第9話 有莘伯の兄妹

 夏王朝の有力諸侯の一人。

 有莘伯は三十代半ばの人物であり。

 締まらぬ顔で葛伯の使者を迎える。



「こんな夕暮れになんだい。騒動しいねぇ」



 使者は急くように口を開く。



「申し訳ありません。ですが、事態が事態なのです。……しょ、商が、反旗を翻しました。どうか、直ぐにでも援軍を!」



 有莘伯は眉を顰める。



「信じられないねぇ。反旗を翻した時点で、夏王朝に敵対するようなモノだよ。そんな自殺紛いな行動を邑ごと取るかねぇ」

「ですが、事実なのです!」



「分かった。分かった。そう取り乱しなさんな。……それで、その商は、一体誰が率いているんだい」



「湯です」



「聞き覚えがある名だねぇ。……あぁ、思い出した。夏の日和見の態度に見切りを付け。僅かな手勢で異民族に報復を行い。夏の狂犬とまで言われた青年だったね。これは、また、厄介な奴を敵に回しちゃったねぇ」



「重々、承知です。それ故、助けを求めているのです!」



「一先ず、落ち着きなさいな。三日三晩、走ってきたんでしょう。後は、僕の仕事だ。君は少し休んでなさい」

「は、はっ!」



 使者が屋敷から出ると。

 有莘伯は雑に頭を掻く。



「参ったねぇ。さぁ、どう、やり過ごそうか」



 有莘伯が悩んでいると。

 二十代前半の女性が有莘伯の背中を蹴り飛ばす。



「失礼しました。兄上。背中に虫がいたので、つい、蹴り飛ばしてしまいました」

「……ひ、妣丙ひへいちゃん」


 

 有莘伯が地面に尻餅をつくと。

 妣丙は自らの頬に手を当てながら言う。



「兄上。実は最近、わたくし耳が悪くなってしまいまして。兄上の口から腑抜けた言葉が聞こえた気がしたのですが、きっと気のせいですよね」



「気のせいに決まっているじゃないか。妣丙ちゃんは、なんか良い案はないかい」



「まぁ、兄上。妹である。わたくしの意見を尊重してくれるのですね。そうですね。……当代の葛伯は死ぬに値する人物ですが、如何なる理由があれど、伯に歯向かったのは重罪。直ぐにでも反逆者を討ちに行くべきです。そして、湯と言う。反逆者を討った暁には、有莘の名は天下へと轟くでしょう」



「もう十分に轟いているんだけどねぇ」

「何か言いましたか、兄上」



「いいんや、なぁんにも」

「では、直ぐにでも討伐の手配を」



「まぁ、少し落ち着いて。何だか、嫌な予感がするんだよねぇ。下手すれば、もう、葛伯は討たれているかもしれない。そんな気がするんだよ」

「どうして、そう思うのです?」



「商では、武勇に名を馳せた湯が有名だけど。もう一人、曲者がいたのを思い出してね」

「曲者、ですか?」



「車輪造りに長けている青年でね。確か、仲虺と言ったかな」



 妣丙は首を傾けながら言う。



「車輪造りがなんですの。そんなモノ、此の邑の職人でも造れますわよ。まぁ、少々、歪で。よく壊れますけど」



「……僕が曲者と言ったのはね。この者は、僅かな時間と資材で。完璧に近しい車輪を造り上げるからだよ」

「車輪造りの名人は分かりましたが、其れが、一体何の脅威となりえますの」



「もし、其の者が、既に大量の車輪を造っており。水や食料と言った物資の移送を馬車と荷車で行ったのならば。葛伯への進軍はどれだけ早まると思う」

「ま、まさか」



「恐らく、葛伯の邑には既に辿り着き。もう、制圧していると思うよ。なんせ、異民族に報復した際も、驚異の進軍速度だったと聞いているからね。……はぁ、こんな時に、伊尹ちゃんがいればねぇ」



「兄上、何を言っているのですか。伊尹なら帰ってきてますわよ。昨日、門番から戻ってきたことを聞きましたから」



「それを早く言って欲しかったねぇ。なら、一度、伊尹ちゃんに意見を求めようじゃないか。少なくとも悪いようにはいかないはずだよ。なんせ、大陸一の賢者だからね」





* * *




 伊尹は伝令を受けて屋敷へと向かう。



 屋敷の入り口前に立つと。

 伊尹は訝しげな表情で振り返った。



「で、何で貴方達も着いてきているんですか」



「野次馬だ。気にするでない」

「美味しいご飯が出ると聞いて」



 啓とマリの言葉を聞き。

 伊尹は重い溜息を吐く。



「遊びに行くのではないのですが。まぁ、良いでしょう」



 伊尹は屋敷の引き戸を開くと。

 有莘伯と妣丙がいた。



 有莘伯は笑みを見せる。



「久方ぶりだね伊尹ちゃん。……おや、後ろの二人は、夏王が君につけた監視かい」

「いいえ。道ばたで出会った。旅人です」



「啓という。で、この娘がマリーンだ」

「海ではありませんよ。マリです」



「啓君に、マリちゃんで良いのかな。覚えておくよ」

「話の邪魔になるのなら、引かせますが」



 伊尹が言うと。

 有莘伯は手で制止する。



「いや、いて貰っても結構だ。遅かれ早かれ、噂は広まるからね。……伊尹ちゃん、商という邑は知っているかい?」

「葛伯の保護化にある邑の一つですね」



「流石、詳しいねぇ。……もし、もしもだよ。その邑が、葛伯に反旗を翻したと言えば、信じるかい?」

「信じたくありませんが。私を呼ぶということはそう言うことなのでしょう」

「話が早くて助かるよ。実はね。葛伯の使者から援軍を要請されていてね。少しばかり、懸念点があって悩んでいたんだよ」



「懸念点ですか」



「ああ。商には、大量の馬車や荷車があるかもしれないと言うことだ。仮に、そんなモノが揃っていたら行軍が早まり。とても援軍が間に合わないからね」



 伊尹は口元に指を当て。

 思案してから言う。



「どちらにせよ。間に合いませんよ。葛伯は素行の悪さと徳のなさから。誰一人として葛伯の為に命を賭す者はいません。幾ら立派な城壁で囲っていても。烏合の衆に過ぎません。とても、二日も持たずに落とされるでしょう。援軍を送るだけ無駄です。……そんなことよりもやるべきことがあります」

「やるべきことかい?」



 伊尹は一呼吸置いてから続ける。



「商の者達が、思慮足らぬ愚か者とすれば。勢いに任せて夏の首都に攻め込むでしょう。その場合、食料や水と言った兵站確保の為。この邑に押し寄せてくる可能性があります。今、すべきことがあるとするなら。城壁を整備し直し。商が攻めてきた場合、持ちこたえる準備を行うべきです」



 啓は腕を組んで頷いており。

 有莘伯は苦い表情で言う。



「其処まで考えが回らなかったね。君に意見を仰いでおいて正解だったよ。至急、城壁の整備と兵の教練を行う手配をしようか」


 

 三日ほど掛け。

 城壁を整備している最中。



 地平線。

 遙か先から。

 純白の御旗を掲げた軍勢が現れた。


  

 先頭には、荷車に乗っている湯と仲虺がおり。

 其れに付随するように百を超える兵と数多の馬車や荷車が付き従う。



 人々の思いが錯綜する中。

 時代は緩やかに狂おうとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る