〈4〉
『九歳でそれ? 凄いね』
一通り話を聞き終わった後で、あかりは感嘆の息を漏らしていた。
『その後も何度か組んだことがあるけど、行く先々で友達を作る達人だったよ』
今はどうか分からないけど、当時は僕と同じように外国語を話すことができなかったのに。そんなシフォンを、羨ましく思ったこともある。
『冬彦もピアニストだったんだね。今も会ってるの?』
『いや、もう二年くらい会ってないかなぁ。シフォンは山口県にいるから』
『山口?』
そこで、あかりへ正確に話していなかったことによる認識の誤差が出た。
僕は、シフォンの使った山口弁を、僕の知る限りの標準語に直し、直し切れない部分は「かなりの剣幕で」などとぼかして話していたのだ。
『シフォンは、方言が凄かったんだ』
『方言かぁ。手話にもね、方言はあるんだよ』
『そうなの?』
初めて聞いた。首を傾げている僕に、あかりは歯を見せて、右手の小指でなぞるような動作をしてみせる。
『今の、分かる?』
『白、だよね。色の』
『当たり。じゃあ、こっちは?』
そう言って、あかりは指でOKのマークをつくって、輪っかの部分で頬を撫でた。
『もしかして、それも白なの?』
『当たり。冬彦も分かった方は関東の表現で、今のは関西の表現なんだって』
学校で教わったのだと、あかりが説明してくれた。
関東表現では、白色を、歯の白を示して伝えるのに対し、関西のものでは、舞妓さんなどが塗るおしろいの色から来ているらしい。
手話の違いって、日本と外国だけじゃないのか。
『それじゃあ、旅行とかって行きづらいんじゃない?』
『そうでもないよ? 同じ関東の中でも、オリジナルの手話使ってる人もいるから。私が旅行に行く時は、元から知らないつもりで行くことにするし』
『元から知らないつもりで?』
『そう。単語を読み取るんじゃなくて、その人がどういうことを言いたくてその手話を使っているのかを読むの。間違ってたらその時はその時』
お馴染みの『※なお、意見には~』のメモ帳が出されたけれど、僕は、至言だと思う。
『というわけで』
あかりはぱん、と手を打つと、僕に微笑みかけた。
『いつか、山口に行って紹介してよ』
『……そうだね、あいつは友達作りの達人だから。きっと仲良くなれるよ』
『違うよ。冬彦の友達だから、紹介して欲しいの』
言ってから、あかりは、恥ずかしそうに髪を揺らした。
『そうだね。暖かくなったら、行こう』
僕は、今まできっかけを探していたのかも知れない。
元気でいるといいのだけど。
笹丘からの帰り際、あかりは手袋越しに手をさすりながら、また僕の何歩か前を軽い足取りで進んでいた。
『シフォンちゃんと、何ていう曲を演奏したの?』
『ええと……あっ』
『ん、何?』
ちょっとした運命なのかと驚いて、思わず声を上げてしまった。
初めて二人で――ピアノとヴィオラで演奏した曲は、ちゃんと憶えている。
『すごい偶然だよ。演奏したのは、シューマンの「おとぎの絵本」っていう曲なんだ』
『わぁ。それ、明後日のリクエストにしていい?』
『ヴィオラがないと曲にならないから、難しいかな』
『ちぇ。じゃあ、シフォンちゃんに会った時のお楽しみだね』
おもちゃをねだるように目を細めて、歯を見せたあかりは、眩しかった。
『後ろ向きで歩いていると、怪我するよ』
『危ない時には冬彦が教えてくれるでしょ?』
あかりは、光だ。
ピアニストと意図的に名乗らなくなってから、シフォンとのことについては、他人に話したことがなかった。それでも、あかりに対しては、不思議と隠そうという気持ちすら起こらなかった。さらにあかりは、シフォンに会いたいとまで言ってくれた。僕のピアノが聴きたいと笑ってくれた。
僕の心を透かすように照らす光。
僕の行き先を照らす光。
はじめは、母さんが笑い転げるような、缶コーヒーの出会いだったのに。
いつしか僕は、冬の星空よりも明るい女の子に、惹かれはじめていたんだと思う。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます