第7話 伊尹の歪み
邑は土の城壁で取り囲まれており。
城壁の周囲は水堀にて囲まれていた。
正門で待機していた守兵が。
伊尹に気づくと声を掛けにくる。
「おっ、伊尹じゃねぇか。相変わらず小せぇな。もうちっと、背が伸びて帰ってくると思ってたんだが、小せぇままじゃねぇか」
「うっさいですね。押し込むように頭に触れないで下さい。縮むじゃないですか」
伊尹は守兵の手を払いのける。
「伊尹ちゃんのお帰りだよ。正門の橋掛けちゃって。って、掛けっぱなしか。あっ、はははは」
啓は呆れるように声を漏らす。
「随分と緩んでおるな。こんな守兵で大丈夫なのか」
伊尹は守兵の後について行きながら言う。
「大丈夫ですよ」
「どうして、そう言い切れるのだ」
「有莘伯は周辺との関係が良好で。最も、治安が良い邑と言われていますからね。此の地で争いになることなんてあり得ません」
「そう言った油断が、一番危いのだがな」
啓が忠告するように言うと。
マリのお腹の虫が鳴り響く。
「そ、そんなのどうでも良いですから。た、食べ物。请给我食物(食べ物下さい)」
マリは啓に肩を借りて歩いており。
限界が近しい様子であった。
其れを見かねた守兵が雑穀の握りを包みごと渡す。
「嬢ちゃん。少ねぇだろうが、くっとけ。……って、もうねぇ!」
マリはもっきゅもっきゅしながら食べきる。
「雑穀は固いし、妙な粘り気がありますけど。まぁ、及第点です」
「褒めてんのか、貶してんのか、どっちだい」
守兵は呆れるように言うと持ち場に戻っていった。
マリは自らの足で歩き始める。
「ちょっとは、マシになりましたね。で、伊尹。貴女は食べないのですか。一応、一個残してますが」
「結構です。食事をしに来たわけではありませんから」
伊尹は気丈に振る舞おうと。
足取りを強くして前に進んでいく。
邑に入ると。
竪穴式住居と言う。
地面を掘って造られた建物が並んでおり。
地上には屋根のみが露出する。
伊尹の育った家は。
住居地を少し離れた場所に建っており。
伊尹は入り口となる玄関まで進むと。
足が止まり。
入ることに躊躇う様子を見せた。
「中に入らないのですか」
マリがそう問いかけると。
伊尹は平穏を装って言う。
「急かさずとも入りますよ。……父上、母上。戻りました」
土の階段を下りると。
奥の部屋には。
藁を引いて横になっている初老の男性がおり。
伊尹の声を聞くと。
ゆっくりと身体を起こす。
「……おお、伊尹であるか」
座るだけでも一苦労と言った弱々しさがあり。
呼吸も濁っていた。
「伊尹よ。お勤めは、もう終わったのか」
「はい。終わらせました」
伊尹が含みを持った声で返すと。
老人は溜息を吐く。
「その様子を見るに。王を見限って、戻ってきたのだな」
「はい」
伊尹が透き通った声で返すと。
老人は埃被った棒を持ち。
伊尹の頭上に振り下ろす。
「何たる体たらく! 儂は、お主をその様な軟弱な男に育てた覚えはないぞ! 王が如何に愚鈍であろうが、暴君であろうが、死を持って説得せよと、幾度となく言ったであろうが!」
伊尹は慣れた様子で棒を白羽取りして言い返す。
「幾度も言い返してますが、私は女の子です。……確かに、王は愚鈍で、決断能力に欠ける人物でしたが、暴君ではありませんでしたよ。死を持って説得する価値もないほどに、凡君でした」
「背は成長せぬくせに、口ばっかり成長しよって」
「その棒で何度も叩かれたら、嫌でも縮み。口が上手くなりますよ」
老人は咳き込みながら言葉を発す。
「確かに、お前は頭が良く、知恵が回り、背が小さく、胸も小さく、器も小さい」
