第七章 聖夜のアンティフォナ

〈1〉

 僕が再び視力を失いつつあることは、一日入院から帰ってすぐに、あかりにも白状した。目の許す限り、寝落ちするまで連絡を取り合って、ふと目を覚ました時にはクリスマス・イブの朝だった。


 火曜日ではあるのだけれど、僕もあかりも、学校のスケジュール上は冬休みに入っている。僕は終業式に参加できていないけれど、諸々の事情は担任に伝えてあった。復学ができるかどうかは定かではない。今後の人生はすべて手探りになりそうだ。


 そんなわけで、まずは目の前のことからと、朝から僕の家に集まって指点字の勉強をしているのだけど。

 一つ、指点字について分かったことがある。


 これ、めちゃくちゃ恥ずかしいんだ。


『きょうは、クリスマスだね』


 僕がテーブルに置いた両手に、外側から重ねるようにしたあかりの指の腹が、僕の爪の辺りをタイピングしていく。パソコンで打つような感覚で、思ったよりも早く会話ができる。

 ガイドブックには、特定の指を組み合わせた「略字」というものが掲載されていて、それを用いれば、例えば五文字必要な「ありがとう」が二文字の表現でできるらしいけれど。使わない方が僕は好きだった。


『うん、そうだね』


 言葉を返すことも難しくはなかった。

 そして、何が恥ずかしいのかというと。会話をする時の立ち位置が原因だ。

 今は、僕が座って、あかりが僕の後ろから腕を回す体勢になっている。あかりが体を寄せれば温もりが伝わってくるし、背中に柔らかいものが当たるし。あかりが笑えば吐息が耳にかかる。生殺しだった。

 堪らなくなって一度立ち位置を交代したんだけど、今度は目の前に現れたあかりの滑らかな頬に戸惑った。どうせ指での会話だから、目を逸らそうと試みたけれど、例によって女の子の甘い匂いが、意識だけは外させてくれなかった。お手上げだ。


『どうして、メリークリスマスっていうの?』

『たのしいクリスマスを、っていみだったはずだよ』

『ハッピークリスマスじゃだめなの?』

『そういうひともいるみたいだけどね』


 そんなとりとめもない雑談に花を咲かせたところで、一旦、小休止を挟むことになった。

 指点字って、覚えるのが楽な分、ものすごく神経を使う。まるで初めて眼鏡をかけた時のような、不思議な疲労感だった。


『お疲れ様』


 対面に座り直したあかりが、手話に切り替えて労ってくれた。あかりも、慣れたお手話べりの方が楽そうだ。

 一息ついている僕たちの前に、母さんがコーヒーを淹れて持ってきてくれる。テーブルの上にカップを三つ並べると、自分のカップにちょっと口をつけてテーブルから離れ、さっそく咥えタバコを始めた。


『どう、進歩してる?』


 わざわざ僕に向かって訊かれ、一瞬答えに詰まる。

 母さんは、僕と話すなら声で、あかりと話すなら手話でと切り替えられるために、僕たちの練習会には参加していなかった。指点字は、基本的に一対一での会話となるからだ。

 とはいえ、進捗はどんなものか、横から見ていたはずなんだけど。


『母さんの見ての通りだと思うよ』

「終始ウブだったわね」


 母さんは、敢えて手話を使わずに、にやっと口元を吊り上げた。要は、僕に対しての冷やかしだったんだ。


『ちなみに二人とも、立ち位置間違ってるからね』

『でも、あかりが見たページには、あの体勢って描いてあったんだよね?』

『うん、そのはずだよ』


 首を傾げながらも、あかりはガイドブックを引っ張り出し、基礎のページを開いた……ところで、あっ、と小さく声を上げた。


『ごめん』


 あかりは舌を出して片手で謝りながら、もう片方の手でガイドブックを差し出してくる。開かれたページに顔を近づけて、僕はとてつもない虚脱感に苛まれた。

 聞き手の手を包むように、話し手が指を叩くという、手の位置自体は何も間違っていない。いないんだけれど、別にどちらかが後ろから腕を回すわけじゃなくて、隣合わせて座り、その中央で手を重ねる。それが正しい立ち位置のようだった。

