〈5〉
僕は、あかりのリクエストに応えられない代わりに、ある計画を立てていた。
思い立ったのは翌日の夜。母さんの職場で演奏する前夜だ。まだ母さんには、あかりを招待することは明かしていない。
「母さん。明日って、何分ぐらい弾けそう?」
「んー、いつも通り、三十分くらいかしらね」
「そっか、ありがと」
夕飯の洗い物をしている母さんの背中に頭を下げる。
この季節の定番、きらきら星変奏曲は決まりとして、七分弱。残りの時間は十分だった。
「明日、僕は用事済ませてから行くから、よろしく」
「はーい」
善は急げ部屋に戻れ。いそいそと階段を上ろうとした時、不意に母さんから声をかけられた。
「ちゃんとエスコートしなさいよー?」
「な、何が……?」
「例の子でしょう。何年あんたの母親やってると思ってるのよ」
からかうような笑い声。ちなみにここまで、母さんは一切振り返っていない。
「連れて来ても、大丈夫……だよね?」
「大歓迎。若い子が来てくれると、みんなも喜ぶわ」
ひらひらと振られた泡まみれの手に見送られ、僕は改めて階段を上がった。
部屋に戻って、棚の楽譜に目を走らせる。
「えっと、チャイコフスキーの曲だったよね……セ、ソ、タ、チ……あった」
作曲家別に並んだ楽譜たちの中から、目的の作曲家と、その中でも目的の曲の楽譜を見つけて引き抜く。さっそく、僕の部屋の隣にある防音室へと向かおうとしたところで、不意に携帯が鳴った。
「誰だろう」
画面を見て、僕はぎょっとしてしまった。表示されていたのが、あかりからのLINE通話だったからだ。
僕にメッセージを送ろうとして、ミスタップしてしまったのだろうか。けれどコールは長く、それが意図して鳴らされているものだということが判った。
「……もしもし?」
おそるおそる電話に出ると、聞き覚えのある女性の声が返ってきた。
『夜分にすみません。あかりの母です』
「あっ、紫さんですか。こんばんは」
『ごめんなさいね。今、あかりから携帯電話を借りているんです』
何故だか、ふっと、気が抜けるのを感じた。
『今、お時間大丈夫ですか?』
「ぜんぜん構いません。何か、ありましたか?」
『ついさっき、あかりから聞いたのですけど。明日、あの子にピアノを聴かせてくださると言ってくれたそうですね』
紫さんの声は、静かだ。以前会った時にはおしとやかに感じたのだけど、その静かさに、今は少し、汗が流れるのを感じた。
「……その、まずかったですか」
『ああ、いえ、冬彦くんを責めているわけではないんです』
少し焦ったように弁解してから、何かを言いあぐねるように押し黙った紫さんは、 数分にも錯覚するようなじれったい間の後で、ぽつりと言った。
『ありがとうございます』
「えっ?」
『あの子を「普通の子」として見てくれて、ありがとうございます』
「いえ、そんな!」
今度は僕が慌てる番だった。こういう時、何と返したらいいのだろうか。
そんなこと関係ないです、と言うのも、どこか違う気がする。極端な話「僕は差別をしませんから」と言うのは簡単だ。けれど、そこには差別というものが前提として存在する。かなり捻くれた言い方をすれば「僕は差別の区分を知っていて、あなたが普通とは違うと分かっていて、敢えてその先に踏み込んでますよ」という考え方になる。
難しい話だった。そもそもの前提を間違って捉えている可能性があるんだ。
ならばそういう言葉を使わなければいい、なんて一概に言っても、それは「そう言うと差別をしていることになるから、別の言葉を探している」ということ。障害を障がいと書き替えることと変わりはない。
堂々巡り、難しい話だ。
一体「普通」って、何なんだろう。
ふと、あかりの顔が浮かんだ。粉雪に佇む、眩しい笑い顔。
――間違ってたらその時はその時。
そう、だよね。
「僕も、聴いて欲しいって、思ってます」
正直に話せば、それでいいじゃない。
「今、あかりへの曲を決めたところなんです。昨日、笹丘に行って、織姫と彦星の話を教えてもらって。たくさん笑顔をくれたあかりに、聴いて欲しいって。そう、思ってます」
『……子供の成長は、早いですね』
ふと、しみじみと、紫さんが零す。
「早い、ですか」
『はい。気が付けば、いつの間にか独り立ちしつつあるんですもの』
冬彦くん、と一旦置いて、紫さんは続ける。
『これからも、あかりと「普通の関係」をしてくださいませんか?』
「普通の関係……」
普通の子の次は、普通の関係か。でも今度は、かなりニュアンスが違うような気がした。
感謝ではなくて、紫さんの――あかりの親としての願望のような。
そして、その予感は的中した。
『あの子、冬彦くんの話をする時はとても楽しそうなんです。今まで、家族や聾学校のクラスメイトとしか話をしなくて、他の人と話をすると怒って帰ってきていたあの子の口から、初めて出た学校以外の友達の名前が、冬彦くんなんです』
「そうだったんですか……」
彼女のことだから、怒って帰ってくるという姿は想像できたけれど。僕が初めての、学校外の友達だったのか。
――冬彦の友達だから、紹介して欲しいの。
あの時、そう言ったあかりは、どんな気持ちだったんだろう。
『ですが、あなたにはあなたの人生があります。もしも……もしもあの子が、いつか、あなたを好きになったりした日には――』
「その先は、言わないでください」
遮る。言わせるわけには行かなかった。紫さんの声が震えているのが分かったから。
この人は、我が子の幸せより、他人の心配をしている。優しい人だと思う。
優しすぎる人だと思う。
「あかりがピアノを聴くと言ったように、僕が、僕自身が楽しくてあかりといるんです」
『冬彦くん……』
沈黙の中、紫さんの咽ぶ声だけが聞こえた。
どれだけ経ったろう。一分、五分、いや十秒だけかもしれない。
『でも、これだけは約束してください』
口を開いたのは、紫さんだった。決意を秘めたような、静かな声。
『あなたが少しでも負担だと思ったら、離れてやってくださいませんか?』
考えるまでも無かった。
「それは逆です。僕の方が、あかりの負担になっているくらいですから」
僕が負担に思ったことなんて、一度もない。
それどころか、あかりという光に、ここのところ浮足立ってさえいるんだ。
「きっと、僕が世話を焼こうなんてお節介始めたら、あかりの方から離れますよ」
きっとそう。あかりは、そういう子だ。
『子供の成長は、早いですね』
電話越しに、僕は暫く、紫さんと笑い合った。
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