第10話 仲介する狂者

 有莘伯の邑の正門前に。

 商の軍勢は辿り着く。



 数度の交渉の末。



 使者として。

 一人の者が正門を通ることを赦された。



 使者は腰を曲げたまま正門の橋を渡り。

 有莘伯がいる屋敷へと足を運ぶ。



 屋敷に入ると。

 使者は曲がった腰を更に曲げ。

 深く頭を下げる。



「商から参った、仲虺と申します。かねてより、名門である有莘伯様にお目に通る機会を心待ちにしておりました。このような形で謁見することになり、誠に心苦ししく……」



 仲虺は畏まった言葉を並べるのを遮り。

 有莘伯は口を開く。



「前置きは結構だから、要件だけ言って貰えないかい。まさか、宣戦布告に参った。なんて、笑えぬ冗談を言いに来たわけじゃないだろうね」

「では、単刀直入に申しましょう。……伊尹と呼ぶ者と会わせていただきたい」



 有莘伯は少しばかり呆気にとられて言う。



「どうして、伊尹を紹介して貰いたいんだい」



「大陸一の賢者と聞き及んでおります。それ故に、其の知謀を借りたく。参りました」

「紹介するも何も、今、この場にいるよ」



 仲虺は有莘伯の周囲を一瞥すると。

 とある人物に視線を合わせ。

 納得するように頷く。



「成る程。その瞳孔。ただ者ではないと思っていましたが、やはり、貴方が伊尹でしたか」



 仲虺は啓に近づくと。

 啓は伊尹を指差す。



「いいや、僕ではない。お主が探しているのは、こっちだ」



 啓の指先を見た。

 仲虺は信じれない表情になる。



「この少女が、伊尹?」



 伊尹は鼻で笑うように言い放つ。



「可愛い女の子でがっかりしましたか」

「いや。そうではなく」



「先に言っておきますけど。貴方らは詰んでいますよ。夏には武力装置とも呼べる。昆吾こんご伯の軍が控えており。夏王の周りには王師おうしと呼ばれる一騎当千の近衛軍がいます。貴方方が如何に強かろうが、かないっこありませんよ」

「それは分かっております。それ故……」



 伊尹は仲虺の言葉を遮って言う。



「まさか、弁明なんて考えているのですか。なら、尚更、無駄ですよ。夏王に群がる腐った奴らが弁明なんて赦すわけがないでしょう。大陸は平和だと、これまで夏王に付いてきた嘘が、露見してしまいますからね」



 仲虺は薄く目を開けたまま伊尹を見つめる。



「其処まで理解しているのなら、話が早い。……私が此処に訪れたのは、貴女の声を借りる為ですよ。貴女は夏王に仕え。悪臣の声すらも掻き消し。其の声を夏王に届けた。今の我々に必要なのは武ではなく。声であります。どうか、商の為、貴女の声を貸してもらいたい」



「成る程、声ですか。それでは、貴方が望む声でお答えしましょう。……いやです。断ります。面倒ごとには関わりたくありませんので。それに、こうなることは分かって、刃を握ったのでしょう。今更、足掻くなんて見苦しいです。大人しく、夏王に、その身をさばかれるべきです」



「よもやシータよ。今のは裁くと捌くをかけたのか」

「ええ。私の高度の掛詞を理解するとは中々ですね」



 啓と伊尹は朗らかな笑みを浮かべていると。

 仲虺は諦め紛いに笑みを浮かべる



「そうですか。助力願えませんか。それならば、致し方ありませんね」

「薄気味悪い笑みをして。一体、何を考えているのです」



「大陸一の賢者に見放され。我々、商は向かうべき道を失いました。進むも下がるも地獄と分かったので。貴女が言う。見苦しい足掻きを見せようと思いましてね。……まずは一つ。この邑を落としましょうか」



 伊尹は目を見開き。

 有莘伯は眉間にしわを寄せる。



「君、何を言っているのか分かっているのかい」

「ああ、誤解を与えてはなりませんね。では、誤解を与えぬように述べましょう。我々、商は貴公の邑に宣戦布告を行います。……内側を軽く見させて貰いましたが。城壁は脆く。兵の教練も甘い。一日で落とせると判断致しましたので。此処を落とし。伊尹、貴女を捕虜にでもして、夏王に弁明して貰いましょう。邑ごと人質に取れば、貴女も従うしかありませんよね」



