第三章 嵐の前のメヌエット
〈1〉
今日はいい天気だった。もうだいぶ昇った太陽の日差しを反射して、昨日までに積もった雪がきらきらしている。
初めてあかりの私服を見た。普段は制服にコートを羽織っているけれど、今日はベージュ色のふわりとしたニットのセーター。モノトーンのマフラーで、口元まで隠れている中、ぴょこんといつものヘアゴムが揺れている。
思わず、見惚れていた。
『綺麗だね』
あかりに促されてはっと顔を上げると、わずかに木に残った雪が日の光を反射して、ささやかなダイヤモンドダストを形成していた。
こんな街中で自然の芸術を見ることができるなんて。
『クリスマスかぁ』
『それはまだ一週間先』
くすくすと談笑しながら、僕とあかりは駅を発った。
母さんの勤める施設までは徒歩で二十分ほど。駅から商店街や笹丘方面に向かう東口とは反対に、西口側だ。駅の傍を走る大きな国道を横切り、ぽつぽつと立ち並ぶ住宅地の間を縫っていく。
『こっちの方には、あまり来たことがなかった』
『まぁ、何もないところだからね』
栄えているのは駅の東口側だけだ。西口からは、出てすぐのところにコンビニがあるくらいで、まだまだ田舎のそれという風景が広がっている。一応ちょっとずつ、独自の発展はしているようで、先日はこの辺りにガールズ農場というのができたと市報で読んだことがある。
僕はこの景色が好きだった。駅という境界を抜けるだけで、別の世界に迷い込んだような気がしてわくわくするから。
『冬彦の家はどの辺?』
笹丘で星を見て以来、あかりは、僕のことを「星」という手話名で呼ぶようになった。彦星の話が続いていたと思うと、なんか恥ずかしい
『こことは反対側かな』
『東口?』
『ううん、西口側なんだけど、駅から三角を描いた向こうの方』
施設前の道路を進むと家までまっすぐ繋がっていて、母さんはそこを通勤路にしている。僕も普段はたいてい、そこを通って施設に向かっていた。
『おお、意外。元ピアニストなら、笹丘の麓に住んでると思ってた』
笹丘の麓は、今やこの町の一等地だ。大きな商店が近くて、駅の騒音もなく、景色もいい。何の変哲もなかった丘が祭りの会場になってから、一気に人気が高まったらしい。
『ピアニストっていっても、収入はそうでもないよ?』
『そうなの?』
『うん。個人リサイタルできるくらいの人ならいいだろうけど、僕は子供だったし。多分、今あかりが想像している収入から、ゼロを二つ三つ削れば正解』
おおう、とあかりが戸惑ったように小首を傾げている。一般から見れば花型職だから、イメージが湧かないのかもしれない。
『シフォンと会った時、税関で止められたって言ったでしょ?』
『けっこう揉めたんだよね』
『あれもそうなんだ。奏者ならヴィオラを持っていても不思議ではないけど、業界でいくら有名な奏者でも、一般的にはそれほど知られているわけじゃなくって。むしろ、一般的じゃない道具を持っている分、怪しまれたりするんだよ』
『うわぁ、大変だね』
あかりは顔をしかめて見せた。
サンクトぺテルブルにいた時も『スネグーラチカはいいなぁ。ピアノは楽だろ』と言われたことがある。それは演奏が楽ということではなくて、持ち運びに関する意味だったんだけど。
けれど、それはそれでピアノも厄介だ。他の奏者が自分の相棒を連れてくる中、ピアニストは現地の楽器を使う。どれだけ調律をしっかりして、仮に同じ品番のものを弾いたとしても、普段弾いているピアノとは年季というか、感触がかなり違うから。
そうこうしているうちに、施設の前までたどり着いた。駐車場の端に停めたカローラにもたれながらタバコをくゆらせていた母さんが、僕たちに気付いて手を挙げた。
「母さん、職務怠慢」
「何言ってんの、タバコ休憩は正当な権利よ。ちゃんと分煙してるじゃないの」
「仕切りなんて見当たらないんだけど?」
固いこと言わないの、と母さんは携帯灰皿にタバコを突き入れ、あかりに向かって流暢な手話で語りかける。
『はじめまして、冬彦の母の月香です。いつも冬彦がお世話になってるわね……っていうか本当可愛い子ねもう抱き締め――』
「っ!?」
母さんは手話で最後まで言い切ることを放棄して、あかりに飛び付いた。わっしゃわっしゃと撫でまわす腕の中で、あかりは白黒とさせた目を僕に向けてくる。
「……母さんにとってはスキンシップでも、他の人にとっては迷惑なんだからね」
「冬彦は喜んでるじゃない」
「絶対、喜んでない。諦めているだけ!」
説得では無理がありそうだったので、仕方なく、無理矢理母さんを引き剥がす。
『ごめん。母さん、いつもこんなだから』
『ううん、大丈夫。驚いただけ』
ファーストインプレッションは最悪だった。
『はじめまして、星川あかりです。今日はよろしくお願いします』
母さんの手話の勢いに大丈夫と判断したのか、あかりは僕にするより少し早く、お手話べりの機関銃を射ち始めた。
それに母さんは、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔で目を瞬かせる。
『星川? もしかして、お母さんは紫さん?』
『はい、そうですけど』
『紫さんと知り合いなの?』
僕も会話に混ざる。もちろん手話で。
『うちの手話サークルに来ているのよ、娘と手話で話したいって。あなたがそうなのね』
『母がお世話になってます』
『いえ、こちらこそ。よくお茶をご一緒してもらってるのよ』
意外な共通点に、世間は狭いと二人は笑い合う。
「(手話サークル、か)」
今ならきっと、肩肘張らずにあの輪に戻ることができるかもしれない、とは思う。けれど、今は別の意味で、顔を出すことはないんだろうとも感じていた。
僕は手話をマスターしたいんじゃなくて、あかりと話したいだけだったから。
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