第32話 湯の帰還
商兵は続々と商邑へと戻る。
昆吾軍を退いたものの。
負傷兵と錯乱した兵が大半であり。
敗戦に近しい。
勝利であった。
屋敷にて。
「……昆吾を甘く見ていました。噂は聞いてましたが、まさか、本当に一人で百の兵を斬るとは」
返答する。
「昆吾は止めきれませんでしたが、倍の兵数を持つ昆吾軍を退いたのです。上々ではないでしょうか」
「楽観的すぎますよ。相手方には、調停者、と呼ばれる異端なる存在が付き。
伊尹は苦々しい表情で呟くと。
伊尹の背後から。
凜とした声が放たれる。
「其処まで心配する必要はありませんよ。調停者にも色々と制約があるので、無闇矢鱈に、宝具を人相手に使えません。相応の代償を支払う羽目に陥りますから」
伊尹が驚き紛いに振り返ると。
其処にはマリがいた。
「マ、マリさん! どうして此処に」
「あの二人が遅いので先に来ました」
「あの二人って、まさか」
「ええ。湯と啓が此方に向かってきてますよ」
伊尹は肩の荷が下りた表情になる。
「……そう、ですか」
仲虺は訝しい表情で問いかける。
「貴女、調停者をご存じなのですか」
「知ってるも何も。曲がりなりにも私も啓も調停者ですよ」
「何ですって!」
仲虺は驚き紛いの声を上げるが。
伊尹は驚く様子も見せずに問いかける。
「……マリさん。教えてください。調停者とは一体何なのですか」
「そうですね。簡潔に答えるなら。次なる時代に導くモノです」
「それならば、どうして。二組もいるのです。昆吾側に二人の調停者が付き。商である私達にも貴女と啓が付いている。次の時代に導くだけなら、一組で十分なんじゃないですか」
「通常ならそうですよ。ですが、今回は色々と例外なのです。細かな話をしても混乱を招きますし。人の身には過ぎた話になるので。端折って言いますが。……私と啓は、定められた時代の流れを阻止する為に送られた調停者であり。昆吾側に付いた二人は、定められた時代通りに動かす調停者と思ってください」
「……定められた時代って。どういう意味ですか」
「言葉通りの意味ですよ。これ以上は私の口からは言えません。先ほど言ったとおり、人の身には過ぎた話になりますので」
伊尹は僅かばかり思案してから。
無知を装って問いかける。
「あちらの調停者は、定められた通りに動かそうとしているのですよね。……素人考えですが、時代が定まっているというのなら。その通りに動かすのが正しい、のではないでしょうか」
マリは其の問いかけに対し。
瞳孔が僅かばかり開き。
人に近しい感情を初めて見せる。
「……正しいとは一体、何が正しいのでしょうか」
伊尹はマリの異様な圧に押されながらも。
怖じ気づかないように返す。
「時代に答えが決まっていると言うのなら。その通りに動くのが正しい、と思ったのですが」
「答えなんて決まってませんよ。
マリは手を強く握り締め。
強く言い切る。
「私は、定められた時代通りに動くことが正しいとは、決して思いません」
マリが人らしい感情を見せると。
啓が屋敷に入ってくる。
「伊尹の口車に乗るでない。人の身に過ぎた話を盛大に語ってどうするのだ」
「……啓」
マリは目を瞑り。
外へと向かおうとする。
「マリーナよ。何処に行くのだ」
「マリです。……星を眺めてきます。少し、感情的になりすぎたので」
マリが湯の側を通り過ぎると。
湯が呟く。
「驚いたね。君にも怒るって感情あったんだ。そう言う感情、とうに超越したと思っていたよ」
「…………」
マリは目を瞑ったまま。
何も言わずに立ち去った。
「煽るでない」
「そんな気はないよ。ただ、彼女。もっと高位な存在だと思っていたからね。それこそ、人の気持ちも分からぬほどに。神位をもった存在に」
湯はそう言うと。
仲虺の元に向かっていく。
「取りあえず。……仲虺。今までご苦労さま。僕が不在中、商を守ってくれて」
「私は何もしてませんよ。全て、伊尹がやってくれました」
「はい、私がこの無能の代わりに全てを整えました」
「そうかい。ありがとう。商の民に変わって感謝するよ。伊尹」
湯が伊尹に頭を下げると。
伊尹は一歩後ずさりする。
「貴方が人に頭を下げるだなんて。気味が悪いですね。啓と過ごす時間が長すぎて、頭までいかれてましたか」
「人を狂人みたいにいうでない」
「狂人の語源みたいな存在が、何を言ってるのですか」
湯は玉座に向かい。
緩やかに座る。
右には側近の仲虺が立ち。
左には参謀の伊尹が立つ。
湯は玉座に座ったまま緩やかに口を開く。
「じゃあ、始めようか。次なる王朝。……商王朝を築く為の準備をね」
商に欠けていた。
英傑が帰還する。
湯の帰還により。
歴史は如何に動くのか。
間もなく。
其の答えが。
示されようとしていた。
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