〈3〉

 五年前。僕が十二歳の時だった。一躍時の人となった少年ピアニストは、パリのホールでヴィオリストとのコラボを依頼された。

 外国語ができない僕のために日本語で書かれた曲目に載っていたのは、「天野冬彦」の隣に並んだ「桐谷織姫」という可愛らしい名前。

 パリまで来て日本人の伴奏か、なんて。当時はひねくれていたっけ。


 事件は、空港に降りた直後から起きた。

 僕はピアノ奏者だから、ピアノを飛行機に乗せて運ぶわけでもなく、手荷物なんてほとんどない。ゆったりと税関での手荷物チェックをクリアして、いざ会場へと歩き出そうとした時。


「ええころせぇよ! れっきとしたうちの相棒じゃけぇ、せわぁないじゃろ!」


 聞こえた叫びに足を止めた。今の、日本語……だよね? だいぶ訛っているけれど。

 騒ぎのする方を見ると、十歳にならないくらいの小さな女の子が、目一杯手足を伸ばして、税関の大人たちに噛みついているところだった。


「こちらは免税手続きをしていただきませんと」

「こげーな可愛い女の子とっ捕まえて、うたがっちょるんけ!?」

「いえ、最近は小さい子供を使った密輸などもございますから」

「ぶち腹立つ奴だな。話にならん、早よ通しぃさん!」


 どうやら日本語通訳者はすでに呼ばれているようだ。問題はないか。


「おい、お前!」


 再び歩き出そうとしたところで、


「お前じゃぁ!」


 僕は首根っこを掴まれ、引き倒された。


「お前日本人じゃろ? 税関がせがってくるけぇ、手伝え」

「ごめん。僕急いでるから、それじゃ」


 小さい女の子を放っておいていいのかと言われても構わなかった。今日はリハーサルだけで、コンサート本番はもうすこし先だから時間の余裕はあるんだけど。

 異国の地で面倒に巻き込まれるのはごめんだった。


「手伝ってぇやぁ! ヴィオラがないとうちの声が出せないんじゃぁ!」


 いや声は十分出せてるでしょ。と突っ込みたくなったところで、ふと思考が止まる。


「……君、今、ヴィオラって言った?」

「そうじゃ。うちゃぁヴィオリストじゃけぇの」

「君、名前は?」

「シフォンじゃ! そういうお前は――」

「ごめん、人違いみたい」


 共演者は織姫という名前だったはずだ。仮に誤植があったとしても、織姫とシフォンでは間違えようがないだろう。


「待ってぇやぁ!」


 しかし、再び引き倒された。

 結局、僕まで一緒に税関役員を説得するはめになり、女の子が出したパスポートを見て、彼女が九歳であることと、彼女こそが桐谷織姫だということが判明し、僕の持っていたコンサートの目録等を見せることで何とか事なきを得るまでに、たっぷり一時間かかった。


「まさか、君が例のヴィオリストだったなんてね……」

「お前が伴奏のピアニストじゃとはの……」


 どちらからともなく頭を抱えて、待合席に座りこんだ。

 それが、僕とシフォンの出会い。


 しかし、シフォンが巻き起こしてくれた豆台風は、この程度では終わらなかった。

 コンサート本番が近付くにつれて、周囲との国の壁――というよりは、年代の壁が大きく立ちふさがったんだ。

 僕とシフォンは、コンサートの特別ゲスト扱いだった。日本で生まれた期待の新星、と銘打たれていたらしいけど、僕らの年齢は、他の奏者にとっては幼すぎたのだろう。


「おい、どうしてヴィオラはデカいんだ?」

「見ろよ、ヴィオラが大きいんじゃなくて、あいつが小さいんだよ!」


 ヴィオラジョーク。フランス語のできない子供のシフォンにもわかるように、簡単な英語で、わざとゆっくり言い合う周りの奏者たち。

 僕自身「そんな小さな手でオクターブ届くのか?」と言われることもあったから、いい加減腹が立っていた。


おい、あんたらHey, you guys……っ!」

「フユ。いっそせわぁない」

「でも!」


 いっそせわぁない。全然構わないという意味の山口弁だ。僕が演奏する曲がシフォンとのものだけだったせいか、フランス語よりも山口弁の方をいくらか覚えてしまった。シフォンの方も、僕のことをフユと呼ぶようになっていた。


 しかし、全然構わないと言ったのは、気にしていなかったからではないようで。

 僕を制したシフォンは、大の男たちに詰め寄ると、叫んだ。


「しゃあしいわ! へーたらこーたら、やっちもにゃあことばっかりじゃのう!」


 男たちは、呆然としていた。さすがに彼らも日本語は分からないんだろう。というか、同じ日本人である僕ですら、意味を正確には理解できていなかった。

 それでも、表情や言葉の温度感、何よりシフォン自身の迫力によって、大の男が気圧されていた。


「なら試してみるけぇ、フユ!」

「えっ?」

「えっじゃないが! こっち来ぉ、あんた、アメイジンググレイスは歌えるじゃろ?」


 こうしてシフォンに巻き込まれるのはもう日常茶飯事だったから、さして困惑することもなかったのだけれど。


「いや、僕、歌詞知らないんだけど」

「鼻歌でもラララだけでもええから歌いさい」


 さっさとしろ、と手で急かされ、僕は歌い始めた。


「アーメージィンググレーィス、らーらーらーらーらー」


 分かる部分の歌詞だけ言葉にして、後は流れのまま、歌い出しの盛り上がり部分だけ歌った。


「全部ラララで歌えばいいのに、きなるのぉ」


 シフォンは、無理矢理歌えと言った上に、散々な言い様だった。まぁこんなもんじゃろ、と鼻を鳴らしてから、


「こんな風に、骨の構造として西洋人には敵わん言われる日本人でも、まして発声のコツをろくに知らん子供でも、歌は十分歌えるけぇ」


 ヴィオラジョークの吹聴者であるヴァイオリニストを睨みつけた。


「ヴィオラは最も声に近い音色を出す楽器じゃ。扱い方次第で、十分ヴァイオリンを超えてくれる。ほいじゃけー、次うちの相棒にねんごぅたれよるなら、しごぉしちゃるけぇ覚悟しぃ!」


 それからというもの、僕たち――というより、主にシフォンは、気概のあるちびっ子として気に入られ、シフォンは小さい巨人プティ・ティタンをもじった「プティタン」、僕はシフォンが呼ぶ通り「フユ」として呼ばれるようになった。

 あろうことか、シフォンは他の曲でヴィオラを担当する奏者から、指導を仰がれるまでになっていたのには驚いた。


「リハするけぇ、しゃんしゃんしぃや。さんのーがーはい」

「どう言ぅたっていけんものはいけん。嘘じゃゆーなら、コンサートん後にSNSで検索してみぃ、ボロックソじゃぞ!」

「こげーな演奏で、コンサートくやす気けぇ!?」


 言葉は多分、最後まで通じていなかったと思う。音楽に対する真摯な想いはひしひしと周りに伝播していって――

 僕とシフォンの演奏を含めたコンサートは、スタンディングオベーションに包まれたのだった。

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