08 オンステージ(上)
洋楽のBGMがフェードアウトしてオランダ民謡の『サラスポンダ』が流されると、客席から歓声がわきたった。
紙袋をかぶっためぐるはステージの中央を向いてメンバー三名の姿を視界に収めつつ、開幕の瞬間を待ち受ける。まだ胸の中には重低音の響きが残されていて、荒ぶる心臓をなだめてくれていた。
町田アンナも同じようにこちらを向いており、ドラムセットの和緒はもとより正面を向くしかない。黒い幕を凝視している栗原理乃の姿を、三方から見守っているような格好だ。電子ピアノの前で棒立ちである彼女は、ライブの直前でも人形のような静謐さであった。
やがて一分ほどが経過したならば、和緒がおもむろにスティックを振り上げる。
そのスティックがスネアを叩く合図に従って、めぐると町田アンナはそれぞれの楽器をかき鳴らした。
レギュラーチューニングではもっとも低い、ローEの音である。栗原理乃もすぐさま鍵盤に白い指先を走らせて、大歓声の中、黒い幕が開かれた。
『サンキュー、エブリワーン! アーンド、ハッピー・グラデュエーショーン、トゥー、ユー!』
すっかりお馴染みとなったカタコトの英語で、町田アンナが挨拶の言葉を響かせる。
そうしてローEのパワーコードをかき鳴らしながら客席に目をやっためぐるは、ぎょっと身をすくめることになった。客席の人数が、やたらと膨れ上がっていたのである。
倍増――とまではいかないが、明らかに人の密度が増している。七、八十名ていどであった人数が、いまや百名ぐらいに及んでいるように感じられた。
(でも……先月のイベントは、この倍ぐらいの人数だったもんね)
そして、観客の数が多かろうと少なかろうと、めぐるたちのなすべきことに変わりはない。そのように判じためぐるは、他のメンバーたちとともに演奏の音色をフェードアウトさせた。
それが完全に消え去らない内に、町田アンナがCを基調にしたフレーズをかき鳴らす。
『転がる少女のように』のイントロである。所定のタイミングで、めぐるはベースのクリーンサウンドを響かせた。
和緒の叩き出す力強い8ビートが、めぐるの心をどんどん昂揚させていく。
町田アンナのギターも栗原理乃のピアノも、普段以上の迫力だ。それがまた、めぐるに大きな悦楽をもたらした。
(どうして……ライブって、こんなに楽しいんだろう)
今さらながら、めぐるはそのように考えてしまった。
練習の場でもライブのステージでも、やっていることに変わりはない。違っているのは、観客の有無だけだ。その観客たちがもたらす熱気が、めぐるたちにいっそうの熱をもたらしてくれるのだった。
自分たちの演奏に喜んでくれる人々の存在が、嬉しい。
要約すると、そういうことなのだろうか。
そんな想念を頭の片隅に思い浮かべながら、めぐるは指先を走らせて、音をうならせた。
本日は二十五分という持ち時間であるため、六曲の持ち曲から五曲しか披露できない。それでセットリストを見直して、普段は最後に演奏している『転がる少女のように』を一曲目に配置したのだ。これは、持ち時間が十五分であった年越しイベントと同じ手法であった。
『転がる少女のように』は『KAMERIA』の持ち曲の中で、もっともシンプルかつ勢いのある楽曲だ。ギターとベースの音作りももっともシンプルで、生々しい迫力が持ち味であると自認している。それが、一曲目でも最後の曲でも通用する汎用性をもたらすのだろうと思われた。
時おり客席のほうに目をやると、ステージの前まで押し寄せた人々はみんな満足そうに瞳を輝かせている。今日は元気な町田家の姉妹が不在であったが、見知らぬ人々が手を振り回したり、子供のように跳ねたりしていた。
ベースの側の壁際では、ミサキが祈るように両手を組み合わせながら、うっとりとステージを見上げている。謙虚なミサキは最前列ではなく、間に三人ぐらいの人間をはさんだ位置取りだ。その姿が、めぐるの心をやたらと温かくしてくれた。
さらに視線を手前に戻すと、見知らぬ女の子が目を潤ませている。ずいぶん小柄で、おそらくは中学生だろう。どうして高校の卒業イベントに中学生がまぎれこんでいるのかは謎であったが、めぐるが思い悩むような話ではなかった。
栗原理乃の歌声は、今日もアイスブルーの稲妻さながらである。
その歌声と演奏の音色にひたりながら、めぐるは指先を走らせた。
こんなに昂揚しているのに、指先は軽い。
紙袋のせいで息苦しいが、それも演奏の邪魔になることはなかった。
『V8チェンソー』のステージの、アンコールの舞台――浅川亜季とフユとハル、柴川蓮と7号とノバ、そして鞠山花子との八名で『小さな窓』を演奏したときは、もっと確かな調和を得ていたが――しかし決して、めぐるが物足りなく思うことはなかった。
今はこれが、めぐるたちの精一杯であるのだ。
そこには、何の不満もない。一年足らずでこれほどの調和を実現できたことが、信じ難いほどである。
そして、めぐるの心に満ちるのは、不満ではなく希望の思いであった。
めぐるは十分に幸福であるが、この先にはさらなる幸福が待っていると、そのように信じることができたのだ。『KAMERIA』であれば、いつかあの夜の八名にも負けない演奏を実現できるはずだ、と――めぐるは何の根拠もなく、そう信じているのだった。
(みんなが同じ気持ちでいてくれてるんだから……きっと大丈夫だ)
めぐるは客席から、ステージ上に視線を転じた。