「喧嘩売ってるんですか。其れとも、積年の恨みを晴らす口実を与えてくれてるのですか」
「どうせ、お主のことだ。王宮で救えぬ者共を見て。嫌気が差したのだろう」
「……」
「前から言っておるであろう。此の大陸は、お主の心だと。お主の心が荒れておるから、此の大陸も荒れておるのだ。……お主には大陸を変える力がある。如何にふてくされようが、其れだけは、忘れるでない、ぞ」
老人は気を失うように藁に倒れ込み。
荒い呼吸のまま眠りに入った。
「無理をして。大人しく寝ていれば良いモノを。……さてと、今までの鬱憤を返しましょうか」
伊尹は棒で自らの手の平を叩きながら言うと。
中年の女性が入ってきた。
「は、母上」
「あら、伊尹ちゃん。帰ってきたのね。まぁ、そんな物騒なモノを持って。こっちの可愛らしいモノの方が似合ってるわよ」
伊尹の義母は伊尹の髪に小さな花を差し込む。
「お父さんに何か言われたでしょうが、気にしたら駄目よ。色々と不器用なのよ。この人は。伊尹ちゃんが帰ってくるまで、ずっと貴女の話ばかりだったからね。第一、こんな折檻棒、見た目ほど痛くないでしょう」
義母は寝静まっている義父の尻に一発払う。
「ごっふ」
「あ、あの母上、今日は一度も打たれてません」
「ああ、そうだったの。伊尹ちゃんに打った分だけ、自分も打たれると言ってたから、つい。癖って怖いわねぇ」
義母は何もなかったかのように折檻棒を投げ捨てると。
啓とマリを見つめる。
「伊尹ちゃんが、友達を連れてくるなんて始めてねぇ。始めまして、伊尹ちゃんの母です。気難しい子ですけど、悪い子じゃないので、仲良くして下さいね」
義母が会釈しながら言うと、思い出したように言う。
「ああ、そうだわ。鶏を貰ったのよ。伊尹ちゃん、料理を造ってくれるかしら。王宮でどれだけ腕を上げたのか、すっごく興味あるわ」
義母の言葉に、伊尹の目の色が変わる。
「……最近、包丁を握ってないので。遠慮させて貰います」
たどたどしい言葉遣いに義母は首を傾げると。
啓が前に出る。
「なら、僕が捌こうか。久方ぶりの親子の対面であろう。相応の料理を振る舞ってやろうではないか」
義母は残念そうに言う。
「あら、伊尹ちゃん。お友達に丸投げするの。折角、お父さんに、料理を振る舞う機会を与えたつもりだったのに」
伊尹は目を逸らして啓に投げようとする。
「啓、任せま……」
「無論、お主にも手伝って貰うぞ。共に至高の料理を作ろうではないか」
啓はそう言うと。
伊尹の手を引っ張って外に出た。
外の小屋に鶏が放されており。
啓は鶏を捕まえる。
「さて、絞めるか、捌くか。お主はどちらを行う」
「……私はどちらも行いませんよ」
「なら、捌くまで僕がやろうか」
啓はそう言うと慣れた手つきで鳥の首を絞めた。
ギッ。
鉛のような押し殺した悲鳴と。
骨の折れる音が同時に響く。
伊尹は苦い表情をして目を背けると。
啓は首が折れた鶏を見つめながら問いかける。
「そう言えば一つ。聞きそびれたことがあったのだが」
「何ですか?」
「どうして食事を取ろうとしないのだ」
「……言いたく、ありません」
「そうか、なら、これ以上聞くのも野暮というモノだな。……よもや、王宮にて下らぬ者どもがのさばり。正しいことを、正しいと言えぬ世に失望し。清廉なまま餓死しようと思った。なんてことは、ないであろうしな」
啓は血抜きを行いながら言うと。
伊尹の眼は大きく見開く。
「…………」
緩やかな風が二人の間を吹き抜ける。
其の風は。
巡り会うべきモノを巡り合わせたように。
通り過ぎていった。
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