第4話 悪魔に売ったもの

 真帆と亮は、やしろの中で一夜を過ごすことになった。

 登山の疲れからか、二人共すぐに眠りについた。

 真帆はふと、音を聞いた気がした。

 その音が、外から聞こえたのか、それとも自分の内側から響いてくるものなのか、わからない。

 目を開けて耳を澄ます。

 だが、何も聞えない。

 空耳だったのだろうと思い、再び瞼を閉じる。

 しかし、妙な胸騒ぎがする。

 匂いがした。

 微かに甘く、清涼感をもたらす香りが漂ってくる。それはまるで、遠く離れた場所からやってきた夏の記憶のようだ。

 その香りは不思議なくらいに心地よく、まるで遠くの海から届いているかのように感じる。

 ――これは、潮の香りだ。

 その瞬間、真帆は飛び起きる。

「海!?」

 見ると、亮も身を起こしていた。

「真帆さん。この匂いは?」

 真帆の言葉を聞き、亮も匂いを感じ取ったらしい。

 亮は、真剣な表情で言う。

 彼は、今の状況の危険さを本能的に察したのかもしれない。声からは、普段の冷静さが消え失せていた。

 二人は荷物を手に取ると、やしろの外に出ることにした。

 やしろの外に出ると、辺りを見渡す。

 すると、廃村となった家の向こう。渓谷があった場所が水面が揺れていることに気づく。

 そう。

 流れているのではない。

 揺れているのだ。

 真帆は木陰から、その様子を見て信じられなかった。

 ここは山中だというのに、そこには遥か遠くまで続く水が存在していた。

 一言で言うなら、海が広がっていた。

 その証拠に、水からは潮の香りが漂っている。

 亮も、呆然としている。

 すると闇の中から、黒装束の者が現れた。

 突然の人の出現に二人は驚く。

 こんな山奥に自分達以外の人間がいたからだ。

 黒装束は頭巾を被っている為に顔は見えない。

 黒装束は、口を開く。

 低い声で、聞き取りにくい。

 真帆も亮は、聞き取ろうと努力するが、全く意味が分からなかった。

 黒装束の声は、ひどくくぐもっており、何を言っているのか理解できなかったのだ。

 その言葉は、まるで異国の言語のようであり、人が理解できるものではなかった。

 すると二人は水面が揺れていることに気づく。

 そして、そこから何かが出てきた。

 最初は、小さな黒い影にしか見えなかった。

 やがて、それが人の形であることが分かってくる。

 それは、人の形をした何かであった。

 その姿は、全身が黒く染まっており、顔だけが白く浮き上がっていた。

 白い部分の顔には、目も鼻も無くただ口だけがある。

 そして、その口からは大量の泡が溢れ出ており、その体は波打っていた。亮は恐怖を覚えて後ずさりする。

 真帆は、その姿を見て言葉を失う。

 それは人間ではなかった。

 その正体が何であるのか、想像もつかない。

 亮は、真帆に声をかける。

「真帆さん。これが君の言っていた常世とこよなのか」

 その声は震えていたが、必死に平静を保とうとしている。


常世とこよ

 神道では、世界を「常世とこよ」と「現世うつしよ」に分けて考える。

 常世とは、海の彼方にある世界を指す。

 死後の国でもあるが、同時に理想郷とも考えられ、記紀神話や『万葉集』などには、神や人が、常世の国から帰ってくる話がある。

 沖縄には、ニライカナイと呼ばれる海の彼方の異界についての信仰がある。神は異界からやって来て、この世に豊穣をもたらし、戻っていく。

 人は死と共にニライカナイへ渡るが、やがて生者の魂となって帰ってくる。

 ここでもニライカナイは単なる死者の国ではなく、本土神話の常世国に近い為、ルーツは同じなのではないかというのが通説だ。


 真帆は過呼吸を抑える。

「……ええ。でも、これは似て非なるものよ。密教では死後に転生する魔界の一つとして天狗道が構築された。心が邪悪なために修行を重ねても悟りを開けず、六道輪廻から外れた者が魔縁まえん(天狗)に堕ちるのよ」

 その説明を聞いて、亮は思い至る。

 《無言のさようなら》とは、海の向こうにある異界に人を送ることだと。

 そして、異界に行った者は、魔界の者・魔縁となって帰って来る。

 悪魔に肉体も魂も売り渡し、新たなる命と身体を得て。

 これこそが、不老長寿伝説の正体だ。

 亮の想像した人間の寿命を延ばす研究には、当てはまらない。

 この村は、不老長寿ではなく魔縁を生み出す儀式を行わされていたのだ。

 その事実を知り、亮に怒りが沸き起こる。

「ともかく。今すぐ、ここから逃げましょう」

 真帆の言葉に、亮は同意する。

 山の夜道は危険だが、目の前に居る存在の方が遥かに危険なのだから。

 二人は、足音を立てないように、ゆっくりと動き出す。

 心臓は激しく鼓動しており、呼吸も荒い。

 二人は、息を殺しながら歩く。

 すると、亮の足元で音がした。

 見れば枝を踏んでしまったらしく折れていた。

 慌てて振り返ると、魔縁がこちらを見ていた。

 目の無い、顔の無い白い部分が、二人を見つめている。

 亮は、背筋が凍りつく。

 その視線は、まるで感情の感じられない虚ろなものだったからだ。

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