第14話 狂なる道
伊尹が朧気な足取りで。
有莘伯の邑に帰還し。
事の顛末を伝えると。
有莘伯は興味気に言う。
「まさか、本当に商の民が赦されるとはねぇ。これも、君の助力あってのことだよ」
「……私は何もしてませんよ」
「あの男も君のように言葉を選んだのなら、戻ってこれたのに。残念だねぇ」
伊尹は呟くように言う。
「……言葉を選ぶという時点で。志なんてありませんよ」
「ん? 何か言ったかい」
「いいえ。何も」
「そうかい。で、これから君はどうするんだい。夏王の元に戻る気もないだろうし。良ければ、僕の側近として働いて貰いたいんだが」
「結構です。私は、料理人に過ぎませんから」
「……そうかい。分かったよ」
「では、失礼します」
伊尹は屋敷を出ると。
高台へと向かった。
高台では。
マリが腰を下ろして星を眺めていた。
「……マリ、さん」
マリは振り向かずに口を開く。
「大丈夫です。大体の話は分かってます」
伊尹は視線を逸らすように地面を見る。
「……責めないのですか。啓を見捨てて戻ってきた私を」
「責める? 可笑しなことを言いますね。責めるも何も。啓が選んだ道です。貴女を責めるのは筋道が違いますよ。……ああ、成る程、貴女、一つ誤解してますね」
マリは振り返って言う。
「責めているのは、私ではなく。貴女自身でしょう。誰も、貴女を咎める者はいませんし。誰も貴女に期待なんてしてませんよ。王座の才があるとはいえ。貴女はただの料理人なのですから。……そう言う道を、貴女は選んだんでしょう」
「……そ、それは」
マリは伊尹の言葉を聞くこともなく。
陽炎のように消え去った。
伊尹が立ち尽くしていると。
時は移ろいゆき。
朝日が差し込み始める。
伊尹は虚空の空をひたすら眺めていると。
義父が近づいてきた。
「こんな所におったか、伊尹よ。……ふむ。しかし、いつになったらこの雨はやむのだろうのう」
「……雨なんて降ってませんよ。遂にボケましたか」
伊尹が辛辣な言葉を投げかけると。
義父は天を見上げながら言う。
「いいや、降っておるよ。赤子だったお主が、桑におったときから。ずーっと、この雨は降り続いておる。……太陽として、大陸を照らしていた王の力はなくなり。下らぬ奴らが、のさばり始めた。……民衆はひたすらに搾取され。泣くことしか赦されず。その涙が大陸の雨となって降り注ぐ」
義父は伊尹の瞳を見つめて問いかける。
「のう、伊尹よ。どのようにすれば、この雨が止まるのであろうか」
「……雨は止める術はありませんよ。たかが人が、天地の理を覆すなんて出来ませんから」
「そうであろうか。あの啓という男は、一時とは言え。雨を止めたのだがな」
「…………」
空から小雨が降り注ぐ。
「腐るのは結構だが。生かされた意味と。今まで出会った縁の意味。少しは考えてみるのだな」
義父が立ち去り。
半刻ほど立つと。
本格的な雨が降り注ぐ。
「…………」
伊尹は雨に打たれても木陰に隠れようともせず。
ただ、ひたすらに雨に打たれていた。
「……いつからでしょうか。こんな達観した性格になったのは」
伊尹がそう呟くと自嘲めいた笑みを浮かべる。
「達観? 違いますね。道半ばで立ち止まっただけですよ」
伊尹は自らの手を見つめて続ける。
「夏王や貴族官僚に好き勝手に意見していたときは、曲がりなりとも真っ直ぐ突き進んでいました。立ち止まってしまったのは。一体、いつからでしたか。……ああ、そうでした。私に、大陸の歴や故事を教えてくれた人が、義憤から悪臣を糾弾し。その報復として、一族ごと処刑された時に、自分の中にあった。何かが崩れたのでした」
伊尹は手を天に差しのばす。
「……どんなに正しく生きても。この天は何も助けてはくれない。そう分かったから、私は立ち止まってしまったのです」
伊尹は伸ばした手を握り締めてから言う。
「ですが、違いましたね。……この時代を動かすのは天ではなく。人なのだから。人である私達が、狂った時代を変革しなければならないのだから。あの人や、啓が、死ぬと分かりながらも突き進んだように」
伊尹は目を瞑る。
「小難しいことを考えるのはもう止めです。下らぬ世俗と常識にはもう、囚われません。正しいことを正しいと言える世界に変える為。……ただ、狂を以て、この道を突き進むだけです」
伊尹は自らの心に語りかけるように呟く。
「……狂なれ、狂なれ、狂なれ。ただ、この道が、狂であれ」
伊尹は目を開くと。
舗装された道ではなく。
荒れ果てた道を突き進んでいった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます