〈6〉

 二日と外にいられないまま、病院に戻ることになった。

 多分、一時的な回復を見せる前よりも、今の方が見えづらいんじゃないかと思う。けれど、二度目のせいか、さして不安は大きくなかった。

 先生が三枚の写真を見比べて唸る。僕に視力異常が見られた日、一時的に回復した日、そして今日の、脳の写真だ。


「変わりませんねぇ」


 先生は呟いて、外していた丸眼鏡をかけた。「天野さん」と、僕と母さんに向き直る。


「おそらく、なんですがね。天野さんの脳は、ずっと異常をきたしたままです」

「最初からですか?」


 僕の問いに、先生は頷く。自分に言い聞かせるかのように、何度も。すぅ、と口の端で息を吸いながら、難しい顔をしていた。


「天野さんの目が一時的に見えるようになったのは、異常の異常、ということでしょう」

「異常の異常……」

「はい。今の天野さんの脳は、視覚に対する回線が接触不良の状態なんですが。本来は繋がり直すことのない回線が、何故か繋がっていた。ということになります」


 珍しいケースですよ、と苦笑された。僕の目は、治ったわけではなかったんだ。裏の裏が表であるように、たまたま、異常に異常が重なった時、正常に見えてしまっただけ。


「息子が視力を失うまでの時間、目星はつきますか?」


 おずおずと母さんが身を乗り出すと、先生はすぐに首を振った。正直に。


「長ければ……いえ、早ければ、明日にも。むしろ、今現在で見えている方が奇跡なんですよ」







 診察室を出た僕は、一日だけの入院が決まった。前と同じ部屋にだ。

 ここまで来てしまえば、入院したところで意味はないのだけれど。外で倒れたということもあって、経過観察を薦められたんだ。

 準備があるということで、僕は母さんと自販機のあるスペースで時間を潰していた。


「どうするの、冬彦」

「何を?」

「プレゼントのこと」


 パック青汁のストローを咥えたまま、母さんは眉を上げて訊ねてくる。僕は、緑茶のペットボトルのキャップを切れないまま、手で弄んでいた。


「デザインは決まってるから。頼むだけ、頼んでみたいと思ってる」


 答えると、母さんは「そ」と短く行ってから、ストローを吸い上げた。


「大きさは? あかりちゃんどころか、あんた自身、店に行くのが危ういでしょう」

「それなら、考えがあるんだ」


 まだ入院着に着替えてなくて良かった。僕はコートのポケットから、例のものを取り出す。

 それを母さんに見せると、「はっはぁ、なるほどね」とにやつかれた。なんか癪に障るけど、とりあえずの意思疎通はできたみたいだ。

 母さんは僕の手から「それ」を取り上げると、持っていたバッグに詰め込んで立ち上がった。


「ならこっちは任せて。あんたは、あと二日、ゆっくり体調管理してなさいな」

「えっ、ちょっと母さん?」


 僕の制止も聞かず、母さんは颯爽とロビーを出て行ってしまった。

 いやさ、残るのは全然構わないんだけど。このロビーは一階で、僕の病室は五階なんだ。

 あかりに付き添ってもらおうか、と思ったところで、


「そういえば。連絡してないんだっけ」


 天井を見上げてため息を一つ。

 用事があると言って帰ったあかりを心配させないようにと、紫さんに連絡をしようとしていた母さんから電話をひったくったのは、他でもない僕なんだ。

 仕方ない。いずれは、自分でやらなくちゃいけないこと。

 僕は立ち上がると、自販機の明かりを頼りに壁に寄り添い、手を突きながら、ゆっくりと足を踏み出した。







 連絡をしていないと言えば、この人への挨拶をしていなかったな、と気づいた。

 五〇八号室。修一さんの部屋だ。

 僕の部屋に戻る途中で覗いた時には不在のようだったから、看護師さんに、彼と夕食をご一緒したいという旨をお願いした。

 そしてやってきた時間。五〇八号室のドアを開けると、音に気付いた修一さんが手を挙げて招いてくれた。


「戻ってきましたな。冬彦さん」

「すみません、退院の時には挨拶もせず」

「いやいや、気にしなさんな」


 かかっ、という修一さんの笑い方が懐かしかった。僕が会釈をしてベッド脇に座ると、修一さんは手を合わせて箸を探り出した。

 倣って、僕も箸を取り、おかずを口に運ぶ。きんぴらごぼうの薄味がじわりと浸みた。胡麻の香りが強い。


「美味しいですね」


 修一さんが、サングラスの向こうで目を細くした。


「声が、すっきりしましたな」

「おかげさまで。目はさらにぼやけてますけどね」


 僕の自虐には答えるともなく、修一さんは満足そうに頷くと「すっきりしとる」と笑った。


「お前さんは、視力と共に色を失うんでしたか」

「はい」


 ふと、修一さんは箸をおいて、宙を見上げるように顔を上げた。


「糸は、どんな色をしていますかなぁ」


 僕が一度切ろうとしていた、人が死に際に散らす糸。その細い細い絆に、僕も想いを馳せる。

 見えざる糸。その色が分かるはずはなかったけれど、


「僕は、赤がいいなって、思います」


 自分でもびっくりするほど、すっと言葉が吐いて出た。


「赤、ですか」


 修一さんは、顔を綻ばせた。

 僕が認識できなくなったのは、赤だ。だからかもしれない。

 全部の色が見えなくなって、それでも糸があると分かった時。その色は、赤であってほしい。

 それは、あかりにとても良く似合う色だから。あかりとの思い出の色だから。


「赤い糸とは、素敵なものですな」


 その言葉に、僕の小さな願いが認められたような気がして。ふと気が付けば、温かいものが一筋、頬を伝うのを感じた。

 それを知ってか知らずか。いや、知らないふりをしてくれていたのかもしれない。修一さんは再び箸を取ると、静かに味噌汁を啜った。


 目が見えないことは人と物を切り離す。耳が聞こえないことは人と人を切り離す。そんな言葉があるけれど。

 今の僕は、そう思わない。切ろうと思った人が、全てを切り離してしまうんだ。

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