第3話 自尊心(プライド)としょうもない俺

「逃げろ、早くッ!!」


 つんざくようなそれは、ほとんど悲鳴だった。

 女戦士は四つん這いになって必死に立ち上がろうとするが、体に力が入らないらしい。


 何かの奇跡が起きたとして、それであのトロールを倒せるだろうか? 無理だ。


 そんなことわかってる。

 だけど、だけど、


「お前のそのゴミみたいなプライドで、そのありふれた安物の剣で、この状況をくつがえせるとでも思うかぁ!?」


「っせぇなぁ! 嫌なんだよッ!!」


「なんだと?」


「別にあんたのためじゃない。俺はただ、自分のこと嫌いになりたくないんだよッ」


「お前! こんなときに何を言って──」


「──あぁそうだよ!

 俺は低学歴で、資格も何も無くて、この年になってキャリアも貯金も、積み上げたものなんか何も無くて、ブラック企業で何十連勤もして働いてるくせに、何かの間違いだって言いわけして、自分だけは違うって勘違いしてるだけの、しょうもない男だ!!」


「はぁ?」


「だからぁ! ここで逃げたら、俺は俺を嫌いになる。そうなったらもうおしまいなんだよ! あんたに言わせれば、クソみたいなプライドなのかもしれない。

 でもな、俺にとっては、かけがえのないものなんだ!!」


 トロールが、ゆったりとした足取りで向かってくる。


「なめてるのか? お前まで俺を馬鹿にするのかよ!?」


「お前、さっきから何を言って……?」


「黙って見てろ。俺が、このトロールを倒してやる!」


 トロールはなおもゆっくりと歩いてくる。距離は一向に縮まらない。


 俺は駆け出した。震えてガクガクで、めちゃくちゃな足取りだった。それでも俺には『スタビライズ』がある。転ぶことはない。


「くたばれぇぇーーーーっっ!!」


 恐怖心を誤魔化すため、走りながら声を張った。俺は片手剣を両手で構えて、右に倒す。

 この勢いのまま横に切り裂くつもりだった。


 しかし、


「危ないっ!!」


「は?」


 鋭い声が耳に飛び込んできた。直後、左から現れた塊が俺の横顔に激突する。速すぎて、それがなんなのかまるでわからない。


 ふわりとした浮遊感。洞窟内にも関わらず、ものすごい勢いで吹きつける風が全身を包んだ。何も見えない。なんだ、何が起きた?

 手のひらに固い感触があった。地面だ。

 自分がうつ伏せに倒れているのだと遅れて気づいた。


 手をついて上体を起こす。


「嫌だ……死にたくない」


 女戦士が何か言っている。聞き取れない。ひどい耳鳴りがした。


 それと左のほほがひりひりと痛い。さっきぶつかってきた塊のせいだろう。


 それにしても、何が起きたんだ? 周囲を見回すと、女戦士がずいぶん遠くにいた。さっきまで目の前にいたはずのトロールも30メートルは離れている。


 トロールは俺に興味を失ったのか、女戦士に向かって大股で歩いて行く。大剣を失った女戦士は尻餅をついたままじりじりと後退し、あっという間に壁際まで追いつめられてしまった。


 トロールは女戦士に釘づけになっている。今がチャンスだ。


 片手剣を構えようとして、仰天した。

 剣が根本からぽっきり折れている。何かの冗談みたいに持ち手だけ残っていた。


「死にたくない。お願いだ。誰か、誰かぁぁ!!」


 さっきまでの態度はどこへやら、女戦士はみっともなくぼろぼろ泣きながら、鼻声で命乞いし出した。


 その様子を見て楽しんでいるのか、トロールは足を止めた。


 女戦士もトロールも、まったくこちらを見てこない。気づいていないのだろうか。幽霊にでもなった気分だ。


 トロールに動きがあった。棍棒を左手に持ちかえたかと思うと、女戦士を拾い上げた。


「やめろ、放せ、放してくれ!! 嫌だ、嫌だぁ!」


 あんな巨人、倒せるわけがない。逃げるべきなんだ。そんなことはわかってる。


 でも、このまま見殺しにしたら、きっと俺はもう二度と立ち直れない。


『お前みたいなしょーもない男に、何ができる?』


 立ち上がった俺を、自尊心プライドがせせら笑う。


「できるできないじゃねぇ、倒すんだよッ!!」


 俺は走った。向かうのはトロールの背中じゃない。床に転がったままの、大剣が目当てだった。


 女戦士の身長ほどもある、金属製の大剣。持ち上がるわけがない。仮に持ち上がったとして、扱えるわけがない。


 このときの俺はそこまで頭が回っていなかった。


 無我夢中で大剣に駆け寄り、持ち手を両手でつかんで、引っ張り上げた。


 持ち上げるというより、地面から引き剥がすような感覚だった。それでも、なんとか持ち上がった。


 重い。にぎりしめた指がちぎれそうだ。それなのに、俺は確かな足取りでトロールのもとへ走ることができた。


 トロールの背中で見えないが、女戦士は泣きわめきながら抵抗しているようだ。少なくともまだ生きてる。


 とはいえ、走っているはずなのに速度が出ない。驚くほど足が遅い。大剣が重いからか?