「……其れは脅しですか」



 伊尹が睨み付けながら言い放つと。

 仲虺は薄目のまま笑みを漏らす。



「如何様にでも捉えてください」



 伊尹と仲虺が睨み合っていると。 

 啓が間に入ってくる。



「まぁ、そう慌てるでない。チュウチュウよ」

「仲虺です」



「僕たちはまだ、お主らの決起の理由を聞いてはおらぬぞ。これほどの騒動になると分かりながら。何故、反旗を翻したのだ。その発端を聞きたい」



「理由を話したところで、貴方たちは我々に力は貸さぬでしょう」

「良いから述べてみよ。夏王に声を届けたければ、まずは、お主が僕らの心に声を届けるのだ。其れが筋というモノであろう」



 啓の澄んだ目を見た仲虺は毒気が抜けたのか。

 深く溜息を吐いてから口を開く。



「……商が葛伯に向けて決起を起こした理由は、主に二つ。一つ、祖先崇拝の儀礼を疎かにし。数多の儀礼品、食料を送ったが儀礼を行わず。全て着服したこと」



 仲虺は僅かばかり間を持ってから続ける。



「そして、二つ目。此れが一番の理由です。……葛伯の邑で不作が起こったため。葛伯の民のため。大量の食料を送りました。だが、葛伯は民に渡すことを惜しみ始め。其の食料を全て奪いました。それに抗議した、商の十にも満たぬ子供と老人は、見せしめに殺され。其の屍は晒され。鳥の餌にされました」

「…………」



「我々は葛伯の処罰を夏王に幾度となく申し入れましたが、悪臣により握りつぶされ。あの二人の死はなかったと言う扱いになりました。……其れ故、我々は自らの手で、葛伯に刃を届けたのです」



 一同が黙り込むと。

 啓は頷きながら言う。



「うむ。実に狂である。良いであろう。その狂、気に入った。僕がお主らの力になろうではないか」



「失礼ですが。貴方に交渉が出来るのですか」

「案ずるな。こう見えても外交の心得は持っておる。……明治黎明期に、諸外国との交渉を行った経験があるからな」

「……明治?」



 仲虺は訝しげな表情をすると。

 伊尹が口を挟む。



「何を言っているかは分かりませんが。下手に首を突っ込むと、貴方の首も飛びますよ。言っておきますが、夏王に取り巻く屑達は弁だけは立ち。また、夏王を非難するようなことを述べようなら、問答無用で処刑になります。考え直すのなら今のうちですよ」



「シータよ。其方こそ考え直すべきではないか。確かに、この者達が刃を手にした事は褒められた手段ではない。だが、お上に誠を示し。其れすらも届かぬが故に、刃を手にしたのだ。情状酌量の余地は十二分にあろう」

「……それでも。反逆したことは死罪に当たります」



「ならば、罰則の基準が誤っておるのだ。正しく罰していれば、このような事態にはならなんだ。賞罰の過ちは国の過ち。国の過ちは王の過ちである。……今から其れを追求しに行こうではないか」



 伊尹は其の言動に血の気が引く。



「なっ、話を聞いてなかったのですか。夏王の前でそんなことを言うだなんて。自ら処刑されにいくようなモノですよ」

「うむ。実に狂であるな」



 啓の目に迷いがないと悟った伊尹は。

 マリに助け船を求める。



「マ、マリさん。この狂人を止めて下さい。王にその様なことを言うなんて。自殺しに行くようなものです」

「あぁ、無駄ですよ、無駄。目的の完遂の為なら、絞首台だろうが躊躇なく進む人間ですよ。そんな奇人、変人、奇天烈君をどう止めろと。ふぁぁ」



 マリは欠伸紛いに言う。

 啓は伊尹の首根っこを摑まえる。



「さて、シータよ。お主もついてくるが良い」

「行きませんよ。と言うか持たないで下さい。服が伸びるでしょうが!」



 啓は伊尹が暴れるのを無視して言う。



「それでは、行こうか、ちゅうちゅうよ」

「仲虺です。しかし、良いのですか。物凄く抵抗してますが」


「離しなさい、離すのです。……噛みますよ、本気で噛みますからね」

「ジタバタ騒ぐでない」



 啓は伊尹の頭を押さえつける。



「頭を押さえつけないで下さい。背が縮むでしょうが!」



「さっき言ったとおり、交渉は僕が行なう」

「なら、私は不要でしょう」



「必要だ。……お主には王佐おうさの才がある」

「王佐の才?」



「帝王を補佐する才である。だが、清廉過ぎるが故に、現実に吞み込まれ。才は陰りを帯び。自らをも呑み込もうとしている。それ故に、餓死なぞ企むのだ」

「……」



「どうせ死ぬ命であったのであろう。ならば、其の命、僕に預けよ。なぁに、悪いようにはせぬ。お主の理想を象ってやろう」



 伊尹はあっけにとられて黙り込む。


 

 啓達の話が纏まった。

 時同じくして。



 夏王率いる。

 数千を超える兵が。

 大陸を揺れ動かしながら。 

 迫りゆく。



 戦乱の時代が開かれようとしていた。

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