の匂いが近い。雨漏りの修理をするなら今のうち」
「そうか……めんどくせぇなぁ」
そうは言いながらも、パズーはきっと雨漏りの修理をするのだろう。ちょっと前に雨が降ったとき、修理するのをすっかり忘れていたようで、彼の嫁さんが鬼のように怒っていたそうだから。
「そうだレント。雨が降るなら、今夜はうちに来るか?」
パズーがなんてこともないようにレントを誘った。
レントは灰色の目を真ん丸にしたけれど、すぐに口をとがらせて。
「いかねーし!」
べぇっと舌を出して、パズーの畑から脱兎のごとく飛び出した。
パズーがどこに行くのかとレントの小さな背中を視線で追いかける。
レントはあぜ道の先にある、藁葺きのテントへともぐり込んだ。家と言うには粗末過ぎるウサギ小屋のようなそれが、レントの安息所。
パズーは頬を掻くと、やれやれと息をつく。
「人んちの雨漏りよりも、よっぽどそっちのほうが心配だろうに」
子供が作った、ガラクタのような藁葺きのテント。
風が吹けば文字通り飛んでいくその家は、この村の中でも民家から外れた場所にある荒れた畑の端にあって。ぽつねんと立つその藁の塊は、ひどく寂しげに見えるのだけれど。
パズーがぼんやりとその藁葺きのテントを見ていると、藁がもぞりと動いた。色が小汚くくすんでいるせいで一瞬目を疑ったけれど、それはレントの小さな頭で。
レントが藁の合間から顔を突き出して、パズーを見る。
「雨が降る前に芋、もらいに行くからなっ!」
それだけ言うと、また藁の中へと引っ込んでしまう。
案山子とはいえ、四六時中ずっと立ってろなんて誰も言わない。獣が来たら追い払う役目さえしていれば、レントの仕事は完璧だ。だからこうして藁の中に引っ込んでも。
「分かったよ、レント」
パズーは咎めることなく手を振って、レントが収穫した芋を拾う。
その晩、宣言通りに芋をもらいに行ったレントへ、雨漏り修理を思い出させてくれた礼だと蒸かし芋がおまけでひとつ、ほどこされた。
夜、雨が降った。
恵みの雨で身体の汚れをわずかばかり落としたレントは翌日、泥だらけの畑で服を絞って乾かした。
骨と皮だけしかないような身体を気味悪がる人もいる。子供とはいえ半裸で動き回れば、村の女子に軽蔑の目を向けられることも知っていた。無駄に争いを招きたくないレントは、服が乾くまで藁葺きのテントにひっ込む。
ごくごく稀に着れなくなったり、破れた服をくれる村人もいる。でもそんなことは年に一度、あるかどうかだ。村人たちも擦り切れるまで服を着る。着れなくなれば雑巾にしたりするものだから、レントがそのおこぼれに預かることはほとんどない。
だから今ある服を大切にしなければならない。雨水や畑の水たまりの上澄みをすくって、レントはちまちまと洗濯をしていた。
藁葺きのテントの中でレントがじっとしていると、村人たちが起き出してきたようだ。どこかでニワトリも鳴き出して、朝の目覚めを告げている。朝一番の畑仕事に繰り出す農夫。川へ水汲みに行く女たち。鶏の卵を拾う子供。藁葺きのテントの中、レントはにぎやかな村人たちの朝の支度を眺めた。
いつもと変わりない、長閑な風景。
貧しくとも逞しく生きる村人たち。
レントはそれが羨ましかった。
案山子の自分には過ぎたことだと思いながらも、人間らしい生活を羨ましく思うのだけはやめられなかった。
(卵ってどうやって食べるんだろ。水汲み、あのねーちゃんより、おれのほうが持て
るんじゃないか? 畑仕事だって、立派にできるんだぞっ)
それでもレントは藁葺きのテントから出ていかない。朝のひと仕事が終わり、皆が朝食のために家へと戻っていく頃、ようやく外へ出る。
半乾きの服を着て、ぐるりと畑を一周。
あぜ道を行ったり来たり。
やがて、なんとなくの気分で一つの畑に居着いた。
「決めたっ! ここで今日は案山子になる!」
レントは畑の真ん中で仁王立ちになった。視線は村を囲う林のほうを向く。よくよく注意深く見れば、人のいなくなったタイミングで同じように起き出した獣たちが、茂みの向こうで隙を伺っているのが見えた。
ウサギやリスなら可愛いほうだ。オオカミやイノシシはレントの呪力に充てられて怯んでくれる。だから畑が荒らされないよう、レントは案山子の真似事をする。これが幼いレントの処世術だ。
