02 前夜

 卒業式の四日後――三月の第三金曜日である。

 その日は卒業ライブの前日であると同時に、栗原理乃の誕生日でもあった。


「りのちゃん、たんじょーびおめでとー!」


 本日は、町田家の下の妹たる町田エレンによってそんな言葉が届けられた。

 町田アンナを筆頭とするご家族はそれを復唱し、めぐるは和緒とともに手を打ち鳴らす。栗原理乃は少し恥ずかしそうに、そしてとても嬉しそうに、もじもじとしながら微笑をたたえていた。


 毎度おなじみ、町田家の食卓である。このたびもライブの前夜はこちらで過ごすことになり、そして栗原理乃のバースデーパーティーが開催されることに相成ったのだった。


 座卓には、パーティーに相応しいご馳走が並べられている。平日である本日は道場も開かれているさなかであったが、町田家のご両親も栗原理乃の誕生日を祝うために抜け出してきたのだ。今は師範代という立場にある男性が、門下生に稽古をつけているのだという話であった。


「俺たちも、この後は道場に戻らないといけないからな! さっそくご馳走をいただくとしよう!」


「あんたは、さっさと戻ったら? 誰も引き留めはしないからさ!」


 いつもの調子で父親をやりこめる町田アンナも、満面の笑みだ。この近年は、こうして町田家で栗原理乃の誕生日を祝うのが通例であるのだろう。それに参加できたことを、めぐるは心から嬉しく思っていた。


 そうしてご馳走とケーキをたいらげたのちには、プレゼントの授与である。メンバー間ではプレゼントのやりとりを行わない取り決めになっていたが、町田家の面々はもちろん準備していたのだ。四名分の包みを受け取った栗原理乃は涙をこらえているような笑顔で、「ありがとうございます」と頭を下げた。


「じゃ、道場に戻るか! みんなは、ゆっくりくつろいでな!」


 町田家の父親と母親は、慌ただしく道場に戻っていく。残された一同は食器の片付けをしたのちに、客間へと移動した。


「でも、明日は『KAMERIA』のライブに行けなくて残念だなー! これまで、カイキンショーだったのに!」


 町田エレンがぷっと頬をふくらませると、次女たる町田ローサが「ごめんね」と眉を下げた。明日は彼女が格闘技の試合に出場するため、ご両親はセコンド、町田エレンは他の門下生たちと応援に駆けつけるのだ。


「ローちゃんのせいじゃないよ! もちろん、『KAMERIA』のみんなのせいでもないけど!」


「そーそー。来月の終わりにはまたジェイズでライブだから、そっちをよろしくねー」


 町田アンナがそのように呼びかけると、町田エレンはたちまち笑顔となって「うん!」とうなずく。四月の終わりには、『ジェイズランド』でライブを行う予定であるのだ。二月の『V8チェンソー』企画イベントから数えて三ヶ月連続でライブを行うことになるので、めぐるもひそかに奮起していたのだった。


「それにしても、格闘技の試合ってのは大変なんだね。まさか中学生でも減量するとは思ってもみなかったよ」


 和緒がそんな声をあげると、町田ローサは「いえ」とはにかんだ。


「減量って言っても、ほんの二キロだけですから。水分摂取のコントロールだけで、それぐらいは簡単に落ちますからね」


「でも、せっかくのご馳走もほとんど手つかずだったじゃん?」


「前日の夜だけは、しかたありません。そのぶん、明日は祝勝会でご馳走をいただきます」


 町田ローサは、あくまで落ち着いている。彼女はこの春で中学二年生に進級する身であったが、三姉妹の中ではとりわけ沈着な気質であるのだ。ただし、素直かつ善良である部分は、姉にも妹にも負けていなかった。


 町田アンナはオレンジ色の髪、町田エレンは栗色の髪で、どちらも鳶色の瞳と白い肌をしている。それに対して町田ローサだけは、黒髪に黒い瞳で小麦色の肌だ。そういう部分は父親似であったが、顔立ちの可愛らしさはやはり姉や妹と同様であった。


 その小麦色の頬が、普段よりほんの少しだけ引き締まっているように感じられる。わずか二キロの減量でも、やはり多少は影響が出るのだろう。それに心なし、いつも明るい黒い瞳に鋭い光も入り混じっているように感じられた。


「膝の調子はだいじょーぶなの? 試合だからって無理すると、余計に長引くことになるよ?」


 町田アンナがそのように声をかけると、町田ローサは「大丈夫だよ」と力強く答えた。彼女は稽古中に右膝をひねってしまったため、試合の前日たる本日も稽古を早めに切り上げたという話であったのだ。