ちょうどサビのパートであったため、栗原理乃と町田アンナは二人がかりで力強い歌声を響かせている。主旋律は町田アンナで、栗原理乃は高音のハーモニーだ。子供のように無邪気で乱暴な町田アンナの歌声と、機械人形のように精密でありながらどこかに生々しさをひそめた栗原理乃の歌声は、今日も相反する魅力でひとつの歌を完成させていた。
和緒は真っ直ぐ背筋をのばしたまま、疾走感にあふれる8ビートを打ち出している。
もっともキャリアが浅い和緒は、一番のびしろがあるのだろう。『KAMERIA』のメンバーは誰もが演奏を重ねるごとに魅力を増していたが、もっとも飛躍的に成長しているのは和緒なのではないかと思えてならなかった。
和緒のドラムは正確で、力強い。そしてその硬い音色のあちこちに、人間らしい生々しさがわずかににじんでいる。この先は、その生々しさが増幅されていくのか、あるいは硬質さが増していくのか――何にせよ、めぐるの期待はふくらむばかりであった。
和緒がしっかり土台を支えてくれるおかげで、めぐるも遠慮なくフレ-ズをうねらせることができる。この『転がる少女のように』はまだしもシンプルな構成であったが、それでも単調なルート弾きはほとんど使用していなかった。
そうして思うさま躍動しながら、めぐるも和緒とともにリズムを支えている。そしてその上で、歌とギターとピアノが舞っているのである。
しかし決して、分離しているわけではない。栗原理乃と町田アンナのもたらすリズムもドラムとベースのリズムにしっかり絡みついていたし、めぐると和緒の織り成すフレーズも歌と上物のメロディに深く絡みついているはずであった。
それらの調和が、めぐるの心を満たしているのである。
その先により大きな幸福を期待しつつ、めぐるは今の幸福に充足していた。
そうして『転がる少女のように』は、エンディングに向かっていく。
最後の音は大きくのばして、さらにめぐるはCのパワーコードをかき鳴らした。
『サンキュー! ウィーアー、「KAMERIA」!』
町田アンナの合図に従って、めぐるは頭の紙袋をひっぺがし、右手で丸めて、床に投げ捨てた。
そして今度は和緒のタムのフィルの合図で、最後の音を打ち鳴らす。ステージ上の爆音が消え去ると、その代わりに歓声と拍手が爆発した。
『ありがとー! あらためまして、卒業おめでとうございまーす! 卒業しちゃうセンパイたちのために、最後までかっとばしていこー!』
町田アンナが元気な声を張り上げると、それに呼応して歓声もうねりをあげる。
そんな中、めぐるはひっそりとチューニングに取り組んだ。
『それじゃー、次の曲! ウチらの最新の曲で、「
和緒が心臓の鼓動めいたバスドラを踏み鳴らすと、また歓声がわきたった。
二曲目は、先月のイベントで初お披露目をした。『
(まあ、わたしは『線路の脇の小さな花』でもよかったけど……きっとこっちのほうが、お客さんはノリやすいんだろうな)
『
まあ、めぐるはどれだけ消耗してもかまわないのだが――しかし、『
やがて和緒が四つ打ちのバスドラに裏打ちのハイハットを重ねると、栗原理乃もトリッキーな単音のフレーズを重ねる。そして町田アンナはEm7のコードを長々と響かせて、めぐるは休符でリズムを作ったルート音のフレーズを重ねた。
めぐるにとってはもっともシンプルなフレーズであるが、音色はB・アスマスターの粘ついた歪みにオートワウを重ねている。オートワウは、この曲のためだけに買ったようなものであるのだ。たとえこのさきオートワウが必要な曲が生まれなくとも、『
途中からは町田アンナも16ビートの小気味よいカッティングで参加したが、Aメロに入ったならばギターの出番は終了する。そして町田アンナは、ラップまがいの早口の歌を披露した。
それを見上げる観客たちは、思い思いに身を揺すっている。この『
そうしてBメロに入ったならば、雰囲気が一変する。ギターとベースは循環コード、歌とピアノはメロディアスかつ幻想的なフレーズに転じるのだ。そしてヴォーカルも栗原理乃にチェンジするため、和緒が同じリズムを貫き通していなければ、別の曲に転じたかのような印象になっているはずであった。
そんなAメロとBメロを二回ずつ繰り返したのち、ようやくサビに突入する。
ギターとピアノは激しいバッキング、ベースはコード進行に沿ったスラップ、ドラムは四つ打ちのバスドラだけキープしつつ、不規則なタムの乱打と猛烈なスネアの連打――そして、栗原理乃と町田アンナのツインヴォーカルという、おもちゃ箱をひっくり返したような展開である。
これは、Aメロの躍動感とBメロの神秘的な雰囲気を重ねつつ、最大の盛り上がりを演出しようという意図であった。
おかげでめぐるはまたとない昂揚を手中にしているし――そして、ステージ上のメンバーも客席の観客たちも、おおよそは同じ気持ちでいるようであった。
その一体感が、めぐるをさらに昂揚させていく。
やっぱりこれこそが、ライブならではの楽しさであるのだろう。人格の形成にしくじって、他者とのコミュニケーションが何より苦手なめぐるが、ステージではこれだけたくさんの人々と同じ思いを共有することができるのだ。普段のめぐるの至らなさを思えば、まるで奇跡のような話であった。
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