 ……あの恥ずかしい体勢じゃなくていいのか。いや、隣同士でも十分緊張するんだけど。


『母さん、分かってたなら早く言ってよ……。ねぇ?』

『うん、私も、すごく緊張してた』

『ごめんごめん。面白いから、つい』


 悪びれた様子もなくけらけらと笑う母さんに、ため息で抗議する。無駄に火照ってしまった頬を落ち着けるために、コーヒーカップに手を伸ばしたところで。

 一瞬、カップが――いや、視界が全てざらついたモノクロの霧に包まれた。


 取っ手を掴み損ねた手は、そのまま押し出す形になったんだろう。かちゃん、と、カップを倒してしまう音がした。


「あっ、ごめん」


 テーブルに落とした手に、じんわりとコーヒーの熱が伝わる。


「冬彦、落ち着いて」


 母さんの声に、頷く。大丈夫。もう慣れているんだ。

 僕の視力は悪化の一途を辿っていた。あかりから貰った糸を探したあの日のように、こうしてブラックアウトする瞬間が何度かあった。じっとしていれば視界は戻るから、さすがに眩暈に対して焦ることはなかった。


 ふと、手を引き寄せられる感覚がしたかと思うと、その手を優しく包まれる。


『だいじょうぶ』


 ついさっき、立ち位置の間違いを指摘されたばかりだというのに。手の主は、後ろから僕を抱き締めるように、覚えたての指点字で語りかけてくれる。


『わたしは、ここにいるから』


 ゆっくりと、ゆっくりと。背中に伝わる温もりに、耳にかかる吐息に、霧がすぅっと晴れていく。あれほど気恥ずかしかったのが嘘のように、今は、とても安心できる温かさだった。

 やがて、テーブルに零れたコーヒーを拭き取っている母さんの手が見えてくる。よかった、カップは割れていないみたいだ。


 振り返る。心配そうに覗き込んでくるあかりと目が合った。


『ありがとう、もう大丈夫』


 手話で答えると、あかりはそのまま僕の隣に座って、母さんの片づけを手伝ってくれた。

 一通り拭き終えると、母さんは新しいタバコに火を点け直した。


「だいぶ間隔が狭くなってきたわね。今日だけで三回目?」


 対面に座った母さんに、僕は首を振る。


「四回目。さっきトイレに行った時もなんだ」


 朝起きて、着替える時。朝食を摂り終えてくつろいでいる時。そして、トイレと、今。日に日に発作のような眩暈が多くなってきていた。

 直感的に、もう時間が残されていないことを悟る。


 だから今日は、肉声でも発してくれている母さんには答えることができても、手話オンリーのあかりに対してはあまり答えられずにいた。言っていることはなんとなく分かるんだけど、それが合っている自信がなかった。

 でも。もう心配させないようにとか、ちゃんと答えられないのが怖いとか、そんな形振りを構っている場合じゃないのかもしれない。


『あかり。お願いがあるんだけど、いい?』


 手話で呼びかけると、あかりはそっと手を握ってくれた。


『なに?』


 指点字で聞き返される。多分、ほとんど見えていないこともばれてしまっているんだろう。


『ささおかに、つれていってほしいんだ』

『だめ』


 即座に手を入れ替えて打ちこまれた答えに、僕は耳を――指を疑った。

 けれど、あかりは僕の言葉を切り捨てたわけではなかったらしい。


『ひこぼしさまからさそって』


 指先に伝わったメッセージを噛みしめる。「彦星様から誘って」。


――じゃあさ、提案。


 そういえば、あかりからお願いをされたことはなかったっけ。仮に、提案の中身がお願いになっていたとしても。いつだって、あかりはあくまで提案をしてきた。

 まるで、星が僕たちを誘うように。


『じゃあさ、提案』


 僕はあかりから手を放して、手話で想いを伝えることにした。

 ぼやけていて、あかりの顔もはっきり見えていないけれど。笑っていることだけは分かる。


『星を見に行こうよ』


 僕の誘いに、あかりは。

 返事の代わりに、そっと抱きしめてくれた。

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