 女戦士の悲鳴が絶叫に変わった。バキバキと骨が砕ける音がする。トロールが手の中で女戦士をにぎり潰そうとしている。


 まだ距離がある。間に合わないっ!


「ちくしょぉぉぉぉーーーーーーっっ!!」 


 ヤケクソになって、俺は大剣をぐるりと振り回してからトロールに向けて放った。


 さながらハンマー投げのようにぶっ飛んだ大剣は、吸い込まれるようにトロールのうなじに突き刺さる。


 トロールの首から噴水のように血飛沫が噴き出す。声にならない声は断末魔となって、トロールはうつ伏せに倒れていく。その巨体が地面に打ちつけられると、ずしんと洞窟の中が揺れた。


「……?」


 何が起こった? 頭の中が"?"で埋め尽くされる。

 覚えているのは、ヤケになって大剣をぶん投げたこと。持ち上げるのすら大変だったのに、なぜかあのとき、俺はほとんど重さを感じなかった。


 火事場の馬鹿力という言葉がある。


 人間、命がけになると思いがけない力が出るものらしい。それの一種だろうか。納得がいかない。


 答えが出ないまま、俺はうつ伏せに横たわるトロールの右肩に回り込んだ。


 トロールの腕が前方に向かってだらりと伸びている。たどっていくと、手のひらに着いた。若い赤髪の女戦士が、トロールの手の中でぐったりとしている。唇に手をかざすと、息があった。


 女戦士をにぎりしめるトロールの太い指を一本ずつはがしている途中で、足元の地面が光り出した。


 複雑な幾何学模様と、気の遠くなるよう長い文章の羅列がトロールを包むように円状に広がる。

 魔法陣だ。


 そう言えば、いつか聞いたことがある。死亡したモンスターの死体は一部のアイテムを残して、自動化された魔法により国が運営する研究施設に転送されるのだそうだ。


 やがてトロールは魔法陣の光に包まれて消え、女戦士と、首に刺さっていた大剣、そしてトロールのドロップアイテムである棍棒だけが残った。


 女戦士は気を失っているだけのようだが、多分あばら骨が何本か折れている。俺は治癒魔法なんて扱えないので、おぶって帰ることにする。


 女戦士は身につけたよろいのせいもあってか、見た目よりも重かった。


 巨人の棍棒なんてとても運ぶ余裕がないので、ひとまず置いて行こう。この子を出口まで運んで、人を呼んでからもう一度ここに来ればいい。


 クソ上司には仕事が遅いと怒られるだろうが、そのときは一発ぶん殴ってやろう。想像するだけでスカッとした。


 大剣のことは、人を呼び寄せたときにその人経由でこの子に伝えてもらえばいいか。


 ダンジョンの出口まで走ろうかどうか迷ったが、重傷を負った怪我人には下手に振動を与えてはいけないと聞いた気がするので、早足で向かった。来た時よりもずっと長く感じた。


 もうすぐ出口というところで、声が聞こえてきた。


「マシュー、マシュー!!」


 白いコートを着た青いマッシュルームヘアの女の子が走り寄って来る。俺の背中におぶさった女戦士を見ると、目の色を変えた。


「マシューは、マシューは大丈夫なんですか!?」


 どうやらこの若い女戦士はマシューと言うらしい。白いコートの女の子に無事であることを説明すると、コートの女の子はその場で泣き崩れた。


 俺の背中で気絶している赤髪の女戦士もかなり若いが、この女の子はもっと若い。妹か何かだろうか?


 俺は女の子にマシューを託し、ズボンのポケットからスマホを取り出す。


 画面が割れていて、案の定クソ上司から鬼のように不在着信が届いていた。


 かけなおすと、ワンコールで出た。


『加藤! てめぇいつまでかかってんだ!?』


 名乗りもせずに罵声が飛び出してくる。


「いや、それが──」


 俺はことの顛末を話そうとしたが、クソ上司は聞く耳を持たなかった。

 とにかく今すぐ会社に戻れの一点張りで、ドロップアイテムをボス部屋に置いて来たので遅れるというと長々と嫌味たっぷりの説教が始まる。


 いつも思うが、時間を無駄にするなとか、今回だと一刻も早く戻って来いとか言っているくせに、うちのクソ上司は平気で何時間も説教をする。マジで馬鹿なんだと思う。


 それでも、少なくとも俺はコイツとは違う。


 今ならそうはっきりと断言できる。そのことが、ただただ嬉しかった。


 俺はかぶっていた白いヘルメットを脱いで、デジカメの録画を停止させる。『保存したデータはクラウドに送信されました』と表示されたが、なんのことやらさっぱりだった。



 この日を境に俺の運命は変わり始めるのだが、このときの俺は、まだ知る由もない。

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