「でも、計量に失敗したらまずいからね。それでちょっと、シビアめに食事量を抑えたんだよ」


「うん? 膝を痛めていようといなかろうと、計量にしくじったらまずいんじゃないの?」


 和緒が疑念を呈すると、町田アンナが「いやいや」と手を振った。


「明日の計量は、二回チャンスがあるんだけどね。一回目でしくじったら、外でも走って汗を流すしかないの。そうしたら、膝に余計な負担がかかるって話だよ」


「なるほど。つくづくシビアな話だねぇ。自堕落なあたしは、心から尊敬しちゃうよ」


「とんでもありません。和緒ちゃんだって、ドラムをこんなに頑張ってるじゃないですか」


「あたしは周囲の暴走に巻き込まれてるだけさ」


 和緒が肩をすくめると、町田ローサは「あはは」と笑った。


「でも、怪我をしたおかげで今日は『KAMERIA』の演奏を聴くことができます。そうしたら気力が充実して、膝の怪我なんてチャラになりますよ」


「うんうん! もうちょい腹がこなれたら開始するからねー!」


 町田アンナが笑顔を届けると、町田ローサも「ありがとう」とまた笑った。

 めぐるは生前の弟と、こんな風に笑顔を交わした覚えがない。かえすがえすも、町田家には温かな家族愛というものが育まれていた。


「そーいえば、明日はハルちゃんたちも来られないんだっけ?」


 町田エレンの問いかけに、町田アンナは「そーなんだよー!」と壁にもたれかかった。


「あっちも、都内でライブなんだってさ! ま、こればっかりはしかたないねー!」


「土曜日だと、ホヅちゃんも来られないもんね。チケットの売り上げって、だいじょぶなの?」


「あー、明日はノルマもないんだよー。その代わりに、どれだけチケットを売ってもバックがないって話だけど……今回ばかりは、ウチらもあんまり貢献できないかなー」


 明日のイベントは前売り券と当日券の区別もないため、観戦の希望者はチケットの予約をする必要もなく会場まで出向いてくるのだ。よって、『KAMERIA』を目当てにするお客がどのていど存在するのかも、まったく把握できていなかった。


「ま、持ち時間は二十五分で、チケット代は千二百円だから、ウチらだけが目当てでも割の悪い話ではないはずだけどねー」


「でも逆に言うと、『KAMERIA』だけが目的のお客を集めても意味は薄いんじゃないのかね。これはあくまで、卒業ライブなんだからさ」


「でも、お客が増えれば経費が浮くじゃん? 会場のレンタル料は部費で出すって話なんだから、浮いた経費は部員であるウチらのもんってことさ!」


 町田アンナがけらけら笑うと、栗原理乃が不思議そうに小首を傾げた。


「でも……部費って、こういうイベントの他には何に使うんだろう? 部室に機材はそろってるから、使い道がないんじゃない?」


「いやいや! 部員が増えたら、どうなるかもわかんないじゃん? 今ある機材だって、だいぶんへばってるっぽいしねー!」


「できることなら、スネアの皮を張り替えてほしいもんだね。バスドラのペダルも、それほど寿命は長くないように思うよ」


「あ……それを言ったら、部室のベースはひどい状態です。きちんとメンテナンスしないと……まともに使えないと思います」


「おー、懐かしー! めぐるもあのベースが弾きづらくって、泣きそうになってたもんね!」


 町田アンナの言葉に、めぐるは赤面してしまう。ただ、気恥ずかしさよりも懐かしさのほうがまさっていた。めぐるは町田アンナと初めて出会った際、部室のベースでセッションに臨むことになり――それで、絶大なる無念を抱え込むことになったのだった。


(それで町田さんが、次の日に自分のベースを持ってくればいいって言ってくれたんだっけ。次の日は土曜日で学校も休みなのに、わざわざ時間を作ってくれて……町田さんは、本当に優しいなぁ)


 めぐるがそんな思い出にひたっていると、和緒が頭を小突いてきた。


「そういう話は、森藤新部長様に提言するべきなんじゃないのかね。ちょうどうってつけのリペアショップにもあてがあるわけだしさ」


「あ、うん、そうだね。……よかったら、かずちゃんから言ってもらえない?」


「ベースは、あんたの担当でしょ。スネアの皮と、部費の争奪戦だね」


「それなら、わたしは黙っておくよ。スネアは、かずちゃんも使うわけだから……」


 和緒は再びめぐるの頭を小突き、町田アンナは「あはは!」と笑った。


「めぐるって、ヨクボーにチュージツだよねー! ま、同じメンバーとしては心強い限りだけど! 今後は『KAMERIA』のことだけじゃなく、部活のことも考えないとねー!」


「はあ……でも、それで『KAMERIA』の活動に影響が出ちゃうのは……すごく気が進まないのですけれど……」


「だから、悪い影響にしなければいいのさ! あのプレベをメンテしたら、めぐるだって弾き放題なわけだしさ! それだって、立派な経験っしょ?」


 そう言って、町田アンナはいっそう明るく力強く笑った。


「新入部員の指導とか、他のバンドの手伝いとかだって、おんなじことさ! 色んな経験をして、それを『KAMERIA』に持ち帰ればいいんだよ! どんな経験だって、無駄になったりはしないだろうしさ!」


「そうそう。あんたは例のセッションバンドで、とてつもない経験を積んだんだろうしね」


 和緒もポーカーフェイスで、そのように言葉を重ねた。

 しかしめぐるは、「うん……」と不明瞭な返事をすることしかできない。めぐるは確かに実力者ぞろいのセッションバンドに放り込まれることで得難い経験を積んだわけだが――軽音学部の活動でそれに匹敵するような経験が詰めるなどとは、なかなか想像が及ばなかったのだった。


(まあ、かずちゃんや町田さんが先輩のバンドを手伝ったら、何かしらの経験を得られるのかもしれないけど……下級生の面倒とかはなぁ……)


 これまで部活動に参加してこなかっためぐるは、上級生や下級生にどのような態度で接すればいいのかもわからないのである。

 しかしまた、めぐるは同級生に対してだって、まともな対応をしてこなかった。『KAMERIA』でつつがなく過ごせているのは、ひたすらメンバーたちの優しさに支えられてのことであるのだ。そんなめぐるが軽音学部という集団の中で、正しく振る舞えるのかどうか――想像するだに、見通しは暗かった。


(まあ、森藤先輩や小伊田先輩とは、そんなに悪い関係じゃないから……みんなを見習って、わたしも頑張ろう)


 そしてその前に、まずは明日の卒業ライブである。

 さらに言うならば、その前にまずは現在のひとときであった。


「じゃ、そろそろ演奏を始めよっか! アンプなしの即席ライブも、一ヶ月ぶりだもんねー!」


 そうして『KAMERIA』は期待に瞳を輝かせる町田家の少女たちの前で、数々の持ち曲を披露することになったのだった。

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