林のほうを睨んでいれば、そのうちそこにいた獣たちも無駄だと悟って去っていく。朝食の時間も過ぎて村人たちが昼の仕事に入る頃には、レントの静かな戦いはたいてい終わる。
終わる、はずだったのに。
「……? なんだ、おまえ」
林から、見慣れない獣が出てきた。
大人の男よりも大きい。ヘビ、だろうか。
頭と尾はヘビだけれど、その胴はクマのようにずんぐりとしていて、手足が生えている。鱗のかわりに緑の体毛のようなもので覆われていて、レントの肌に鳥肌が立つ。
よく分からない。
分からない、けれど。
「こっち来んな……っ!」
レントが威嚇すれば、ちょっとやそっとで逃げてはくれない獣も逃げてくれる。無意識に呪力を投げつけているんじゃないかと皆言うけれど、レントはいまいちそれが分からない。
これでこいつも逃げていくだろうと、レントは思ったのに。
逃げていくどころか、レントのほうへと向かってきた。
「う、わ……っ」
突然のことに身がすくむ。
逃げなきゃと分かっていても、小さなレントの身体は動いてくれなくて。
固まってしまったレントへ、獣の奥から声が投げられた。
「少年! 目を瞑れ!」
言われるがまま、目を瞑る。
獣の断末魔とともに、生暖かくて錆臭いものが顔へとかかった。
「すまない! 少年、大丈夫だったろうか」
「う、ぇ……?」
「あぁ、すまない。血で汚してしまった。毛には触れていないな? こいつの毛には毒がある。うちの軍士がそれに何人もやられた」
「い、いいだろ、そんなの! そんなことよりお前誰だよ!?」
軍士の腕であたふたしていると、彼はレントを抱っこしたまま、斬り伏せた獣を見下ろした。
「私は東伯候が龍江軍のアーヴィンという。この幻獣を追ってきたのだよ」
「幻獣?」
「少年、幻獣を知らないのか」
レントはこくりと頷いた。幻獣と言われても、レントはよく分からない。
アーヴィンという軍士は驚いたようにその紅い色の目を見開いた。
「少年はよっぽど大切に育てられたのだな」
「たいせつ……?」
「そうとも。この国、いやこの大陸には幻獣と呼ばれる生き物が無限に湧いてくる。それを倒すのが我ら軍士の役目だ。少年が生まれてこのかた幻獣を知らないというのは、この村が平和な証か、村の者が君を大切に守ってくれてきたからだろう」
アーヴィンの無責任な言葉は、レントの神経を逆撫でするようなものだった。レントはむっつりとしてアーヴィンを睨みあげるけれど、当の本人はそんなことに気づかず、緑色の毛むくじゃらを見ている。
でもそんなレントでも、彼がレントの命を救ってくれたというのは分かっているから、今の話は聞かなかったことにしてあげた。
「おっさんは、こいつを倒しにきたのか」
「おっさ……!? 待て待て待て! 私はまだ二十七だ! 断じておっさんではないぞっ!」
ふぅんと白けたように生返事をするレントに、アーヴィンと名乗った軍士はやるせないような表情になる。でもそれも一瞬のことで、アーヴィンはすぐに表情をキリッとさせた。
「幻獣は倒した。隣村での依頼だったが、ここまで来てしまったな。処分について村長と話したい。仲間も散開しているから、連絡を取らねば……あと少年、お前は風呂だな」
「いいよ、べつに」
「そうはいかん。そんな血まみれで親御さんの元へは返せん」
レントの耳がぴくりと動く。
小汚い黄色の頭が思いっきり、後ろにそれた。
「む。しょうね――ングフォア!?」
ガィンッ! とものすごい音を立てて、レントがアーヴィンの顎めがけて頭突きをした。不意をつかれたアーヴィンは驚いて呻くけれど、さすが軍士なのか、レントを抱き上げる手が緩むことはなかった。むしろ鉄兜に向けて頭突したレントの被害のほうが大きいくらい。
レントは痛みにちょっと涙目になりながらも、アーヴィンをキッと睨みつけて。
「ばぁーか! こんな怪物くらい、おれも追い払えたんだからな!」
べぇっと舌を出して、アーヴィンの鉄鎧の胸を蹴るようにその腕から脱出した。血だらけで赤くなった少年が走っていく。畑の端にある藁葺きの塊の中に吸い込まれるように消えていったので、アーヴィンはぽかんとその場に立ち尽くした。
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